子供集団の消滅

 海辺の僻村を旅行した事がある。戦後しばらくして自動車道路ができるまで、物資の輸送は船しか頼るものがなく、それまでは主食として芋を食べる事が多かったと聞いた。民宿の部屋に落ち着くと子供の歓声が聞こえる。窓の外を見ると、すぐ先に小さな漁港がある。晴れ上がった夏の日、堤防の先端に子供が集まり飛び込みながら遊んでいる。子どもたちの甲高い声は暗くなるまで続く。自分の子供時代を思い出した
学校から帰ると、近所の子どもたちが集まって遊ぶ。それ以外にする事がなかった。昭和30年代の地方都市近郊。学習塾はない。テレビはお金持ちの家に入り始めていたくらい。算盤塾や音楽教室に通う者はいたがそれも週一回くらい。暗くなる頃、ご飯ができたと母親が呼びに来る。 集団の構成は偶発的流動的、何をやるかもその日次第。ここで沢山の事を学んだ。様々な遊びのルール、やり方、勝つための戦略。模型飛行機の作り方、コマのまわし方、凧の飛ばし方。「肥後の守」(子どもたちが持つのを許された小型ナイフ)を使った杉の実鉄砲などの細工の仕方。いたずらのしかた。どこまでだったら許されて、何をすると大人が本気で怒るか大体年長者が教えてくれた。
「缶蹴り」は全国に全国で行われていた様だ。様々な地方の出身者に聞いてもたいてい知っている。空き缶が手近にある時代に広まったのだろうけど、一体どうやって。
中学生になるとクラブ活動が忙しくなるので、上は小学六年生から下は幼児まで。小さい子は見ているだけ、次に参加できるけど大目に見てもらって、(「みそっかす」と言う言葉があったな)一人前の能力を認められてはじめて台頭に遊びに参加できる。そういう事を年長者が定める。人間関係についても独自の規範が成立していた。当然、喧嘩もある、仲間はずれもいじめもある。しかし、限られた仲間でずっと遊ぶのだから、どこかで解消され集団は維持されていた。
 昭和を美化してますね。しかし思い返してみると子どもたちの「おきて」は厳しく集団への同化の圧力は強かったように思う。私の両親は都会育ちでその地方への流入者だったし、狭い住宅の一角を文学全集がぎっしりと埋める「インテリ」だったから、その地域の同年代の友人たちから受ける同化圧力を身にしみて感じながら過ごすことになった。言葉遣い一つで排除の対象になる。必死でその地方の子供社会を統制していた「おきて」規範を学ぶ。子供社会にはいる時に感じた抵抗感が日本近代化の始まりなのだろう。この縛りを振り捨てようと日本人はもがいてきた。その後に何が残ったか。何を作れたのか。話は飛ぶが、この点で村上春樹の作品が共感を呼び、人気を博しているのだと思う。
 この子供集団のルールが学校に持ち込まれ、学校での児童生徒集団の基本ルールになっていた。自分たちが既に身につけている、または学びつつある社会ルールを学校という場に拡張していく。学校はより広く、公共性の高い社会集団への参加の仕方を教えてくれる。この子供集団が都会では近年本当になくなりつつある様だ。失われたものを挙げてみたい。
一、社会集団に参加するための基本ルールを学ぶ場が学校外から失われた。
 高校生になっても、自発的な集団形成をなかなかしてくれない。個人が個人のまま集まっている。まるで幼稚な人間関係のトラブルが多発する。いじめや仲間はずれは昔からある。中学生、高校生にもなれば随分ひどい事もしていた。それでも今の様に問題にならなかったのは、その限度と納め方もまたお互い何となく知っていたからだと思う。暴行を加えるにしても、相手がどれくらい苦しむか知ってやっていた。だからこそ、とてつもなく残酷な暴行もあった。有効に痛めつけるのも文化だ。今の子は、それをしたら相手にどれくらいこたえるか、本当に知らずにやっている場合がある。
一、相互に顔を見ながら関係を作る、人間関係の基本を訓練する場が失われた。
 他人の立場、考え、感情を理解する能力がどんどん落ちていく。言語や他人の感情は脳内の特定部位で処理されるらしい。生物学的にその能力を備えていても、言語でもそうである様に訓練しなければ機能しない。生身の顔から見つめられる事、見つめる事は人間にとって特殊な体験で、これを特殊なものにしているのが、人間と他の動物を区別する者ものだと聞いた事がある。
大人でも直接会いづらいから、電話する。電話でも話しづらいからメールする。生身の人間が出会うのは特殊な体験だ。テレビを見つめても、テレビの登場人物がこちらを(テレビカメラを)見つめていても駄目なのだ。そういう対人関係のスキル、人間が人間であるための基本をトレーニングする機会を現代の子は失いつつある。
一、対等な立場で自分を表現し、他者の表現を受け入れる言語トレーニングの場を失った。
 遊び集団の子どもたちの声は大変やかましい。必死で自己表現し、自分を正当化する論陣を組む。相手を非難する。昔の子はこれを毎日延々と繰り返していた。遊んでいる子が一日どれくらい発話するか、誰か統計を取って欲しい。現代の都会の子は、学校帰ってきたら一休みする間にちょっとゲームやって、塾やお稽古事やって、また家帰ってきたらテレビ見て学校と塾の宿題やって。接する言語は大人から子供への一方通行、テレビも一方的な情報の押しつけだ。自発的な発話をどれだけしているだろう。自分の論理を構築する体験をどこでするのだろう。
一、集団の中での自分と他者とを知る機会を失った
 遊んでいればその集団の中で互いの個性がはっきり見えてくる。運動能力の優れた子がもちろん一番尊敬されるのだが、人間関係をおさめるのが上手い子、新しいアイディアをどんどん出してくる子。人間の多様性と、社会での自分の特質を最初に知る場が子供の遊び集団だった様に思う。小さい子も参加してくる。体の弱い子もいる。行動の遅い子もいる。これらの子に集団の中にどう組み込んでいくか年長者(と言っても小学校高学年)は配慮しながら行動していた。こうして集団を組みながら、他者の長所短所を知りそれと協調することを学ぶ。また、自分を知り(というか嫌と言うほど知らされ)社会との折り合いの付け方を学ぶ。
近年アスペルガー症候群と診断される子供は急増している。しかしこれは、「先進」国に特徴的な事で、発展途上国には見られない現象らしい。「変わった子」はいたが、それぞれ子供社会で、学校で程よい位置を得ていた様に思うのだ。幼児期に社会に接する事で個性に応じた社会性の基礎を身につけまた、集団全体がそれぞれの個性を包摂する事を学んでいたと思う。もちろん程度の問題はあるけれど。
若者が「自分探し」をし始めたのも、子供社会の喪失と連動している様な気がする。幼い頃に「身の程」を知る、知らされる体験をしていない世代だ。

一、自分たちでものを作る文化が失われた
 遊びは創造だ。集まってくる子供は日によって違う。手に入るものもちがう。毎日何らかの工夫が必要になる。
一、遊びながら身体の可能性を知り自然に基礎体力を訓練する場を失った
子供がスイミングスクールに親のベンツで通う、ジョークでもなくごく普通の光景になってしまった。
一、自然との接点を失う
 その上、私の場合その遊びの場が里山に隣接する新興住宅地だったから、里山と畑と田んぼが遊び場であり自然とふれ合う場であった。メダカ、ザリガニ、カブトムシ、随分の数とったと思うが、それでもまだいくらでもいた。キノコを採った。ヤマユリ掘って庭に植えた。風呂の焚きつけ用に松ぼっくり拾い小遣い稼いだ。里山に入りそのにおいをかぐ事で季節を感じていた。
 数え上げればきりがない。この体験を子どもたちから奪った代償をどう払おうか。