「完全に市民社会化された家庭では、明治から昭和三〇年代まではあまねくあった学校や教師への尊敬や信頼は、もはや存在していない。」(諏訪哲二 学校のモンスター中公新書ラクレ2007 p104)プロ教師の会をリードし多くの著作を残してきた有名教師の言葉である。実感としてよくわかる。実にその通りなのだ。しかし、学校制度を巡る著作でこれが結論だとすれば、私たちはどこにもたどり着くことができない。逆にこれが、かんがえの出発点なのだと思う。私は、彼がこういう発言をするところに現在の問題点の核心があるのではないかと思っている。
「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」?。この文章自体がおかしい。もう少し分析的に述べるべきなのだ。尊敬、信頼は本来無条件にあるものではない。人は自分で判断し尊敬しうるものを尊敬し、軽蔑するべきものは軽蔑する。私の過去を振り返っても、尊敬できる先生もいたが、とても信頼できない先生もいた。尊敬や信頼は個別の関係の中で個別に築かれるものである。それが「あまねくあった」つまり広く殆どの学校と殆どの教師が無条件に尊敬され信頼されていたとすれば、それはもはや現代的な意味での尊敬や信頼ではなく、そういう規範に全ての家庭がが縛られていたと言わなくてはいけない。それは「お盆には家に先祖のたましいを迎え入れ、敬うべきである。」という意味での尊敬と同じ事だ。同書で諏訪は1960年代までの教育が成り立たないことを繰り返し嘆いているが、当たり前である。学校は「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」を利用し、それに依存して成立していたのだから。過去を懐かしがり、現代の学校が抱える問題点を論じるならまず、「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」がどのようなものであるのか、それと制度としての学校がどのように利用していたのか振り返ってみなくてはいけない。その上で、「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」を失った現在、「学校」が成り立つのか、成り立つとすればどのようにして「学校」が運営されるべきなのか考えるのが筋であろう。
バブルの頃から、生徒の質が変わり指導困難を訴えるベテラン教師が多いという報告を様々な場面で聞くようになった。諏訪とて同じ事ではないか。かつて教員は「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」を利用しそれに同期して仕事をしていた。問題は、そのことにどれだけ自覚的かどうかだ。今、そのことをしっかり自覚することからかんがえを進めるべきなのだ。
「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」はどこから来たか。近代国家として学校制度を導入するにあたって日本ほど楽をした国は少ないのではないだろうか。義務教育の必要性を訴え、各家庭の子供達を労働から切り離して学校に通学させるように指導する、そういう努力を明治政府は殆どしないで済んだ、戦後政府もしていない。子供は「読み書き算盤」を最低限身につけるべきだという認識は江戸時代後期既に広く行き渡っっていた。開国で日本を訪れた西欧人は農民の知的水準の高さに驚嘆する。戯作本がはやり、庶民に向けた出版文化が形成されていた。推計では19世紀半ばの識字率は世界最高といわれる。学制が施行されると聞くや、各村内、町内では共同体のシンボルとして一等地にできる限りの設備を持った学校を建設していく。そういう経緯からして、私たちは「学校への尊敬や信頼」をとおく江戸時代から引きずってきたと考えるのが自然だろう。もちろん明治政府はそれを大いに利用し強化し、「立身出世」の競争原理を持ち込んでくるわけだが。 江戸時代後期全国に広く普及した寺子屋で標準のテキストとして使われていたのは儒教。儒教自身が学問の大切さを繰り返し述べた書物でるから、教育の重要性は再強化する形で次世代に引き継がれていた。私は、「学校への尊敬や信頼」は、日本の農村共同体の規範、それを理論的に補強する役割を果たした儒学特に朱子学あたりにその根があるのではないか。
そして、ここにはもう一つの問題点がある。封建時代に教育があまりにも普及していたため、近代社会にとって学校とは何か、教育とはなにか、改めてかんがえ議論する機会を私たちは持たずにやってきてしまった。「教育基本法 前文」とか言う人もいるかも知れない。しかし前述のように各家庭を訪問し「・・・・だからお子さんを学校に行かせなくてはいけない」と各家庭を説得してまわるような事を、近代国家建設以来殆どしていない。「現代社会にとって学校とはなにか」改めて問われたとき国民の大半が最低限共通に語れるようなものを持たずに私たちはここまで来てしまった。極端な言い方をすれば、無条件の「学校への尊敬や信頼」が崩壊したとき、後に何が残っているのか。私たちは初めて気付いたのだ。