児童虐待に思う-孤立する家族

 児童虐待のニュースが相次ぎ、行政とりわけ児童相談所の不手際がマスコミで話題になっている。しかし、問題の根本がそのような所にない事は、皆承知しているはず。児童虐待は、育児の失敗の極端な場合であり、「失敗してしまったらどうするか」(もちろん緊急の課題としてこれも大切だが)、ばかり論ずるのではなく「どうすれば上手く子育てできるのか」をもっと考えるべきではないか。
育児は文化である。人間の子供を育てるには大変手間がかかる。まず、生物的な成長を支える。これだけで大変だ。同時に、人間社会で共に生きるための訓練を重ねなくてはならない。歩く、走るといった運動能力、排泄、食事、着衣、等の日常生活の訓練の他、言語の習得、感情の制御、他者の理解と社会性の獲得・・膨大な量のしつけを誕生から数年の間に行うことになる。我々の日常を振り返ってみても、その生活の大半は、学校に行く前に家庭で身に付けた事で成立している。朝起きて、寝具を片付け、服を着て、洗顔、食事、排泄、会話 等々。
 育児は、子供が生まれたら自然にできるものではない。生まれて一年にも満たないハムスターが、かいがいしく子育てするのを見て驚嘆したことがあるが、人間はハムスターではない。人類は数万年にわたり出産子育てを繰り返し、その経験が文化として蓄積され伝承されてきた。この育児に関する文化を参照することで子育てが成立している。
子育て文化は、あまり意識されることがない。家族、親戚、地域を通じて空気のように自然に伝承されてきたから。今、この伝承が希薄になりつつある事が、問題の根幹ではないかと思う。
 さて、育児の担当者は誰だろうか。両親が専らその責任を負う様な育児方法は、我々の伝承の中にはない。江戸時代まで、人口の九割以上は農民で、農村では、その共同体の中で育児がされてきた。子供は、その共同体の財産であり、共同体の構成員全体が守り育ててきたと。村落にはいろいろな年代の子供がいて、育児の経験は連続的に集団によって受け継がれてきた。育児はその共同体の存続に関わる大切な行為だったはずだ。(あまり美化しすぎるのも問題で、間引きだって行われていた。)専ら両親が育児を担当する事は、明治時代以降徐々に普及した、極めて近代的な経験の浅い事柄ではないだろうか。
 そもそも家族制度は、地域社会の最小単位として成立してきたもので、単独で存在するようにできていない。家族を巡る様々な現代的「病」の大半は、家族の孤立によって生まれてきた。夫婦関係でも、それが二人だけの閉じられた関係であるなら、不安定になって当たり前。育児は喜びにあふれたものである一方で、精神的負荷の大きい行為だ。子育てにしても、夫婦関係にしても、それがうまくいかず負のスパイラルに陥ったとき、家族が閉じられていたら脱出のきっかけがない。
 うまくいかないときに経験を語り助言をしてくれる第三者集団があって育児が成立する。両親からから近所のおばちゃんまで立場も世代も異なる様々な人に囲まれて、家族が健全性を保つことができる。(私のつれあいも、スーパーに買い物に行くと誰かに出会い話し込んでなかなか帰ってこない。これが大切な行為である事に後から気付いた。女性の「井戸端会議」は文化である。地域を緊密にし、家族を支える。)
 他の項でも書いたが、学校教員に対する負担の増加は、子供が、従来学校外で習得してきたものが、学校の仕事に移されてきた事による部分が大きい。いわゆる「社会性」に関する事柄は本来、家と地域で教えられてきたことだ。私が学校教員をしていた三十数年でもその変化はずいぶん感じ取ることができた。やんちゃな生徒は今も昔もいる。だが私が就職当時の子供は、それなりの行動規範を身に付けていて、こちらがそれを理解し筋を通せば、生徒と折り合う妥協点を見出すことは比較的容易だった。大凡、農村部の出身者、都市でも住民のつながりが密接な下町的地域の出身者は、人間的成熟が早く、自己評価も高い。そういう生徒の割合が徐々に減少していった。
 『シャルリとは誰か?』でフランスの右傾化を論じたエマニュエル・トッドは、キリスト教会へ通う人口の変化率統計分析の鍵として用いた。これを地域社会の崩壊速度とみて、これと右傾化傾向に強い相関があることを示している。コミュニティーの崩壊は日本だけの問題ではない。
政治制度の転換は一気に行われるが、そこに暮らす人々の実体的な暮らしはゆっくりとしか変化しないし、その文化には更に強い慣性力が働いている。これらの生む捻れは時間の経過と共に表面化する。結局このことについて、このHPで繰り返し述べることになった。
 児童虐待に話を戻せば、当面の施策としては、育児中の家族が孤立しないための工夫が必要なのではないか。虐待が起きてからその後始末を児童相談所に委ねるのでは遅い。田舎の人口が減少し、都会でも古い商店街は超大型ショッピングセンターに食い荒らされ、地域のコミュニティーはますます解体していくだろう。児童相談所は忙しくなるばかりだ。
 新自由主義の時代、多様な中間共同体をどうしたら形成できるか。私たちの課題であり、その試みは始まっている。