停滞の時代に

 世界の人口は七十億人。この人々が平等な暮らしを始めたら、つまり世界中の人々が同じようにエネルギーや資源を消費したらどうなるか。私たちはこの問題を普段忘れている。もしくは意識的に目を背けている。少なくとも今の日本人と同様の生活水準で七十億人が地球上で持続可能な生活を送ることは、今の私たちの科学技術を持ってしては不可能なことは様々に指摘されている。(その代表例がJared Diamond 「文明崩壊」) 中国は急速な経済成長を続けている。今の世の中、技術は模倣可能で発展途上国はどんどん先進国に追いつき、世界の資源消費量はこれから爆発的に増大していくはず。手をこまねいていれば、そう遠くない将来何らかの絶望的な破局が待ちかまえていることは明らかだ。我々の世代は人類を破局に導いた世代として、(もし小規模でも人類が生き延びれば)記録されることになる。
驚くことに、経済成長こそが善であるような政治が未だにまかり通っているが、今の政治家は今の日本の繁栄があと何年可能だと思っているのか。(詳しいことは本稿の目的ではありませんが、莫大な赤字を抱えた国家予算一つ見ても、何年後のこと考えているのか首をかしげたくなります。)あと何年これまでのような規模の成長と繁栄が可能だと考えているのだろう。それを支える資源がこの地球上のどこにあると思っているのか。『最終戦争で人類の大半が滅亡し、残ったごく少数の人間が、持続可能な社会の建設を始める』といった漫画やSFで作られた世界は今や非現実ではなくなりつつある。
 今考えられている解決策は、ざっと考えて次の三つくらいではないだろうか。
1)格差を是認し、平等社会の実現を阻止する
2)これまでも様々な困難を解決してきた科学技術の進歩に期待して栄華を貪る
3)平等社会の実現と持続可能性が両立するポイントを探り、先進国は資源消費量の抑制し経済の後退を本気で検討する。
1)は論外、2)は根拠のない願望だとすれば、3)について本気で考えなくてはならないときを迎えていると思うのですが如何だろうか。
 戦後、学びの課題は復興と豊かさの追求だった。右翼も左翼も冨の分配方法について意見を異にするだけで、求めていたのは基本的に物質的な繁栄だった。マルクスの唱えたことは生産と冨の分配のより合理的方法だったはず。物質的な繁栄、経済活動の成長拡大を前提にした社会建設が日本人全体の目標であり、教育の基本動機でした。経済成長が平等な社会実現の理念と矛盾無く結びついていたし、実感としてそれを確かめることが出来た。この理念について1970年頃から様々な異議申し立ては行われてきたが、教育界は教育の理念を基本から再検討することを怠ってきたと言わざるを得ない。バブル経済の崩壊以降この二十年社会は明らかに停滞局面をむかえ、高度経済成長の時代には意識されなかった多くの問題が表面化してきた。格差社会という言葉は、それまでほとんど聞かれなかった。貧富の差は経済成長と共に解消すると皆が信じてきたし、実際そうでした。日本人のほとんどが車がありエアコンのある生活が出来るようになったのですから。ところが停滞局面にはいると、定量の冨を前にした自由競争の結果格差が生まれ更にそれが再生産される社会が生まれる。その間死者が数千、数万に及ぶ大震災、原子力発電所の「事故」で(公害で)広大な土地を失う経験をした。この停滞の二十年私たち日本人はどう過ごしてきたのか、新しい生き方をどれだけ考えてきたのか深く反省すべだろう。「成長の夢」がばらまかれ、今その何度目かにあたっている。停滞社会、後退経済を肯定しそこにプラスの価値を見いすような生き方を本気で考えたいと思う。
大規模な資本集中無くして生産不可能な機械=パソコンにこんなこと書くのは随分矛盾した話ですね。