かって母親は忙しかった。私の幼年期、一九五〇年代後半、いわゆる家電は殆どなかった。母は朝早起きして、火口一つの石油コンロで順に米を炊き汁を作り父の弁当を作る。冬は火鉢の火を起こしそこで湯を沸かす。皆が起きたら、布団をたたんで押し入れへ、そうしないと生活空間がない。朝食が済めば冷たい水道で食器洗い。風呂の残り湯使ってたらいで洗濯、手で絞り物干し竿へ干す。箒とハタキで屋内掃除。屋外の清掃と庭の手入れ。家は狭かったが庭は田舎で広かった。冷蔵庫ないから殆ど毎日買い物。服の繕い、制作。夕方、再び米を炊き夕食準備。その合間に石炭くべて風呂を沸かす。母親は丸一日働いていた。父の側から見ても、その働きは、仕事をするためにどうしても必要な事だった。夫婦共に丸一日働いて、ようやく生活が成り立っていた。だから、独身サラリーマンは実家に住むか、もしくは賄い付きの下宿で暮らしていた。
思い返してみると、今の専業主婦がどれだけ楽な生活をしているかがわかる。更に、今や主婦の働きがなくても、仕事をして生活を継続できる時代だ。こうして中年女性が宙に浮く。
さらに、今の中年は「女性の社会進出」、雇用機会均等法(八六年制定)の時代を生きてきた。この時代、「生き甲斐」とか「自己実現」などという言葉が盛んに使われるようになった。『人生の目的は「自己実現」にある』との考え方が何か当たり前のように受け入れられた時代だ。
「自己実現」など幻想にすぎない事は内田樹氏などが指摘するとおりだと思う。しかしこの言葉がある種のリアリティーを感じさせながら普及していった事の意味はかんがえてみる価値がありそうだ。
実際に一部を除けば今の中年女性は、労働市場を拡げ、その下層に組み込まれた以上に社会進出することができないでいる。しかし自己実現の幻想は振り払うことができない。その結果、子供が自己実現の代理人としてターゲットになる。
先に触れた、雑誌「プレジデント」の記事で見るように、父親の中にもまた子供に自分の「自己実現」を投影しようとする者がいる。昔からいたのだろうけど、その度合いが広がり強くなっている。せっかくの休日にわざわざ子供の部活動を見に来る父親が結構いる。保護者面談にやって来て、要望やクレームをまくし立てる父親も増えた。夫婦揃ってやって来る。もしくは母親を抑えて父親がやって来る。かつても父親と面談することがあったがたいていは、「母親が進路のことはわからないと言うので来ましたが、本人のことなので本人と先生にお任せします」 的な感じが殆どだったが今は違う。父親もまた宙に浮いている。中年の生きづらい時代なのだろう。保護者と接していると、教育を商品として扱う事への怒りなどより、母親の抱える持って行きようのない哀しさにこちらが疲れてしまう。
最近私の知り合いが結婚した。高偏差値で知られる有名大学の出身なのだが、て同じ大学の出身者を伴侶に選んだ。理由を聞いてみたら
「賢い子供を育てたいから」
と、ごく普通にこう言われて本当に絶句してしまった。後で何人かの私の同世代にこの話をしてみてわかったのだが、これが結構当たり前のことらしい。これから家族を形成しようとする若者でさえこの発想である。子供受難の時代だ。
教育を巡る問題、生徒の成長を巡る問題のかなりの部分が、この保護者の期待過剰、子供への自己投影とその反動としての育児放棄にあるのではないか。教育についてかんがえるよりもまず、中年の生き方をかんがえた方が早道のような気がしている。
それほど勉強が大切だと思うのなら、自分が勉強したらよい。暇な時間と子供の塾費用の一部を使って大学に聴講に行く。図書館通って本を読む。そんなに音楽好きなのなら自分でピアノ習えばいい。昼の空いた時間に懸命に練習する。子供の発表会に行くより、プロのコンサート行った方がずっといい音楽に出会える。毎日つまらないワイドショー見るより音楽CD聞けばよい。スポーツが好きなら、自分でやればいい。これが、子供への過剰な期待を排し、自己実現の実感をつかむ最善の方法だと思う。同時に、子供にとってもこれがよい。親の縛りから幾分かでも解放され、子供はのびのびと育つ。さらに、今日大学で習ったことを楽しそうに食卓で語る母親がいたら、子供は勉強することを当たり前だと思うようになる。趣味に生きれば良いと言うのではない。子育てとは独立し、むしろ子育てがその一部に組み込まれるような自分の人生をどう歩むかだ。実際保護者がこのような生き方をされている家庭の子は、自然と「良い」結果を残すものだ。
言うのは簡単だが、これがなかなか実現できないところがむつかしい。