諏訪哲二氏「学校のモンスター」からの引用
現在は子供たちは学校へ入るとき、すでに「個」の意識(ないしは感覚)を強く持っている。学校より先に、テレビなどの情報メディアやお金(市場経済)が、子どもたちを消費主体としての個人に仕立て上げている。子どもたちにとって「等価交換」は、完全に身についているのだ。P103
いまや学校に求めるものは卒業後の「交換価値」をどれだけ上げられるか、という経済的メリットなのである。P104
学校より先に商品経済の情報メディアが子どもたちの「個」を形成している。「個」の利益や主体性をまず大事にするという「私的な個」の意識である。P104
これらの言説は、私の現場感覚に全く合わない。現在の高校生が、経済的合理性に基づいて行動しているとは全く思えないからだ。別の場所にも書いたように、子供や親が彼が描いているような「個」であったら、学校運営は本当に楽なはずだからだ。学校の規則をこれら「個」の利益を優先する子どもたちに合わせて整理し、この学校で最も経済的メリットのある過ごし方はどんなものか提示すればよい。
子どもたちは様々な問題行動を起こす。その要因の多くは家族関係、特に親子関係のねじれによるものだ。子供は家族のありように深く規定されている。自分を人間的に支えその存在を無条件に肯定してくれる他者を必要としている。親子関係に端を発する問題行動はむしろ時を追って増加しているようにも思える。家族が、商品経済の中での合理的生活形態にすぎないなら、互いに距離を置いたクールな関係が自然に成立し、心の奥底を突き動かす強烈な心理的トラブルが起きるはずもない。家族は「等価交換」の世界ではないし、これからもそうだろう。
なぜ子どもたちはSNSに没入するのだろう。かつてポケベルが流通し始めた時代、公衆電話の前には長蛇の列ができ、ひどいときは電話のボタンが壊れた。以来20年。今、フェイスブック、ライン・・・。子どもたちは常につながりを、仲間を求めている。消費主体としての個にばらばらに分解しているのではない。コミュニティーの形成が下手になったのである。いじめについては別の項で書くが、近年の限度を超えて暴走するいじめも、子どもたちが仲間を求めてその作り方を知らないからだと思っている。
近年文化祭の指導がしやすくなったと感じているが他の教員方はどうだろうか。放置しても生徒だけで何とかするような主体的活動力は確かに落ちた。細かな手入れが必要である。一方、ていねいに集団形成の仕方、役割分担、リーダーやサブリーダーの動き方を教え込むと、こちらが驚くほど「よく燃える」。私が高校生だったころ、幼稚で見向きもしなかったような事に熱中する。また、様々な文化系部活動が結構隆盛である。吹奏楽は部員が集まりすぎて悲鳴を上げている学校が少なからずある。軽音も大人気だ。少しずれるかも知れないが、YOSAKOIソーラン祭に全国から数万人の参加者が集まる、百万人を越す見物客がいる。子どもたちは、こちらが恥ずかしくなるほど簡単に「涙」「感動」を口にする。
かつて生徒たちは学校外に自分たちの世界を持っていた。「今だから言うけど」と卒業後に語ってくれる世界は、飲酒・喫煙・性・単車・・教師が知ればすぐ処罰対象になるようなことを含みながら自由でおおらかだった。子どもたちが集まれば飯を食わせ、時には酒を振る舞い、少々のことは大目に見ながら限度を超さないよう優しく見守る「おばちゃん」的保護者がたくさんいた。それを語っているかつての生徒は、一方でちゃんと高校生していたし(実に良い生徒だった)、今立派な社会人だ。彼らにとって、学校で生活と、校外の「裏社会」の二重生活で高校時代が成り立っていた。わざわざ文化祭などやらなくても校外の方が面白かった。それでも一通りのことは勝手にやっていましたけど。今生徒が文化祭や部活動に燃えるのは、こういう校外のコミュニティーが失われた為ではないだろうか。子どもたちは共に「感動する」仲間を求めている。昔よりも熱烈に。ただ、場を失い、方法を失い、能力を失ったのだ。
また、偏差値の高い学校に何が何でも入ろうとする強い上昇志向は全体としては薄れる傾向にある、と見ているがどうだろう。刈谷氏の指摘のとおり学習意欲は二極分解し学力は正規分布にならない時代である。その上位層にしても、子どもたちは大人よりずっと醒めている。学校が躍起になって補習時間を増やしたり、親が子供を塾に行かすのは、生徒の意欲が高まったからではない。逆に自分から進んで勉強しないから教師は生徒を補習に縛り付け、親は子供を塾に行かす。
学校の補習で、以前より高度なことをやっているかというとそうではない。(そうでない学校があるかも知れないが。)かつての高校生が自分でこなしていたことを補習でやっているだけだ。生徒の「絶対学力」は落ちている。とは、予備校関係者が第二次ベビーブームの山が去ったあとよく口にしてきた事だ。大学入試問題は明らかに易しくなりつつあるし、東大生の入学後の定点観測でも学力低下が報告されている。生徒の自己管理能力が低下しているのが一つの原因だが(これも自己の最大利益を追求する消費主体には相応しくないことだ)、そもそもそれ程「有名な」学校に行きたいと生徒は思っていないし「立身出世」を志していない。その先に待っていることを今の子どもたちはよく知っていて、大人の扇動に簡単には乗らないのだ。
今の子どもたちが 『「等価交換」が、完全に身についている』個体であるとは私にはとても思えない。単に社会性が欠落し、自己管理能力が落ち、視野が狭くなったため、残った衝動的な自我が目立っているに過ぎない。生物は自己の利益、欲望や衝動の満足度を最大化するように行動する。これは、生物としての人間にとって当たり前のことなのだ。倫理、道徳、法等の規範は、短期的な欲望の充足よりも共同体の利益を優先することなど、長期的な視野で行動した方がより高い利益を得る事ことができるを教えるものだ。今子どもたちが消費社会の「個」であるように見えるのは、かつて存在した倫理規範が崩壊してしまった事の言い換えに過ぎない。
保護者が大凡学校教育を投資の対象だと思っているのは事実である。これは今に始まったことではない。ただ、現代社会の中で学校や先生ががそんなに偉いものではなくなり、クレームの付けやすい場所であることに社会が気付いただけだ。しかし一方で、現在の保護者が全体が、学校経営者や国会議員が思い込んでいるほど子供の学歴獲得に熱心だとも思われない。むしろかつてより、平穏な学校生活と普通の就職を望む親の割合は増えているように感じるのだがどうだろう。むしろ怖いのは、受験教育を無理矢理看板にしようとする学校経営者、自らの得票源にしようとする政党の動きだ。これら、保護者の動向、学校運営者や政治家の動、子どもたちの意識にはそれぞれずれがあり、決して一括して語れはしないものである。
もう一つ、諏訪氏の言説で気になることがある。再度引用する。
したが って、これからの学校で育成すべきなのは、生きることの価値にかかわる、あるいはよりよく生きることを目指す垂直的、かつ、「公共的な個」(公を内面化した「私」)であろう。P104
『 公を内面化した「私」』の方が『よりよく生きる』ことにつながるのはどうしてだ。これはそれ程当たり前のことではない。古今の哲学者がその根拠を求めて苦闘してきたことだ。その根拠を当たり前の前提として物事を語っても、今の子どもたちには通じない。自ら縛られている、農村共同体の規範、儒教倫理が対象化できていないため、それを失った今の子どもたちが見えなくなっている。
共同性を求める志向は今の子どもたちにも強く存在するし、農村共同体の規範はその残滓を残している。そういう「公」を求めるエネルギーが行き場を失い「国家」収斂されるととんでもないことになることを私たちはよく知っている。「ヘイトスピ-チ」「ネット右翼」等に見られる排外主義の兆候は三十年前にはあり得なかった事だ。また、世界全体を「公」として捉える事ができないと、私たちは子孫に生存環境を与えることができない所まで来ている。
「公」とは何か、個人とどう関わるのか現代社会の言葉で、子どもたちを説得できる言葉で語れる様にすることが、我々大人の側に課せられた緊急課題である。
項を改めて書こうと思うが、社会に未だに存在する農耕社会倫理の残滓は、下手をするとファシズムの温床になる危険がある一方、新しい社会の土台にもなりうるはずだ。様々なコミュニティーブームや内田樹氏が言うように、昭和を美化して語る事もそれにあたろう。使える柱と土台を残してビフォーアフターすればよいのである。