ゲド戦記 賛

 ゲド戦記を読み返している。正確には、ペーパーバック版 The Earthsea Cycle 全六巻 を順に読み直している。海外旅行や外国からの客を迎えるなど、頭に「英語」部分を作らなくてはならないとき準備作業にゲド戦記を読む。今、数学を教えている生徒から専門外の英語も頼まれ、とりあえず英語を鍛え直すため、またゲド戦記を読んでいる。
 出会いは、河合隼雄著作集第4巻『児童文学の世界』から。英語の勉強を兼ねて第一巻 A Wizard of Earthsea を読み虜になる。最初の三巻は1968年から72年にかけて出版され、一応完結している。河合さんの紹介もここまで。ところが二十年後の90年に続編第四巻が出版された。90年代半ばThe Earthsea Quartetと呼ばれていた四冊を立て続け読んだ。ところが、2001年に第五巻と、外伝としての小品集が現れる。これらも含め、幾度となく読みかえし今日に至る。残念ながら、著者ル=グインは2018年に亡くなり、もうこれ以上アースシーのお話しの先を聞くことはできなくなってしまった。
 主人公ゲドの少年期から老年までを追うシリーズなのだが、いわゆる伝記ではなく、一巻で思春期の数年、二巻は20代の数ヶ月、三巻は更に20年後の半年、四巻はそれに接続する凡そ一年、五巻は更に20年後の数ヶ月の話。(「外伝」最終話 Dragonfly は、時間の流れからすると、第4巻と第5巻の中間に当たり、第5巻の伏線になっているので、初めて読むならこの順が分かり易い。)
 ゲド戦記はヤング・アダルト向けファンタジー、思春期の子供が読むことを想定して書かれている。文章は易しい。しかしその内容は、大人が読んで十分手応えがある。優れた芸術作品がそうであるように、彼女の提示した世界は、多様な理解を許す。子供受けする面白さを狙って書かれた「ハリーポッター」とは品格が違う。思春期の自立から、生と死、男と女、言葉と世界、等に至る示唆と考察にあふれ、著者自身の思索過程がこの五巻に込められている。第四巻は男と女の問題を第二巻から二十年の思索を経て深めたお話し、第五巻は生と死の問題を第三巻から三十年の著者の人生から見直したお話しのようにも読める。
 因みに、ル=グインはフェミニズムに関する発言も多く、ジェンダー論に直接かかわるSF『闇の左手』(The Left Hand of Darkness)もある。両性具有人の住む惑星に地球人が降りたって・・
 内容の素晴らしさは、河合先生が50ページにわたって語っていらっしゃるのでこれ以上はそちらに譲ろう。思春期にこの物語と出会うのはしあわせなことだ。思春期にゲド戦記全巻通読できて、青年期に村上春樹の著作を全部まとめて読める今の子供たちは恵まれている。
ゲド戦記のもう一つのポイントは、描写・文章の魅力。リズム感のある簡潔な文体。それによって描かれる静謐な世界。門外漢の私がおこがましいかも知れないが、乏しい英語読書体験の中でも彼女の文章のうつくしさは際立つ。(ように私には感じられる。電子辞書のおかげで私でも寝転がってペーパーバックが楽しめる。)彼女のエッセイ集『the Wave in the Mind』(ファンタジーと言葉 岩波現代文庫)収録の「Rhythmic Pattern in The Lord of the Rings」で、彼女はトールキンの文体を詳しく分析している。(指輪物語全巻約1600ページを三度子供のために読み聞かせたと!)それ位、彼女自身文体について意識的。残念なのは、日本語訳がそれを伝えきれているとは言い難いことだ。一巻の最初日本語訳を読み始め、原著の持つ世界を汚されているような気がして途中で止めてしまった。もう少し日本語の文章力がある翻訳家が改訳してくれると嬉しいのだが。「ナルニア」「指輪」が瀬田貞二の文章力で支えられているように。もしくは、原理的に無理なことなのかも知れないが。村上先生。「空飛び猫」だけではなく、「ゲド戦記」も訳してほしいな。
 もう一つ、気になるのは駄作アニメ「ゲド戦記」の存在。ル=グイン自身が、「私の作品とは全く別物」と言い切り、細部にわたって批判を加えた文章が、インターネット上に残っている。ストーリー改ざんからして、原作が全く読めていない、原著者に対する敬意が払われていない証拠で、勿論アースシーを壊したくないから私は絶対見ない。このアニメのために原著ゲド戦記の評価が下がる事が無いよう祈るばかりだ。
付け加えると、今世紀に入り出版された the Annals of the Western Shore (西のはての年代記)全三巻はゲド戦記ほど知られていないようだが、これも魅力ある年代記。ゲド戦記がざっくり言うと人の生と死をテーマとしていたのに対し、家族や社会と個人の関係がより細かく書き込まれ、個と共同体の問題に焦点が移っている。
とにかくゲド戦記が日本の子供たちの必読書としてより広く読まれることを願う。原著は英検2級、英語マーク模試で七割取れる生徒には読めるようである。楽しみながらできる受験勉強教材として、もっと活用されてよいと思う。

全五巻にわたる長大な物語はこのような文章で終わる。自宅に戻った Tenar は Ged に
“Tell me,” she said, “tell me what you did while I was gone.”
“Kept the house.”
“Did you walk in the forest?”
“Not yet,” he said.