諏訪哲二 学校のモンスター からの引用
学校が子供(「私以前の私」)を社会的個人(「私」)にすると信じられていたのは一九六〇年頃まで日本の「農業社会的」近代においてである。現在は子供たちは学校へ入るとき、すでに「個」の意識を強く持っている。学校より先に、テレビなどの情報メディアやお金(市場経済)が、子供たちを消費主体としての個人に仕立て上げている。P103
これから学校で育成すべきなのは、生きることの価値にかかわる、あるいは、よりよく生きることを目指す垂直的、かつ「公共的な個」(公を内面化した「私」)であろう。P104
大きく分けて二点の問題を指摘したい。
「農業社会的」近代=あまねくあった学校への信頼の時代なのだろう、子供を社会的個人にすると信じることができたのだろう。しかし、それは教師が勝手に信じていただけで実体はそうではない。これまで仕事をしてきた経験からそう思う。この三〇年を見ても子供達の社会性は未熟化する傾向にある。かつての子供達の方が集団形成に熟達していた。かつて、子供達は学校で生徒として振る舞うに必要な能力を身につけて学校に入ってきた。もしくは生徒として育てる事が可能な下地を入学時には形成していた。そう言い換えるべきなのだ。学校が社会性を養っていたのではない。子供達の社会性を育てる過程の一翼を担うことが容易であったにすぎない。
個とは他者の意識と対になったものである。21世紀の消費社会の個の意識について私には論じる能力はない。ただ実感として近年の子供達は自我の輪郭が不明瞭で「個」としての意識を強く持っているようにはとても思えない。消費主体として合理的に生きるにはどうすればよいかわかっている生徒達ばかりなら、それはそれで指導しやすいクラスが生まれるに違いないからだ。どのように振る舞えば、快適でかつ最小の努力で必要なものを身につけて学校を出て行くことができるか、議論を闘わせることができる生徒達だったらどんなに素晴らしいか。単に、未熟なだけ。また場を変えて述べたいが、『「農業社会的」近代』から自由であるという意味で今の生徒は大きな長所も持っている。
もう一つ、同書には繰り返し「社会」「公」という言葉が登場するがその内容は殆ど論じられていない。たとえば家族、隣近所、親族はそれぞれ質の違った「公」であるし、子供が十人野原でかくれんぼしていればそこにはそこの「公」が成立している。21世紀エネルギーの消費は地球全体の「公」の問題である。そういう様々に異質な「公」を一括して論じているところに諏訪氏の論説の基本的問題がある。学校にできることは、学校という「公」を視野を持った子供達を育てることであってそれ以上ではない。そして学校という「公」は学校だけの局所的なものであって決して他の「公」と等しくはない。家族、地域、国家、世界はそれぞれ位相を異にする「公」なのであって、学校にできることはせいぜいそのこと、様々な位相を異にする「公」が存在することを子供達にわからせていくことだけなのだ。子供達は学校というローカル共同体に参加する事でその一つの過程を通過して行く。
学校という「公」があくまで局所的なもの、局所的な共同体である事を、その共同体を運営する側、教師が強く自覚する必要がある時代がやってきた。かつては、共同体的な掟がそれぞれの「公」を自然に異質なものとして立ち上げていた。現在その「公」の境界が薄れ見方によっては均質な平面に見えるようになってきたところに、現在の教育が抱える困難があるように思う。