諏訪氏の考えをもう少し追ってみる。同書では同じくプロ教師の会喜人克氏の著作「高校の現実」からの引用で、ある学校の実例が引かれている。学校のモンスターP93
A子は、ある先生の授業を全く聞かなかった。A子に言わせれば、その先生の授業のやり方が気に入らなかったらしい。また、その先生の注意の仕方も気に入らなかったらしい。そういうことをA子は親にも言い、そこで親は、「そんなにひどい先生なら、単位なんか一つぐらい落としたっていい。また別の選択科目で取ればいいんだから」と言ったと言うのである。
このようにして、A子は親も公認で、授業を無視するようになってしまった。それでその先生が「いくらなんでも、出された課題ぐらいは取り組みなさい」と踏み込むと、「あんたの授業なんか受ける気ないんだから」と返してきて、激しい言葉のやりとりになってしまった。
その時に、やはりこれは、学校の秩序に関わるから見逃せないということで、指導をした。それで、本人と親に校長室まで来てもらった。ところが開口一番、親も本人も「相手の先生にも問題がある」と言うのであった。
この事例についての諏訪氏の評価はこんな風だ。
A子さんと学校側の認識の差の所に、まさに学校の持つ「公」性と「私」性の二重構造が隠れているのである。そして問題は教師も親子もその点に無自覚であり、結果としてお互いの「私」の「等価交換」の茶番を繰り返している事である。P96
A子さんやその母親は「この私」の人間形成などに手を出すな、と言っているのである。そこが学校は個体(「私以前の私」)を個人(「私」)にするところだ、と思い込んでいる学校や教師の論理と衝突したわけだ。P102
この事例は、公、個、私、といった曖昧な概念をならべて語るようなややこしい問題ではない。
教師が生徒と社会の変化について行けてないのである。つまり、学校や教師が無条件に尊敬されていた、社会的上下関係を承認し尊重すべしという共同規範が成立していた封建時代の残滓から、頭の切り替えができていないだけである。教師の言うことは全て鵜呑みにしなければならない。教師の側がそう思っている。行き詰まって当たり前である。
「履修登録した授業をきちっと学習しなければならない」というのはこの学校、この先生の極めて局所的なルールであって、決して一般的な真理ではない。現に大学受験に関係のない科目は手を抜いて当たり前で、むしろ学校側から推奨されている場合は現にいくらでもある。履修登録しても思ったような授業でなければ単位取得をしないで済ますのは大学では当たり前のことだ。
学校は生徒が入学するときに、教師は各のクラスが始まるときに、それを成立させるためのルールを明示する必要がある。生徒がそのルールに反する行動に出たとき、ルールを守らないと学校が運営できない、授業が成立しないという点について教師は生徒を指導する。教員は、学校という場で、授業内で、「教える」という役割を演ずると同時に運用ルールの審判の役割を同時に担っている。
学校という共同社会の運営を成立させるための規則はどうしても必要だ。どんな素晴らしい授業も生徒がまず耳を傾けなくては意味がない。同時に、その規則は明示しなければならない。そして教師が語るべき真理は、
局所的な社会を成立するために定められた局所的なルールはその社会に参加する限り守らなくてはならない。その規則もしくはその運用に問題があるなら、定められた正当な手続きをもって意見を述べなければならない。そうでなければその局所的社会は正常な運営ができない。
ということのみである。それが、学校が生徒に求め育てることができる社会性である。
この件の場合、学校でしか成り立たない、もしくは「その学校」「その講座」でしか成り立たない、ローカルルールを、教師の方が「無条件に承認されて当たり前な一般的真理」と思い込んでいることが問題なのだ。そしてこのローカルルール違反を、あたかもその生徒の人間性そのもののようにあつかって指導したのだろう。「私はこのようなルールで授業と成績評価を行う」それを授業に際して生徒に明示しておけば良かっただけのことだと思う。そうすれば「君はルールAに違反した、したがってルールBに示した指導を行う」という風に対処して何の問題も起きないはずだ。
たとえば私の場合、数学の問題演習中は相談をしても良い。むしろした方がよい。他の生徒に教わるためなら教室内歩き回っても良い。しかし、こちらが黒板の前に立って教室全体に話しかけ始めたら、指定された席に戻り話を止めなさい。というようなルールを4月授業始まるときに語る。評価の9割は考査の点数による。1割は課題提出などで補う。授業態度を評価に算入しない。等のこともまず4月に明示する。もちろんこれも教える科目、生徒の質によって適当に切り替える。
現代の学校は、ある一面ではサッカーゲームのようなものだ。ルールが無くてはゲームが成り立たない。ゲームの進行中は審判の判断は絶対である。これもルールのうちで、いちいちクレームを受け入れていてはゲームが成り立たないから。しかし、ゲーム中にボールに手を触れたからといってその選手が極悪非道な人間なのではなく、単にサッカーのルール違反をしただけである。ボールに手を触れてはいけないのは、プレー中の特定の選手特定の場面だけの話で、コートの外から手で投げ入れたりする。キーパーは手で掴む。他の球技はたいてい手を使ってやる。一般的真理ではない。プレー中審判の判断に従うのはそれがルールで、そうでないとサッカーが成り立たないからである。審判が偉いからでも人間的に優れているからでもない。私はこう語って校則を生徒に納得させてきた。またこの論理は現在の社会で有効な論理だと思っている。
現在の学校の規則、いわゆる「校則」とその他不文律、各教員が定める授業ルールなどの中には、このような近代社会での学校のあり方とそぐわない、生徒に説明不可能なものも多い。その代表例は「不純異性交遊」なる規則だと思うのだが。諏訪氏が引いたようなトラブルを避け学校の正常な運営を考えるなら、現代社会に相応しい、生徒に説明可能な運営規則の整理をする必要があるだろう。同時に、明治以来、基本的にサボタージュされてきた「社会における学校の役割」を対象化する作業を、今しっかり行うべきだと考える。