いじめについて_2 

いじめを少なくするため、学校で何ができるかについて。いじめを全くなくすことは恐らくどのような集団にもできないし、「自分のクラスでいじめはない」と教員が思い込むのは危険なことだから、なるべく少なくするために何ができるかを考える。
答は単純だ。『全ての他者を尊重する』その規範を持ち込み強化すること。これしかない。私はうまく条件さえ整えば、ある意味容易なことではないかと思っている。体験的にも。その理由を書く。
前項で、生徒は変質していると書いた。また現代の若者について論じた書物は数多くある。一方で「日本人論」も多く、こちらでは日本人は外国と比べてどう違うか、またそれが如何に変わらないかその特性を論じている。これは奇妙なことだ。会話が失われ変わってゲームや電子メディアが普及し婚姻率も下がり、と若者の変化が報告される。一方、「出る杭は打たれる」、自己主張がない、同調圧力が高い、交渉力がない、日本人論が好き・・・明治開国以来変わらない日本人の弱点が指摘される。どちらもが、正しいのだろうと思う。流動する表層からと強い惰性を持った深層までの広がりを持って文化や規範は動いていく。二千年近くも前に成立した神話が日本人の心を読み解くために用いられるのだから。
数万年にわたり日本列島に定住し、二千年もの間共同で稲作を行ない築かれた日本人の共同体論理が簡単に失われるはずがない。弥生人の流入、縄文人の排斥などあっただろうが、逆に長い歴史の中で民族の流入対立が指摘できるのがこの一点くらいというのが大変特殊なことだ。
親孝行とか先祖を敬う意識は薄れてきたように見えるが、敬語は生き残り、日本語で二人称代名詞が英語の様に一つになることは想像できない。別項で書いたが、大学体育会の特殊な社会は程度の差はあれ今でも生き残っている。旧帝国軍隊の上下関係をそのまま温存したような社会が、高等教育の中に公然と生き残っている。その異様さはインターネットで検索してみても容易に知ることができる。(こんなことやっていて日本のスポーツが強くなるはずがない。)大学体育会を通過した人間が、体育系部活動を指導し、社会体育を指導している。
神戸の震災、東日本大震災などの危機に際して、日本人の復興へ向けた共同作業は海外から絶賛されているという。混乱に際しての略奪行為は稀少で、互助的社会組織が自然発生的に立ち上がる。共同性が必要とされる社会的実体を前にすれば、深層意識は表面に出てくる。良い意味でも悪い意味でも私たちは共同体意識を深く抱え込みそれに縛られている。
生徒の中に他者を尊重する規範意識を育てるために、新たに何かを植え付けるのではなく、以前より少々深く深層に分け入って共同体意識を掘り起こせばよい。90年代の半ばから、クラス担任や教科担当としてクラス集団をまとめるためにこう考えてやって来た。実際これは可能なことだ。大切なのは、名目としてではなく、教員自身が本気でそれを語ることだ。
他人を傷つける事を最も許されないこととする。他人を助けることを最も賞賛されることとする。個人的な事柄、例えば学校を遅刻する事より、集団的事柄、例えば教室掃除を他人に押しつけてさぼることを次元が違う悪事であると宣言し生徒とことん追求する。成績の良かった生徒より、級友に勉強教えた生徒を賞賛する。これはなかなか細かい配慮のいる事柄で、学校生活の結果として残るのは、学業成績、出欠記録、各種検定、進路などどれも個人的事柄ばかりなのだ。そういう結果よりも他者や集団の尊重の方が次元を越えて大切だと折に触れ、矛盾なく、本気で語り続ける。また、担任としても弱者(=勉強苦手な者、問題を抱えた生徒)に対してエネルギーを注ぎ続ける。
さらに、そういう価値観に基づいて集団形成をする。他者をたいせつにする以上きちっとした集団を作れ、これも折に触れ言い続ける。遠足・研修旅行・合宿・体育祭・文化祭あらゆる行事を利用して、集団形成を助ける。リーダーを育て運営テクニックを教える。
先に述べたように、生徒にこれを受け入れる素地はある。さらに、別項で述べたように、現在の生徒は世間が言うほど個人主義の論理を身につけてはいない。クリアーな自意識を持ちしっかり自己主張する生徒は少なくとも増加していない。また、自己の栄誉達成のため、主体的に努力する生徒の数はむしろ減少している。確かに社会は競争を煽り、保護者は子供を競争に向けて駆り立てるが、それに従う者は一定数存在しても自覚的に競争に入っていく生徒の数は少ない。受動的なのだ。学習塾(それも個人指導主体)の繁栄はその結果と見るべきだろう。要するに倫理規範を失い集団形成力を失った今の生徒は、代わりに西欧的個人主義を身につけたわけでもなく、単に白紙なのだ。白紙だから染めやすい。(極右・極左にでも容易に染まるだろう。)入学したばかりの1年生は楽で、特にそのまま3年間持ち上がりの場合3年目にはかなり成熟したクラスを作ることができる。逆に、全く接点がなかった学年で突然卒業学年の担任をしたときは苦労した。
少なくとも、私が管理する集団としては、その「ローカルルール」に従う集団になる。それでよい。むしろその方がよい。絶対的な真理として与えるのではなく、この集団に適応される仮のルールとして、規範を設定する方が生徒も受け入れやすいし、本来倫理規範は局所的なものと扱うのが健全だろう。これも教えなくてはいけないことだが、社会集団はそれぞれその集団だけに有効なローカルルールを持つ。校則などもその典型なのだけれど、絶対的な基準としてではなく局所的なルールであると説明する方が、あらゆる学校での振る舞いは生徒が受け入れやすい。納得すれば生徒は上手に頭を切り換える。繁華街で全裸になってはいけないが、風呂屋では全裸にならなくてはいけない、社会というのはそういうものだと生徒に説明してきた。ローカルルールを守りながら生徒は考え成長する、それが余所でも適応される行動規範として身に付き発展させてくれる生徒が小数でも存在したら、十分ではないですか。更に言うなら、倫理規範を明確にすることは、生徒の思考にある種の座標軸を与えることに繋がり、生徒の人間的成長を促進するのではないかと思う。集団形成がうまく行ったクラスの卒業生はむしろ進学実績も良いし社会貢献に繋がるような職業選択する生徒が多いように感じている。
勿論、こういう生徒指導が学校全体で共有され学校としての局所ルールとなればそれに越したことはない。私はこれに関する実践について言う資格はない。若い白紙の生徒を変えることは容易いが、教員集団は生徒集団より遥かに強い慣性が働いていてなかなか動かない。特に近年の若手の教員は教員自身、既に共同体の論理に触れることなく育ち、主体的集団形成の経験もない「お利口さん」である場合が多い。また、厳しい学校観競争に晒されていて、売り物としては個人的な栄誉の達成以外ないと信じられている。(本当はそんなことないと思うのだけれど。)学校全体を変革するためには、しっかり労働組合を組織し活動すべきであったが、多忙にかまけてそちらに力を割くことができなかったことを今悔やんでいる。
もし、このサイトを子供を育てている保護者の方が見られているなら、こう助言したい。学校案内のパンフレットやホームページでの学校紹介欄で、他者や集団を尊重する人間教育にまず最初に触れる学校を選ばれるのがよい。個人の栄誉達成についてばかり書かれている学校は如何にきめ細かなサービスが謳われていても生徒間でいじめが横行している確率が高い。教育理念は意外に教員と生徒を拘束するものだ。
また、他者を理解する能力、人間関係を取り結ぶ能力については、高校になってやれることには限りがある。対等な立場で肉体的に面前するような体験の絶対量が、幼児期から不足しているのだから。肉体的に相対したとき人間は特別なモードにはいることを、アスペルガーの研究が教えてくれる。そのモードに入れないのがアスペルガー症候群の特徴の一つなのだそうだ。その上で文字化された言語以外から(仕草、表情、声色・・)情報を読み取り処理するのは一つのスキルだ。トレーニングが不足している。高校生になって教員ができることは、他者理解のスキルに気付かせること。そして何より、他者を理解しようとすることの大切さを訴え続ける他ない。折に触れ、級友を理解しようとしているか、生徒に問い続ける。互いが理解しようと努める様な集団形成を心がける。
当然ですが、ここで書いたことは私が目標としてきたことであって、実現できたことではありません。手痛い失敗もしてきたし、ひどいいじめにも出会いました。ただ、こういう方向に走ってみると結構うまく行く場合がありますと申しているに過ぎないことをご了解下さい。