ものつくり

ものつくりの文化が日本から、子供達から失われている。『創るセンス工作の思考』(森博嗣著 集英社新書)は私の言いたいことを詳細に伝えてくれている。


50年以上前、秋にもなれば、ゴム動力飛行機の大会は全国至る所で行われていた。どんな田舎に行っても、細長い袋に入った飛行機材料セット(実物大設計図・竹ひご・角材・リブ・プロペラ・アルミ管・雁皮紙・ゴムなど)を手に入れることができ、何割かの小学生は飛行機を組み立てる事ができた。組み立て方、調整の仕方は年長者が教えてくれた。子供の科学、模型とラジオ、ラジオの制作、初歩のラジオ等の子供向け工作月刊誌は、田舎町の本屋で手に入った。また結構規模の大きな模型屋さんがあって、プラモデル、鉄道模型、ラジコン飛行機まで様々な工作材料がぎっしり棚を埋め、休日はいつも満員。安価なプラモデルとそれに組み込む「マブチモーター」くらいは近所の雑貨屋でも手に入った。
私自身、ふとしたきっかけから子供の科学を読み始め、それまでの模型作りから電子工作に移行。上記の雑誌を各号表紙がボロボロになるまで読んだ。さらに勉強したくてNHKラジオ技術教科書2冊に手を伸ばす。小遣いが溜まったら、時間をかけて秋葉原のパーツショップへ出かけた。総武線ガード下のパーツショップ街は、休日には子供から大人まで大混雑。


工作の世界は、子供にとって自分の力を自由に伸ばす絶好の場。誰に強制されるでもなく、自分で構想し自分で作る、完全な自己管理の世界。時間は無制限にある。じっくり時間をかけて完成にたどり着けば良い。(半田鏝切って早く寝ろとずいぶん叱られたが。)できあがった物の評価は、自分の満足感による。他者と比較されたり、序列化されることがあっても(飛行機の滞空時間を競ったりとか)それのみが目的では無い。そして制限なく難度の高い世界へ登って行ける。(最後の問題は小遣い銭!)子供向け科学雑誌は、更に難度の高い大人向け雑誌へ、更に専門書への道を開いてくれた。私自身、小学校高学年から中学生の間電子工作に明け暮れた体験が、その後の人生にどれだけ役に立ったか、はかりしれない。


プログラミングとは段取りの抽象化で、情報処理を必修科目にして共通テストに組み入れたら、日本人の情報処理能力が上がるだろうと考えるのは、それこそ小さい時から受験勉強しかしてこなかった人間の発想。手製の郵便受けを作ろうと思ってその段取りを考えたり、晩飯に酢豚を自炊しようとその構想を練ったりそういう実体験の積み重ねがアルゴリズムに強い人間を生む。


先の森氏の書物にも詳しいが、もの作りが最初から構想通りに完成する事はまずあり得ない。想定外のトラブル群に必ず遭遇する。それをとにかく一つずつ解決しなければ完成に至らない。予め用意された解決法は無く、全く新しい対処法を考えなくてはならない場合がある。どれだけ実害の少ない妥協をするか迫られる場合がある。限定された分野の、予め用意された正解に、できる限り短時間でたどり着くためのトレーニングとは根本的に違う。受験勉強とは全く異なる発想の世界が、あった。少年期にこういう体験を積んだ人々の中から、柔軟で独創的な技術者集団が育ち、科学技術の発展を支えたと思う。


現在、子供の世界での、ものつくりの退潮は驚くほど。私の少年期を振り返ると、ゴム動力飛行機やプラモデルは、程度の差こそあれ小学男子の大半が手を染めた。電子工作を趣味にする子も中学で学年に数人はいた。現在、上記の子供向け工作雑誌は、『子供の科学』以外すべて廃刊。かつてあれだけ繁盛していた故郷の模型屋は小さなプラモデル屋さんとして細々と営業している。ゴム動力飛行機の組み立てセットは、かろうじてネットで手に入るくらい。けっこうな広場に行っても、飛行機を飛ばしている子はいないし、北風が吹いても凧を揚げている子すら殆どいない。


その主要な原因として、森氏はコンピューターゲームの普及を指摘しているがそれだけではないだろう。むしろ、日本全体がものつくりの文化を喪失してゆく、その過程の象徴ではないだろうか。「経済成長」とは、生活のあらゆる領域に商品経済が浸透し、人とものとの関わりの直接性が失われていく過程だった。これについて考えなくてはならないことは他に委ねるとして、一つだけ例を挙げる。
1960年代、テレビやラジオを購入すると、「配線図」がウラに貼り付けてあった。これは今の若い世代には信じがたいことかも知れない。昔のテレビ・ラジオはよく故障したけど、多少電気の知識があれば、自分で修理できた。


これからの激動の時代、ものつくりの創造的な体験は教育にとって大切な課題だと思う。
ある意味で条件は揃っている。インターネットを通じれば、昔模型屋さんに並んでいた素材は今でも十分購入可能。むしろ豊富。電子技術は驚くべき進歩を遂げた。真空管は国内製造中止、関連部品も次々製造中止。しかし一方、ラジコン送受信機など軽量小型化した物が数十分の一まで値下がりしている。更に、コンピューター。スマホでも大学の計算機センターに鎮座していた機械を遙かに凌ぐ。高度なプログラミング言語を簡単に入手できる。コンピューター制御できるモーターが安価で手に入る。子供達が、自立型ロボットを趣味で組み立てられる時代が来た。レゴ・マインドストームなんて夢のようだ。教材にしている学習塾もある。十代で出会わなくてむしろよかった。出会ったらひどいことになったと思う・・
インターネットからは、あらゆる分野のものつくり情報が得られる。飛行機、オーディオ、ロボット・・本当に何でも。ものつくり文化を引き継ぐおじさんは、まだ沢山生き残っている。親から子へ、年長者から年少者への伝承が失われても、インターネットがその代役を務めてくれる。問題はこういうものつくりの世界へ子供達を導く回路をどう設定するかだ。(各種ロボットコンテスト、それに対応するロボコン部などは一つの役割を果たしていると言えるだろう)。


消耗な受験勉強を強制するかわりに、ものつくりに熱中する時間を子供達に与えたい。勿論、ものつくりなんて大嫌いな子、不得手な子もいる。スポーツに、音楽に熱中する子もいる。たいせつなのは子供達に自発的に活動空間を選べる自由で豊富な時間を与えること。何かに熱中する世界をひらいてあげること。
ものつくり体験を積んだ子供達が、無理な受験勉強をせずとも入学できる中堅大学に進学し、いわゆる「難関大学」出身者を凌ぐ優れた技術者・研究者が多数育つ、そのような時代が到来しないだろうか。

かつて「新講数学」という学習参考書があった

かつて、三省堂発行「新講数学Ⅰ-Ⅲ」という参考書があった。著者は当時立教大学の教授、数学基礎論の赤摂也氏。刊行は1969年。Ⅱの序文「この本を学ぶ皆さんへ-数学とはどんな学問なのだろうか-」から一部抜粋する。(全文大変素敵な文章なのだけれど・・)


何か困難なものに人を立ち向かわせるとき、よく使われる方法は、こう言い聞かせることである。
“いやちっともむずかしくはないんだよ。ゆったりとした気持ちででやれば。緊張したり恐れたりするのがいけないんだ。なあに、大したことはないさ。”
私が、数学はあたたかい学問だ、味わいのある学問だなどと言えば、諸君の多くは、この種の気休めだろうと思うだろう。しかし、正真正銘、私のは決してそうではない。私自身、体験から、本心そう思っているのである。

<中略>
数学を大学入試と関連づけて考えると、たしかに気が重い。そして、入試で良い点を上げようと思って勉強する数学は、たしかに非人間的であり、融通性がなく、技術的で、・・・といった印象を与えるであろう。無理もない。
どんなおいしいごちそうだって、テーブルマナーの競技場のようなところで食べれば、味も何もあったものではない。

<中略>
数学は“考える”学問だ。ああでもない、こうでもないといろいろの方面からゆっくり考えて、楽しむ学問なのである。もし一度この味を知れば、これは終生忘れられるものではない。一旦そうなれば、諸君は、むさぼるように勉強するようになるだろう。入学試験の準備など自然にできてしまう。
<中略>
私は、この本で、各教材のねらいをくどいまでに説明し、また、その理解を徹底せしめるために練習問題を豊富に集め、数学の真のおもしろさを諸君に伝えようとした。だから、本書では、“数学”そのものにとってたいせつな教材はくどいまでに説明されるが、これに反し、くだらない教材は木で鼻をくくったような扱いしかうけていないのである。


「初歩のラジオ」愛読者で工学系志望だった私は、高1でこの本に出会い、それまで大嫌いだった数学にのめり込むことになった。
内容は序文に書かれたとおり。定理、公式には厳密な証明が付され、数学の専門書と同様のスタイルをとっている。また、前記の数学Ⅱ第4章の前書きにあるように、指導要領の範囲を超え大学初年級の内容にまで踏み込んでいる。まさに、高校生が数学を学習するに相応しい書物だった。理系科目を得意とする生徒、という但し書きはつくのだが。高校教師としての経験からもみても成績上位の生徒にしか勧められない。逆に上位の生徒には是非触れて欲しい書物である事も間違いない。中学生でも読みこなせる生徒がいるだろう。
新講数学は、廃刊となって久しい。(ネットオークションでは定価650円の数学Ⅲに4万円の値がついていた。23年5月)このような書物への需要がなくなってしまったことが廃刊の主要な原因だろう。かつて人口十万に満たない地方都市で普通に手に入った参考書が。現在、街の書店で手に入る高校数学参考書は、入試対策一色。数学の理解そのものを目的として数学に取り組むことが、大半の高校で失われてしまったように思える。


「数学オリンピック」ヘの取り組みは、受験数学より「数学的」だと思われているかもしれない。実際、上位入賞者の中には、優秀な研究者になった人も多いようだ。しかし、限定された分野の試験問題を限定された時間内に一人で解き得点を競う、同じではないか。

数学の問題を解くにあたり、書物を調べること、他者と相談すること、十分な時間をかけること、これらは当たり前のことなのだ。
数学を学ぶことと数学オリンピックとは、登山と、富士山早登り競争ほどの差がある。早登り競争のトレーニングで登山のよろこびを伝えられるだろうか。数千人の中から勝ち抜いた少数の成功者は別として、数学への誤解をより広めることに貢献しているように思われてならない。

新講数学の復刊はできないものだろうか。内容についてこんな希望はある。
① 物理数学への応用はもう少し詳しく。
数Ⅲまでの微積分の知識で、高校物理の力学や電磁気の公式をきちっと書き直す。新講数学が刊行された1970年前後はブルバキ全盛の時代、新講数学もその影響下にある  ように思えるところがある。
② 参考文献のリストを
意欲的読者にこの先がどのように拡がっているのかを示したい。各分野の優れた書物の紹介、  更に取り組みやすいオンライン講座の紹介もあって良い。
新講数学を読みこなす力があれば、その先同じ「勾配」を登り続けることで新しい世界にどんどん到達できる。

どなたかやっていただけないか。

議論を教えること

最近の国会で驚いたこと。

菅総理は「GOTOが感染拡大の主要な要因であるという科学的証拠はない。」からGOTOを続けると言う。ここの理屈のおかしさを野党は追及しない。総理は自覚的に詭弁術を用いているのだろうか。それとも本人も、これは論理的に正しい答弁だと思っているのだろうか。

毒が入っていることが疑われる饅頭を、「毒である科学的evidenceはない」から食べる者はいない。「毒ではない」保証を得てはじめて食べる。

このような詭弁が公の場でまかり通ることが増えた。そして詭弁である事を追求し、そのような論述が潰される事も少ない。また、仮に論理的破綻を追求されても発言者が居直る。

民主主義とは、議論が尽くされることである。『正しい推論の規範』と『議論の過ちを論者が認める倫理規範』が共有されなければ、民主主義は成立しない。選挙の負けを負けたものが認めなければ、選挙そのものが成立しないのと同様。

規範に沿った議論をすること。議論の正しさを判定すること。議論に負けたものがその負けを認めること。これらをどこかでしっかり教える必要がある。民主主義を育てるために。国の最高議決機関や、国政の最高責任者がそのお手本にならないとき、どうやってこれを教えたら良いのだろう。前にも書いたけど。

ジオジブラ(GeoGebra)

次の図はz軸に対し捻れの位置ある線分を、z軸のまわりに回転させてできる立体。これを、板書だけで生徒に納得させるのは、結構難しい。軸からの最短距離を計算すれば、曲面は推測できるが、なかなか実感できない。これをGeoGebraは、簡単に表現してくれる。これは、GeoGebraで作成し、Htmlに「エクスポート」してBlogに埋め込んだもの。左のスライダーをマウスで動かせば、回転角を調節できる。右の3D画面は、マウスのドラッグによって自由に視点を移動できる。スクロールホイールで拡大・縮小も自由。立体をあらゆる視点から眺められる。これがプロジェクターでホワイトボードに投影できたら。

GeoGebraは、ヨーロッパで開発された数学ソフトで、ネット上でフリーに供給されている。まずは、GeoGebra日本語ホームページ をご覧いただきたい。web版、ダウンロード版などのソフトとその大凡の解説がある。その長所をあげてみると、

・なんと言っても、無料!。(Mathematica は2万円以上)生徒にも気楽にインストールを薦められる。

・上の例のように、グラフ、図形、曲面、立体などの動的な表現力にきわめて優れる。特に3Dが凄い。スライダーで定数を変化させたり、自動でスライダーを動かしてアニメーションにしたり、点を直接ドラッグして図形を変形することもできる。上の図は、2つの媒介変数で表された曲面になるが、あっさりと描画してくれる。

・作業手順が記録され、作成が比較的簡単。あとから手を加え調整するのも楽。グラフィック画面に直接書き込むと、手順が数式入力画面に記録される。数式入力画面に書き込むことで、グラフィック画面を描くこともできる。大凡の概形を作り上げてから、色、点の大きさ、線の太さ、ラベル、書き込みテキストなど調整して仕上げてゆける。中学校の図形程度なら、教室で生徒と対話しながら少しずつ書いていくのも面白いだろう。「ちょっと色変えてみようか・・」とか言いながら。

逆に欠点をあげると

・ヨーロッパ発のフリーソフトで、日本語の充実したHELPファイル、またはマニュアル本がない。手探りで習得することになる。例えば数式入力画面のエディターにも独特の癖があって、(Excel等と違い[enter]押すまでに既に解析が始まっている)慣れが必要。先のホームページで概略は分かる。使い方を解説した日本語ページも多くあるけれど、全体性に欠け、その上旧バージョンを元にしていて、現在のバージョンと合わないものも多い。

・特にファイルの出し入れが不明確。一度ログオンしてしまうと、ネット上に保存場所ができてしまい、インターネットに接続している限り保存場所が選べない。自分の思うところにファイルを書き込むには、逆に「ダウンロード」することに。

・思わぬところで動作が不安定。例えば、3D画面で2D画面上の領域を表示させると、どうもおかしい。でも無料なのだから我慢しなくては。今のところ、こちらのOSに実害を加えるようなことはない。(バグは報告できる。)

・数式処理も可能だけれど、その能力は、長年愛用してきた derive 等に比べると見劣りするように思える。

とにかく、Geogebra は、素晴らしいソフト。私も未だその機能の一部しか知らない。コマンドリストは膨大。どう作ったか想像もつかないすぐれた作品がネット上には数多く存在する。学校の先生には、コロナウイルスが収束するまでの時間の一部を使って、習得されることを是非オススメしたい。使っていくうちに、「くせ」がわかり慣れていく。私もその一人だ。教材も数多くネットにあがっているので、多くの先生方がこれを共有されることを願う。また、図を描き、着色が簡単なので、小学生にも使えそうである。

自作GeoGebra ファイル(*.ggb)を置いてみる。GeoGebra をインストールするか、Web版を開いて、読み込むと見られると思う。最初は2020年度京都大学入試問題6。このような問題を簡単に視覚化できるから有り難い。計算量が多く、結構重たくなってしまった。一つのシートでできる事の限界だろうか。

次は定番の、二次関数の最大最小。FunctioViewでも同様のことはできるけれどスライダーが使え、設定の自由度もこちらの方が大きいと思う。

空間の軌跡。定点と円周上の動点を通る直線と、平面との交点の軌跡。円錐曲線論から言えば、放物線になるのは分かるのだけれど、こうやって動的図形を作ることができて、あらゆる方向から眺められるのは凄い。

ゲド戦記 賛

 ゲド戦記を読み返している。正確には、ペーパーバック版 The Earthsea Cycle 全六巻 を順に読み直している。海外旅行や外国からの客を迎えるなど、頭に「英語」部分を作らなくてはならないとき準備作業にゲド戦記を読む。今、数学を教えている生徒から専門外の英語も頼まれ、とりあえず英語を鍛え直すため、またゲド戦記を読んでいる。
 出会いは、河合隼雄著作集第4巻『児童文学の世界』から。英語の勉強を兼ねて第一巻 A Wizard of Earthsea を読み虜になる。最初の三巻は1968年から72年にかけて出版され、一応完結している。河合さんの紹介もここまで。ところが二十年後の90年に続編第四巻が出版された。90年代半ばThe Earthsea Quartetと呼ばれていた四冊を立て続け読んだ。ところが、2001年に第五巻と、外伝としての小品集が現れる。これらも含め、幾度となく読みかえし今日に至る。残念ながら、著者ル=グインは2018年に亡くなり、もうこれ以上アースシーのお話しの先を聞くことはできなくなってしまった。
 主人公ゲドの少年期から老年までを追うシリーズなのだが、いわゆる伝記ではなく、一巻で思春期の数年、二巻は20代の数ヶ月、三巻は更に20年後の半年、四巻はそれに接続する凡そ一年、五巻は更に20年後の数ヶ月の話。(「外伝」最終話 Dragonfly は、時間の流れからすると、第4巻と第5巻の中間に当たり、第5巻の伏線になっているので、初めて読むならこの順が分かり易い。)
 ゲド戦記はヤング・アダルト向けファンタジー、思春期の子供が読むことを想定して書かれている。文章は易しい。しかしその内容は、大人が読んで十分手応えがある。優れた芸術作品がそうであるように、彼女の提示した世界は、多様な理解を許す。子供受けする面白さを狙って書かれた「ハリーポッター」とは品格が違う。思春期の自立から、生と死、男と女、言葉と世界、等に至る示唆と考察にあふれ、著者自身の思索過程がこの五巻に込められている。第四巻は男と女の問題を第二巻から二十年の思索を経て深めたお話し、第五巻は生と死の問題を第三巻から三十年の著者の人生から見直したお話しのようにも読める。
 因みに、ル=グインはフェミニズムに関する発言も多く、ジェンダー論に直接かかわるSF『闇の左手』(The Left Hand of Darkness)もある。両性具有人の住む惑星に地球人が降りたって・・
 内容の素晴らしさは、河合先生が50ページにわたって語っていらっしゃるのでこれ以上はそちらに譲ろう。思春期にこの物語と出会うのはしあわせなことだ。思春期にゲド戦記全巻通読できて、青年期に村上春樹の著作を全部まとめて読める今の子供たちは恵まれている。
ゲド戦記のもう一つのポイントは、描写・文章の魅力。リズム感のある簡潔な文体。それによって描かれる静謐な世界。門外漢の私がおこがましいかも知れないが、乏しい英語読書体験の中でも彼女の文章のうつくしさは際立つ。(ように私には感じられる。電子辞書のおかげで私でも寝転がってペーパーバックが楽しめる。)彼女のエッセイ集『the Wave in the Mind』(ファンタジーと言葉 岩波現代文庫)収録の「Rhythmic Pattern in The Lord of the Rings」で、彼女はトールキンの文体を詳しく分析している。(指輪物語全巻約1600ページを三度子供のために読み聞かせたと!)それ位、彼女自身文体について意識的。残念なのは、日本語訳がそれを伝えきれているとは言い難いことだ。一巻の最初日本語訳を読み始め、原著の持つ世界を汚されているような気がして途中で止めてしまった。もう少し日本語の文章力がある翻訳家が改訳してくれると嬉しいのだが。「ナルニア」「指輪」が瀬田貞二の文章力で支えられているように。もしくは、原理的に無理なことなのかも知れないが。村上先生。「空飛び猫」だけではなく、「ゲド戦記」も訳してほしいな。
 もう一つ、気になるのは駄作アニメ「ゲド戦記」の存在。ル=グイン自身が、「私の作品とは全く別物」と言い切り、細部にわたって批判を加えた文章が、インターネット上に残っている。ストーリー改ざんからして、原作が全く読めていない、原著者に対する敬意が払われていない証拠で、勿論アースシーを壊したくないから私は絶対見ない。このアニメのために原著ゲド戦記の評価が下がる事が無いよう祈るばかりだ。
付け加えると、今世紀に入り出版された the Annals of the Western Shore (西のはての年代記)全三巻はゲド戦記ほど知られていないようだが、これも魅力ある年代記。ゲド戦記がざっくり言うと人の生と死をテーマとしていたのに対し、家族や社会と個人の関係がより細かく書き込まれ、個と共同体の問題に焦点が移っている。
とにかくゲド戦記が日本の子供たちの必読書としてより広く読まれることを願う。原著は英検2級、英語マーク模試で七割取れる生徒には読めるようである。楽しみながらできる受験勉強教材として、もっと活用されてよいと思う。

全五巻にわたる長大な物語はこのような文章で終わる。自宅に戻った Tenar は Ged に
“Tell me,” she said, “tell me what you did while I was gone.”
“Kept the house.”
“Did you walk in the forest?”
“Not yet,” he said.

児童虐待に思う-孤立する家族

 児童虐待のニュースが相次ぎ、行政とりわけ児童相談所の不手際がマスコミで話題になっている。しかし、問題の根本がそのような所にない事は、皆承知しているはず。児童虐待は、育児の失敗の極端な場合であり、「失敗してしまったらどうするか」(もちろん緊急の課題としてこれも大切だが)、ばかり論ずるのではなく「どうすれば上手く子育てできるのか」をもっと考えるべきではないか。
育児は文化である。人間の子供を育てるには大変手間がかかる。まず、生物的な成長を支える。これだけで大変だ。同時に、人間社会で共に生きるための訓練を重ねなくてはならない。歩く、走るといった運動能力、排泄、食事、着衣、等の日常生活の訓練の他、言語の習得、感情の制御、他者の理解と社会性の獲得・・膨大な量のしつけを誕生から数年の間に行うことになる。我々の日常を振り返ってみても、その生活の大半は、学校に行く前に家庭で身に付けた事で成立している。朝起きて、寝具を片付け、服を着て、洗顔、食事、排泄、会話 等々。
 育児は、子供が生まれたら自然にできるものではない。生まれて一年にも満たないハムスターが、かいがいしく子育てするのを見て驚嘆したことがあるが、人間はハムスターではない。人類は数万年にわたり出産子育てを繰り返し、その経験が文化として蓄積され伝承されてきた。この育児に関する文化を参照することで子育てが成立している。
子育て文化は、あまり意識されることがない。家族、親戚、地域を通じて空気のように自然に伝承されてきたから。今、この伝承が希薄になりつつある事が、問題の根幹ではないかと思う。
 さて、育児の担当者は誰だろうか。両親が専らその責任を負う様な育児方法は、我々の伝承の中にはない。江戸時代まで、人口の九割以上は農民で、農村では、その共同体の中で育児がされてきた。子供は、その共同体の財産であり、共同体の構成員全体が守り育ててきたと。村落にはいろいろな年代の子供がいて、育児の経験は連続的に集団によって受け継がれてきた。育児はその共同体の存続に関わる大切な行為だったはずだ。(あまり美化しすぎるのも問題で、間引きだって行われていた。)専ら両親が育児を担当する事は、明治時代以降徐々に普及した、極めて近代的な経験の浅い事柄ではないだろうか。
 そもそも家族制度は、地域社会の最小単位として成立してきたもので、単独で存在するようにできていない。家族を巡る様々な現代的「病」の大半は、家族の孤立によって生まれてきた。夫婦関係でも、それが二人だけの閉じられた関係であるなら、不安定になって当たり前。育児は喜びにあふれたものである一方で、精神的負荷の大きい行為だ。子育てにしても、夫婦関係にしても、それがうまくいかず負のスパイラルに陥ったとき、家族が閉じられていたら脱出のきっかけがない。
 うまくいかないときに経験を語り助言をしてくれる第三者集団があって育児が成立する。両親からから近所のおばちゃんまで立場も世代も異なる様々な人に囲まれて、家族が健全性を保つことができる。(私のつれあいも、スーパーに買い物に行くと誰かに出会い話し込んでなかなか帰ってこない。これが大切な行為である事に後から気付いた。女性の「井戸端会議」は文化である。地域を緊密にし、家族を支える。)
 他の項でも書いたが、学校教員に対する負担の増加は、子供が、従来学校外で習得してきたものが、学校の仕事に移されてきた事による部分が大きい。いわゆる「社会性」に関する事柄は本来、家と地域で教えられてきたことだ。私が学校教員をしていた三十数年でもその変化はずいぶん感じ取ることができた。やんちゃな生徒は今も昔もいる。だが私が就職当時の子供は、それなりの行動規範を身に付けていて、こちらがそれを理解し筋を通せば、生徒と折り合う妥協点を見出すことは比較的容易だった。大凡、農村部の出身者、都市でも住民のつながりが密接な下町的地域の出身者は、人間的成熟が早く、自己評価も高い。そういう生徒の割合が徐々に減少していった。
 『シャルリとは誰か?』でフランスの右傾化を論じたエマニュエル・トッドは、キリスト教会へ通う人口の変化率統計分析の鍵として用いた。これを地域社会の崩壊速度とみて、これと右傾化傾向に強い相関があることを示している。コミュニティーの崩壊は日本だけの問題ではない。
政治制度の転換は一気に行われるが、そこに暮らす人々の実体的な暮らしはゆっくりとしか変化しないし、その文化には更に強い慣性力が働いている。これらの生む捻れは時間の経過と共に表面化する。結局このことについて、このHPで繰り返し述べることになった。
 児童虐待に話を戻せば、当面の施策としては、育児中の家族が孤立しないための工夫が必要なのではないか。虐待が起きてからその後始末を児童相談所に委ねるのでは遅い。田舎の人口が減少し、都会でも古い商店街は超大型ショッピングセンターに食い荒らされ、地域のコミュニティーはますます解体していくだろう。児童相談所は忙しくなるばかりだ。
 新自由主義の時代、多様な中間共同体をどうしたら形成できるか。私たちの課題であり、その試みは始まっている。

教員の孤立-町田総合高校の動画

 一月中旬、生徒を殴る教師の動画がネットに投稿され、マスコミに大きく取り上げられた。「手を上げた教師ももちろん悪いが、生徒も悪い」当たりがこの動画の評価で、後は『炎上』に話題が移っていった。殴った教員、暴言を吐いた生徒、これを撮影しネットにあげた生徒。これらに対する評価はされている。しかし、この学校の教員集団についての言及があまり見られない。

 私は、こんな学校で働きたくない。生徒とトラブルを起こしたとき誰も助けに来てくれない。

 動画を見ると後方に生徒ではない人物が写っている。この人物は、生徒と教師を眺めて立ち去ってしまう。隣の教室から生徒が出てきて止めに入り終わっている。廊下にあれだけ罵り声が響いていて、他の教室の教員が出て来ない。教員が集まらない。「健全」な学校ではあり得ないことだ。同僚が孤立し生徒と揉めていたら、しかも、あのように生徒が興奮していたら、まず立ち会う。状況によっては更に同僚を集める。教員の頭の中にあるべき「危機管理マニュアル」の基本が、この学校の教員集団には欠落している。私自身、教員室から飛び出し全力で走った経験が何度もある。当たり前のことだ。
このような生徒は、他の生徒が見ている前では体面上引くわけに行かない。生徒の側には、体面を傷つけずに矛を収める口実が必要になる。『大勢の教師に囲まれた』は、その最初になり得る。そして、生徒を他の生徒の目線から外す。他の生徒がら隔離する。教員室なり別室へ連れて行くわけだが、これも教員一人では難しい。複数の教員で生徒を連れて行き、他の教員は野次馬生徒をそれぞれの教室に戻し、指示を与える。
高校では、教師の指示に従わず生徒の側から教師に向かって暴力的対応をした場合に、厳しい処罰が科せられることになる。あの動画のように教師が一人孤立してしまった場合、生徒を厳罰から守るため敢えて教師の側が先に手を出す、選択肢はあり得る。また、「殴られたので、先生の言うことに従った」となれば生徒の側で言い訳になる。体面を保って平静に戻ることができる。生徒を暴力的に従わせるのではない。生徒に矛を収める口実を提供するため、自分の処罰を覚悟して、生徒に手を出す。でも、これは最終手段。誰もこのような事はしたくない。そのために、教員の協力が要る。
学校は、大規模な生徒集団をその十分の一以下の教員で管理しなければならない。生徒が学校を潰すのは簡単なことで、何割かの生徒が示し合わせて授業のボイコットを続ければいい。また、どんなに「指導力」のある教員でも、興奮した数十人の生徒に囲まれたら何もできない。学校というのはそういうところだ。だから、教員が強い結束力を保つ事は、学校が機能するための第一条件。学校は教員の集団指導によって成り立つ。教員会議で激論を闘わせる相手であったとしても、生徒の前では同志。間違った指導をしているなと思っても、生徒の前では教員擁護。個人的には一分一緒にいるのも嫌な教員でも生徒の前では仲間。『Staff』として緊密な連係プレーを取り、統一された指導方針で生徒に接する。「校内暴力」と言われた時代、学校を正常に保つため、教員誰もが承知していたことが、忘れられてはいないか。
 教員の個別管理が元凶。自分の担任するクラスさえ良ければいい。自分の授業さえ良ければ良い。それだけではない。余計なことはしない方がいい。自分が持つ方法論は同僚に教えない方がいい。更に、他の教員は失敗した方がいい。このような傾向は教員評価の論理的帰結として少しずつ学校を覆っていくだろう。
そして、廊下で孤立する教員の姿がインターネットに投稿される。
 教員は大工もしくは落語家と同じ職人芸。一人前になるのに十五年はかかる。その間、先輩教員について技と知識を学ぶ。先輩は後輩を教える。仕事は教員相互で評価する。生徒は集団で指導する。トラブルには集団で対処する。百年を超す学校制度の歴史が示すノウハウである。それを文部科学省が、新自由主義が壊している。

Excelで数学プリントを自動作問

インターネット上で数学の練習プリントが数多く出ているが、そのほとんどが固定されたpdfファイルだ。中に、出来杉君のような、表示するたび違った値を作る優れものもあるけれど。エクセルファイルのものも散見するが、再作問のためにマクロを使用し、(営業用に?)そのマクロが簡単には見ることができないようにできていて、自作のための参考にはならない。
 数学の基礎は計算力だ。「考える力」とか言う人もいるが、別項でも書いたように、数学の力とは、数的表現の処理能力だ。その力を付けるためには、基礎的な計算の反復訓練が是非とも必要だ。中学、高校生で数学を苦手とする生徒の多くは、基礎計算の反復トレーニング不足。これを補うことで数学の理解が飛躍的に向上することがある。キャッチボールの練習不足では、バントシフトの練習など出来るわけがないのだ。
エクセルを使えば、基礎トレーニングのドリルを毎回違った値で無限に作成できる(場合がある)。このようなファイルがを余り見かけないので、その方法を書いて、サンプルを上げてみようと思う。

使用する主なエクセル関数。
・乱数関数 =rand()
・切り捨て関数 =int()
    =int(rand()*10+1) で1~10までの整数を乱数として発生する→randbetween(1,10)でも同様
    =int(rand()*2)*2-1 で+1と-1をランダムに発生する
・順位付け =rank(A, B) AのB範囲での順位を示す。
      =small(A,B) Aの範囲から小さい順にB番目の値を拾い出す。 =large(A,B)は大きい方から
・表参照 =vlookup(A ,B,C) B範囲の表のA行目のC列を読み出す。Bには名前を付けておくと便利。
     =hlookup(A,B,C) B範囲の表のA列目のC行を読み出す

 単順に乱数で問題を作ると、重複が起きる。また不適切な値を避けるために複雑な if 関数を埋め込むことになる場合もある。これを避けるにはマクロなどを用い予め一覧表を作っておいて、乱数と表参照を用いて数値を選び出し、必要なら順位づけを用いて易しい順に並べる。サンプルであげたワークシートは大半この方法で作られている。
 例えば50題から10題選ぶには、50個乱数(rand)を作りそのうち10個について50個中の順位(rank)を計算する。こうすると1から50までの整数から重複無く10個を選べる。(これは結構有名な方法ですよね。)表からその番にある数値を読み出し(vlookup)問題を作る。
 マクロを使用するのはワークシート作成時の一回だけ。書くのに手間がかかる場合もあるが、数千通りの組み合わせでも瞬時に表にできる。これを適当に削って数値の一覧を作る。 
 また、オプション→数式→計算方法 でブックの計算を「手動」にしておき、[f9] キーを押したときだけ再計算するようにして、ちょっと触っただけで問題が変わってしまうことを防いでいる。
 テーマからは逸れるが、エクセルに付随するマクロ機能のうちプログラミングをコントロールしているヴィジュアルベーシック(VBA)は本格的なプログラム言語。結果を簡単にワークシートに反映できる。エクセルに予め含まれているから、オプションでマクロ有効化の設定さえすればすぐ使える。わざわざ言語を入手する必要が無い。子供たちのプログラミング学習にお手軽だと思うのが。

エクセル利用のメリット
・乱数を利用して、繰り返し異なるプリントを作成できる
・計算が速い
エクセルワークシートの組み込み関数は計算が大変速い。数千個程関数を埋め込んでもほとんどストレスにならない。なるべくマクロを使わずワークシート内で全て処理するのが、エクセル使いこなしのコツだ。それと近年のCPU自身の高速化。1980年代のスパコンを凌ぐ性能があるのだから。25年程前のロータス123では、ちょっとたくさん関数を使用すると、再計算が遅く使い物にならなかった。
・数学を苦手とする生徒の基礎力付けるために最適
考え方もさることながら、まず計算力を付けることが最重要。自然数の四則計算、分数の処理、負の数の処理、文字式の処理。生徒のつまずきに合わせて繰り返しトレーニングをさせるためのドリル作りが容易。一度作ってしまえば、次からは1秒かからずに違った数値の問題を作成できる。

エクセル利用の難しいところ
・体裁を整える機能がワープロほど無い。特に文字式のランダムな表示に手間がかかる。

 以下、サンプルとしてダウンロード可能なワークシートを多少あげてみます。適当に改造してご自由にお使い下さい。安全のため *.xlsx 形式のエクセルファイルにしてあります。すべてマクロ無し、ワークシートの再計算機能だけで新しいプリントを作ります。営業ではありませんので、隠しシートもありません。中身の仕組みはすべて公開してあります。(思いつきで継ぎ足しを重ね、温泉旅館のように込み入ってしまったものもありますが。)自由に改造してお使い下さい。エクセルの計算シートですから、著作権もなにもありません。忙しい先生方の業務軽減に少しでも役立てば幸いです。
書式の変更、印刷範囲の指定と印刷など、基本的なExcelの使い方は他で学習して下さい。ご意見ご要望あれば、qf4jt4793アットgmail.com までご連絡下さい。ご希望のものをアップできるかも知れません。

以下、[目次]を参照してサンプルをご覧下さい。印刷設定は使用するプリンターによって微妙に異なるので、印刷範囲・セルの大きさ・文字の大きさ等微調整が必要になる場合もあると思います。