いじめについて_1

いじめについて触れようと思う。
心理学や教育学の専門家ではない。統計データも専門の文献も読んでいない。ただ三十余年の経験から言える感想を述べることしかできない。
いじめとは
いじめを定義するのは難しい。様々な生徒の人間関係は多様でそれこそ連続的に広がっている。
ここまでは悪ふざけで、ここから先はいじめ。これはしごきで、こっちはいじめ。このような区別がつくものではない。いじめている当人も自覚していない場合が多いし、いじめられている被害者もいじめだと思っていない。これには境界の曖昧さ以外の理由があるのだが。いじめの発見や対処が難しい一つの理由がここにある。
社会的、肉体的上下関係を利用して、一方的に精神的肉体的苦痛を与えること。
取り敢えずこういう事にしておこうか。しかし、具体的な対処の場面では細部にこだわるべきでない。経験から言って、教員がいじめに対処する第一歩は、こちらが一方的にいじめだと認定し宣言してしまうことに尽きる。言葉を換えれば、「これは生徒間で許されない行為であり、許されない人間関係の作り方である」と一方的に評価を下すことからいじめに対する処置がはじまる。別に、周囲もしくは当人がいじめと言おうが言うまいが関係ない。このような人間関係は許さない、と断固宣言することが大切だ。
ただ、このように文章で論じる場合は、ある種の定義が必要だと思うだけだ。

現在と過去のいじめ
いじめは昔からあった。私の少年期にもあった、就職初期の時代にもあった。統計で見るるとむしろ減少している。(「平成17年度生徒指導上の諸問題の現状について」(文部科学省調べ)
それでも現在いじめが社会的に問題視されているのは、いじめの内容が大分変わってきたからではないかと思う。現在と過去のいじめの違いは、他の項で書いた生徒の質的変遷によると思われる。他の項で書いたことをいじめとの関連でもう一度記す。
まず、生徒が集団形成をしなくなった、できなくなったことによるもの。かつてのいじめは、集団がその集団を維持するため、集団維持に敵対する者や集団維持の障害となる異質な者を排除したり、制裁を加える行為としてあらわれた。いじめの理由が明らかだった。教員として外側から見ても善し悪しは別として理解できたし、内側にいる加害、被害双方が、なぜいじめるのかいじめられるのかわかっていた。少なくとも、いじめる側はいじめることを正当化する論理を持とうとしていた。
ということは、いじめられないためにはどう振る舞えばよいか、互いに明確だった。我慢して、集団の要求に従うか、いじめ覚悟で自分の個性を貫くか、選択の余地があった。それがまた辛いものであったにせよ。集団の要求も随分理不尽な場合もあった。ただ少なくともある日突然全く理由もなくいじめが始まるといったことはあまりなかったのではないだろうか。
もう一つ。集団として、ある種の制動が効いた。極端ないじめのエスカレートは集団内で正当化されないし、逆に集団維持を困難にする。「それくらいにしておけ」というのものがいた。まあその限度も決して正当化できるものではない場合も多かっただろうが、どこかに制裁の限界があることは了解していた。もしくは、教員が働きかけることで、比較的容易に集団に制動機能を持ち込み限度を調整することができた。
孤立した加虐-被虐関係は際限なくエスカレートする。私は心理学の専門家でないけど、親子関係でも、夫婦関係でも、孤立した虐待関係は悲劇を生む。私たちでも、自分の子供に説教をしているとき虐待の、底なしに深い穴を覗く体験をしたことはないだろうか。いじめでもそうだ。どこかで制動がかからなければどんどんひどくなる。
また、集団性の喪失と同じ事なのだが、かつて生徒が共有していた倫理規範が希薄になってきた。1980年代であれば、「自分より弱い者に手を出すのはみっともないことである」という説教に生徒は敏感に反応した。共同体意識のこのような部分を教員が少々補強することで生徒集団の質を高めることができた。ある種の「美学」を共有することができた。今こういう説教をしても、本当に何を言われているかわからない生徒がいる。また、他項でも触れたけれど、教員に他の生徒のことを言いつけることは、絶対のタブーであった。私の少年期もそうであったし、就職当時も同様だった。校則違反に関してきつい取り調べをしても、自分の非は認めるが同伴した他の生徒について殆どの生徒が口を割らなかった。(こういう生徒は教室に帰れば英雄になれる。)近年様相は一変した。自分の非を認めれば同様の行為をした生徒のことを簡単にしゃべる。こちらはちょっとがっかりしながら、楽に調査を終える。教員室に公然と他の生徒の非を報告に来る生徒などかつては考えられなかったことだ。
これらの規範(美学)はファシズムの温床でもあり、強烈な差別意識を伴う場合もある。少なくとも個人を共同体に拘束し自由を奪うものだった。これを一方的に美化するつもりはない。しかしその規範に従う限りにおいて人間関係についてある種の安全が保障されていたのは事実だ。実質的な共同体の崩壊の進行と並行して時間差をおきながらこれらの規範意識が希薄化する途上に私たちはいると思う。
次に指摘したいのは、生徒のコミュニケーションスキル、人間関係力がどんどん低下していることだ。他の生徒の言動が了解できない。自分と均質な人間しか理解し受容することができない。かつてなら、少々「変わった」生徒がいても周囲がそれなりに了解し集団の中に存在位置を与えられたものだ。「変わった」生徒自身も周囲を理解し集団の中でどう振る舞えばよいか心得ていた。転校生とかお金持ちなど社会的な理由の異質さ、勉強が極端にできるできない、内向的性格、さらに現在ならアスペルガー症候群に分類されるような異質さ、これらの「変わった」生徒も教室内でそれなりの社会的地位を得ていた。少なくとも比較的容易にそういうクラス集団を作ることができた。
今は、お互いが良くわからないから、取り敢えず排除の対象にならないように振る舞い、均質な者同士が小集団を形成する。面と向かって物を言うことが苦手だから電子媒体に頼る。理解できない生徒は排除の対象になる。極端なことを言えば、そもそも皆が互いを良くわかっていないから、ほんの偶発的な事柄が排除の原因になる。よく指摘されるように、いじめの被害者と加害者が流動する。
現在のいじめは、人間が集団を組めば必ず発生する排除の論理が、制動を失ったものなのか、かつて明確な形で存在した、共同破壊行為に対する制裁措置が残滓として社会的に生き残り他の共同体論理との関連を失って暴走しているのか、私には良くわからない。恐らく両方なのだろう。少なくともここで指摘した要因が重なり合って、現在のいじめが過去とは違った異様な事態を生み出す事になるのだと思っている