私の子供の一人が高校時代属した部活動は、顧問が本当に何もしなかった。少なくとも表面的には。部活動の運営は全て生徒による集団運営に委ねられていた。練習の計画を立てる、部員に連絡を取り出席を管理する、大会に登録する、練習場所を巡り他の部活と折衝をする、果ては部活動費を増額しコーチを探し出して謝礼をはらい指導を依頼するまで。全ての運営を生徒が行っていた。そのため大量の時間を使い生徒同士議論を重ねていた。顧問は、生徒が全てお膳立てした書類に署名捺印するだけ。引率など必要なときは形式的に顧問が顔を出したが、ただ居るだけ、逆に生徒についていくだけだったようだ。3年間熱心に活動したが、あげる事のできた結果は当然大したものではない。
この体験を通して得たものは大変大きい。大学に進んだとき、他の学生が幼く見えて仕方がなかったようだ。ゼミでリーダーシップをとり、クラブ活動に精を出し、バイトで金を貯めて留学するなど、大いに有意義な学生生活を送る事ができた。顧問のだらしなさについて、子供は不満をならべていたが、私はこの顧問に感謝している。このような体験こそが、部活動の目的なのだ。
単に顧問がやる気がないだけたったらこのような活動は決して成立しない。高校生が自主的に動くには、膨大な量の情報を学習しなくてはならない。先に挙げた活動内容についても、どうして良いかわからければ、できないことだ。単に手続きの仕方のような知識から、集団運営の方法リーダーシップの取り方、議論の仕方、必要な情報を獲得する方法まで、担当する生徒が身につけなければ自主的な活動は成立しない。さらに、このようにして自主的に活動することの意義を自分自身が評価できるからこそ生徒は積極的に動く。これらのことは指導者の関与なくして決して成立しない。
自主活動がそのクラブの伝統、更に学校全体の伝統なのかもしれない。生徒は自覚せぬままに、呼吸するように自然に自主性を身につけられる学校はある。しかし、伝統を作り維持発展させるためには、教員の指導、必要な情報の提供が是非とも必要である。空気のように学校を覆うには教員集団がその意義を理解し、学校の生徒指導全体にその「香り」がいきわたるのが理想だ。それは教員集団の自覚的努力によってしか達成できない。もちろん、入学してくる生徒の「質」にも大きく規定されていて、必要な労力の差は大きいのも事実だし、事実上不可能な学校もあるだろう。
一つの部活動で自主活動の伝統を作り上げるには何年もかかる。生徒の適性を見計らいながら必要な情報やノウハウを提供し、陰に陽に活動を支え、慎重に活動力を高めていく。こうした指導を続ければ、生徒は交代しながらも徐々に伝統は形成され活動力が育つ。逆に言えば何年か辛抱すればできる。これが部活動指導の魅力でもある。
このような、自主的な部活動は近年数を減らしているように思える。教員自身が部活動の本来の意義を見失っている。歴史的にはまず、自主活動の伝統を守ってきた学校の活動力衰退。自主的に生徒が動く学校の生徒指導はある意味で楽だ。そこで多くの教員が本当に手を抜き、伝統の維持発展のために必要な指導を怠った。自主性の涵養と放任を取り違えている。これは、戦後「民主教育」をリードした労働組合の衰退とも重なる。そして顧問管理型のクラブが当然「結果」を残し主流を占める事になる。
かつて、私が顧問をしていた部活動でも優勝はできないが(私学の選手養成コースのような部活には当然歯が立たない)結構上位に殆ど生徒だけの運営による学校があった。大会会場外で生徒同士が輪になって延々と総括討議をしていたりする。練習試合に行くと、生徒が総出で歓迎してくれるが、顧問は一瞬挨拶に来るだけですぐどこかに行ってしまう。このような学校はこの30年で極端に減ったように思う。「自主運営」による学校もあるが、生徒数も活動力も衰退するばかりに見える。
これは負のスパイラルを生む。高校生の自主活動を本当の意味で体験しない世代が教員になる。「自主的」に活動することの価値を教員が体験として知らない。仕事も上司に言われるがまま。彼らは、生徒もまた教員の言われるがままに動けばよいと思っている。自分がそうしてきたように。
生徒が自主運営する部活動を裏からさりげなく支える仕事は、直接生徒から感謝してもらえない。結果は生徒自身が出したと感じられなければ、自主運営ではないからだ。仕事の手応えが欲しい教員手柄が欲しい教員は、これに耐えられない。主体性の涵養と黒子としての教員のようなある種の理念の実現は、教員相互の精神的支え合いによってはじめて可能になる。労働組合の衰退で、教員社会は理想主義を失い、教員は個人的栄誉を求めて部活動の場でも生徒の自主性を奪う。