議論を教えること

最近の国会で驚いたこと。

菅総理は「GOTOが感染拡大の主要な要因であるという科学的証拠はない。」からGOTOを続けると言う。ここの理屈のおかしさを野党は追及しない。総理は自覚的に詭弁術を用いているのだろうか。それとも本人も、これは論理的に正しい答弁だと思っているのだろうか。

毒が入っていることが疑われる饅頭を、「毒である科学的evidenceはない」から食べる者はいない。「毒ではない」保証を得てはじめて食べる。

このような詭弁が公の場でまかり通ることが増えた。そして詭弁である事を追求し、そのような論述が潰される事も少ない。また、仮に論理的破綻を追求されても発言者が居直る。

民主主義とは、議論が尽くされることである。『正しい推論の規範』と『議論の過ちを論者が認める倫理規範』が共有されなければ、民主主義は成立しない。選挙の負けを負けたものが認めなければ、選挙そのものが成立しないのと同様。

規範に沿った議論をすること。議論の正しさを判定すること。議論に負けたものがその負けを認めること。これらをどこかでしっかり教える必要がある。民主主義を育てるために。国の最高議決機関や、国政の最高責任者がそのお手本にならないとき、どうやってこれを教えたら良いのだろう。前にも書いたけど。