次にいじめの発見と対処について。
一番問題に感じるのは、『いじめの被害者は、いじめをなかなか認めない』という臨床心理の世界では広く知られたことがらが、学校教員になかなか認識されていないことだ。私自身書物で学んだ当初は「そんなものかな」少々疑問を持っていた。が、実際のいじめ事件でこれが当てはまる場合を体験し納得した。いじめの被害者は、「これはいじめではない」と自分に言い聞かすことでかろうじて自分を支えている。自分自身でも追う思い込んでいるし、指導に入った教員にも、「これは、私自身も進んで参加している悪ふざけである」というような言い方をする。いじめであると認めたとき、最後の心の支えが折れてしまうからだ。だから、いじめが深刻であるほど、被害者が深く傷つけられていればいるほど、被害者はいじめを心理的に認めない。「私はいじめられている」と被害者が口に出して言えるいじめはまだ軽度なのだ。マスコミで報じられる、学校が気付かぬままある日いじめが原因で生徒が自殺してしまうような事件が起きる原因の一つはここにある。(私は幸いこのような深刻な事例に出会わなかった。ただ幸運だっただけだろう。)教員が一方的にいじめであると認定し被害者が安心できるような処置を始めたとたん、被害者は、今まで仲間だと主張していた加害者に関して、一転その残忍さを堰を切ったように語り始めたりする。
被害者の申告を待っていじめの認定をし、対処を始めたのでは必ず遅れる。このことを、現場の教員にもっと広く周知徹底すべきだ。先項でも書いたが、いじめの認定をするかどうかが問題なのではない。行為の事実そのものを、指導しなくてはならない。
書くのは簡単です。実際いじめが起きたときその処置は大変難しいことはわかっているつもりです。担当教員そして学校がどういう価値観で指導を行っているか、加害生徒、被害生徒、そして周囲の生徒にも納得させられるような処置をしなくてはならない。当然、教員の指導が入ったことで逆にいじめが進行するような事態を防ぎ、被害生徒を守り切らなくてはならない。
いじめが起きてしまったときの対処については、いくらでもテキストがあるので気のついたことを何点かあげるに止めます。
まず、いじめの指導を容易くするかどうかは、普段から学校がどのような指導をしているかと大きく関わる。前項で述べたような、いじめを許さないような価値観を教員、学校が体現していたかどうか。普段成績のよいものや部活動の結果のよいものを極度に優遇し生徒を差別的に扱っているような印象を与えてしまっていたら、ある日突然いじめは許さないと言っても生徒は納得しないだろう。勿論、運動会で一等とったら賞品あげるように、優秀な者を当然褒めるが、一方で全生徒に平等に指導が行き届いていないといけない。学校観競争が激しくなり、「実績」に教員の目が集中するとき、教員がよほど慎重に振る舞わないと、生徒の側は不公平感を募らせる。これではいじめ事件の処理を生徒が受け入れないだろうし、生徒の学校への不公平感はいじめの温床そのものだ。
また、いじめの指導が特にそうなのだが、生徒指導全般これは経験の蓄積以外にたよるものはない。生徒は流動し変化しているといっても生徒である。過去の様々な出来事への対処、成功もあり大きな失敗もあった経験から学ぶこと活用できる事柄は多い。困難な事例であればあるほど、多くの教員の結束が、特に経験を積んだ年配教員との連携が大切になるはずだ。これが、先にも言った「成果主義」に走り、それに向けた体制変革にばかり目がいく現在の学校では難しくなっている。古いものを切り捨て「効率」よく「改革」することが善であるような風潮が多くの学校に見られるのではなかろうか。過去を知らない若手教員が改革の旗手として重視され、年配教員が邪魔になる。結果として、貴重な生徒指導経験の蓄積までもが切り捨てられていく。悪いものは改めなくてはならない。しかし、学校の運用の形の全てに経験の蓄積があり現在の形となった理由がある。(教員が楽をするためずるずるとできあがったものもあるのだが。)生かすべき歴史、経験の蓄積を無視して発展はない。
医者、教員は、同僚をかばう。医療ミス、教育ミスはなかなか表に出ない。これは教員にとって難しい問題だ。長く共に仕事を続けてきた同僚は大切だ。チームプレーでしか学校教育は成り立たない。人数比で二十倍もの生徒を管理し学校を運営できるのは教員の結束があってこそ。その同僚の人生を大きく変えてしまうようなことはしたくない。そういう事態をできる限り回避したい。当然だ。更に、先ほどから述べているように学校観競争の中で学校の評判はできる限り落としたくない。そういったわけで、ミスを出さないようにする心理が教員に働く。一方、人間のやることだから失敗は必ずある。教員の何気ない一言が生徒を深く傷つけてしまう場合もある。緊迫した事態の中で教員が自制心を失う場合もある。生徒は時として教員の予想を超えた行動をとる。いじめも起きる。当然そうならないよう心がけていても。慎重に運転していてもだれでも必ず自動車保険をかけるように、教育ミスは起きる。私も大小様々な失敗を繰り返してきた。そういう必ず起きる教育ミスに対しどう責任をとればよいのか。残念ながら、私に経験からできるような提言はない。
教育のミスは学校の教員集団のシステムの不全として起きる場合と(いじめ等)事故そのものは特定の教員によって起きる場合がある。これらのミスを教員集団全体の問題として認め責任をとり改めていかないと集団の発展がないことは確かだろう。教員個人が起こしたミスの中には明らかにその個人の資質に関わるようなものも含まれる。(よく問題にされる教員の生徒に対するセクハラなど。)このような問題であっても、教員集団の形成の仕方によって防げるのではないだろうか。教員は聖人ではない、普通の人間の集まりだ。まして、いじめ事件は教員集団の在り方に深刻な問題を投げかける。これを集団の問題としてとして受け止められるような組織作りは是非とも必要だろう。学校の評判を落としたくない心理が働く場合、特定の個人にその責任の全てを押しつける傾向はないだろうか。形式的にそのような処置をすれば、組織としての反省は同時に回避されてしまう。