かつて「新講数学」という学習参考書があった

かつて、三省堂発行「新講数学Ⅰ-Ⅲ」という参考書があった。著者は当時立教大学の教授、数学基礎論の赤摂也氏。刊行は1969年。Ⅱの序文「この本を学ぶ皆さんへ-数学とはどんな学問なのだろうか-」から一部抜粋する。(全文大変素敵な文章なのだけれど・・)


何か困難なものに人を立ち向かわせるとき、よく使われる方法は、こう言い聞かせることである。
“いやちっともむずかしくはないんだよ。ゆったりとした気持ちででやれば。緊張したり恐れたりするのがいけないんだ。なあに、大したことはないさ。”
私が、数学はあたたかい学問だ、味わいのある学問だなどと言えば、諸君の多くは、この種の気休めだろうと思うだろう。しかし、正真正銘、私のは決してそうではない。私自身、体験から、本心そう思っているのである。

<中略>
数学を大学入試と関連づけて考えると、たしかに気が重い。そして、入試で良い点を上げようと思って勉強する数学は、たしかに非人間的であり、融通性がなく、技術的で、・・・といった印象を与えるであろう。無理もない。
どんなおいしいごちそうだって、テーブルマナーの競技場のようなところで食べれば、味も何もあったものではない。

<中略>
数学は“考える”学問だ。ああでもない、こうでもないといろいろの方面からゆっくり考えて、楽しむ学問なのである。もし一度この味を知れば、これは終生忘れられるものではない。一旦そうなれば、諸君は、むさぼるように勉強するようになるだろう。入学試験の準備など自然にできてしまう。
<中略>
私は、この本で、各教材のねらいをくどいまでに説明し、また、その理解を徹底せしめるために練習問題を豊富に集め、数学の真のおもしろさを諸君に伝えようとした。だから、本書では、“数学”そのものにとってたいせつな教材はくどいまでに説明されるが、これに反し、くだらない教材は木で鼻をくくったような扱いしかうけていないのである。


「初歩のラジオ」愛読者で工学系志望だった私は、高1でこの本に出会い、それまで大嫌いだった数学にのめり込むことになった。
内容は序文に書かれたとおり。定理、公式には厳密な証明が付され、数学の専門書と同様のスタイルをとっている。また、前記の数学Ⅱ第4章の前書きにあるように、指導要領の範囲を超え大学初年級の内容にまで踏み込んでいる。まさに、高校生が数学を学習するに相応しい書物だった。理系科目を得意とする生徒、という但し書きはつくのだが。高校教師としての経験からもみても成績上位の生徒にしか勧められない。逆に上位の生徒には是非触れて欲しい書物である事も間違いない。中学生でも読みこなせる生徒がいるだろう。
新講数学は、廃刊となって久しい。(ネットオークションでは定価650円の数学Ⅲに4万円の値がついていた。23年5月)このような書物への需要がなくなってしまったことが廃刊の主要な原因だろう。かつて人口十万に満たない地方都市で普通に手に入った参考書が。現在、街の書店で手に入る高校数学参考書は、入試対策一色。数学の理解そのものを目的として数学に取り組むことが、大半の高校で失われてしまったように思える。


「数学オリンピック」ヘの取り組みは、受験数学より「数学的」だと思われているかもしれない。実際、上位入賞者の中には、優秀な研究者になった人も多いようだ。しかし、限定された分野の試験問題を限定された時間内に一人で解き得点を競う、同じではないか。

数学の問題を解くにあたり、書物を調べること、他者と相談すること、十分な時間をかけること、これらは当たり前のことなのだ。
数学を学ぶことと数学オリンピックとは、登山と、富士山早登り競争ほどの差がある。早登り競争のトレーニングで登山のよろこびを伝えられるだろうか。数千人の中から勝ち抜いた少数の成功者は別として、数学への誤解をより広めることに貢献しているように思われてならない。

新講数学の復刊はできないものだろうか。内容についてこんな希望はある。
① 物理数学への応用はもう少し詳しく。
数Ⅲまでの微積分の知識で、高校物理の力学や電磁気の公式をきちっと書き直す。新講数学が刊行された1970年前後はブルバキ全盛の時代、新講数学もその影響下にある  ように思えるところがある。
② 参考文献のリストを
意欲的読者にこの先がどのように拡がっているのかを示したい。各分野の優れた書物の紹介、  更に取り組みやすいオンライン講座の紹介もあって良い。
新講数学を読みこなす力があれば、その先同じ「勾配」を登り続けることで新しい世界にどんどん到達できる。

どなたかやっていただけないか。