センター試験数学を何とかしてくれ

問 △ABCで、AB=3, BC=4, CA=5 のとき、内接円の半径rを求めなさい。

この問に記述答案で答えるなら、
内接円の半径と三角形の辺の長さ、三角形の面積との関係から
r(3+4+5)=3×4
r=1
と、解く。公式を用いて解答したときは、用いた公式の名称を言葉で指摘して、日本語の豊富な表現力のある答案を作りなさい、と指導する。ところがこれがマーク式の問題になると

問 △ABCで、AB=3, BC=4, CA=5 のとき、内接円の半径をrとすれば
r=[ア]である。

と出題されるから、解答は
半径は整数値で、この三角形で半径2の内接円はあり得ないから、ァは1をマークする。問題量が多く時間が足りないとき、正直に計算してはいけない。問題全体をよく見て要領よく解答しなさい、マークしか採点されないのだから無駄な計算を極力避けなさい、と指導する。この例のような極端な場合は少ないかも知れない。それなりの配慮がされていることもわかるが、現行センター形式のマーク試験が持つ、本質的なばかばかしさは変わらない。
高校の数学教員はこういう二重の指導を強いられている。優秀な集団なら、マーク試験特有の技術を修得するためにそれ程時間は要らないのだが、そのような生徒はごく僅かだろう。二次の記述試験は難問が多く平均点合格点共に低く大きな差がつかないから、センター試験の失敗が合否に直結する場合は多い。センター試験をこなすため特殊なトレーニングが必要になる。その一方で記述試験に対応して、数学の問題を解決するための試行錯誤、学習内容の本質的な理解、解決過程の表現力等を生徒に教えていかねばならない。
何故こんなことになるのだろうか。センター試験は高校卒業資格試験であると同時に大学入学の選抜試験でもある、この2つを兼ね備えた数学のマークシート試験がそもそも無理なのだ。
センター試験では出題範囲を教科書にあらわれた問題範囲に限定することを明言している。同時に、効率の良い選抜試験でもなくてはならない。平均点75点、合格ライン85点のテストは選抜試験としては分解能が悪すぎる。受験者の2~3割を合格とする場合、平均点40点合格点50点くらいの方が遥かに信頼性の高い、分解能の高い選抜ができるはずだ。
そもそも、国大協がセンター試験実施に踏み切った理由は、当時地方に増えた小規模大学に、入試の実施そのものが大きな負担となっていた事による。入試の作問および採点は大変な作業だ。問題の質、適切さから、印刷製本から実施までの秘密保持、採点の公平さまで。大規模な総合大学がこなしてきた業務が、小規模大学には大きな負担になる。受験生が五千人でも二百人でも作問の手間は一緒だ。作問できる数学の教授が何人いるか、大学によってずいぶん差があるだろう。国大協は、規模や学生数に比例せず、大学毎に1個の議決権であるから、小規模大学の意見は比較通りやすい。共通試験の実施をかねてから望んでいた文部省(当時)の意向を承認する形で、共通一次が始まり、センター試験につながる。センター試験は選抜試験でなくてはならない。
個別の大学で試験を実施する場合、その大学を受験する生徒の学力に合わせて問題を設計することができる。選抜試験として適切な内容、難易度を調整できる。これを、全国の受験生全体を対象として一括した選抜試験とすることにそもそも無理がある。また、数学の記述試験を公平に採点することは大変難しい。思考力や表現力を問う問題は、作問も難しいが公平な採点は更に難しい。数千人規模の採点をする大学では、予備採点をし採点基準を定めるまでにかなりの時間をかけると聞く。それを数十万人規模で実施し即座に結果を出すために、コンピュータを用いたマーク試験が採用された。
結果として内容的に易しいにもかかわらず差のつく作問が強いられることになる。どういう風に差をつけるか。とられた方針が、問題量を増やすこと、問題を煩雑にすることの2つである。簡単に言うなら、試験時間が3倍ほどあればセンター数学は平易な問題なのだ。ゆっくり落ち着いて考え、正確な計算ができればよい。(うんざりするほど煩雑で問題としての魅力は全くない場合が多いが。)ミスをしたら検算すればよい。それを60分で解答しなければならないから問題が起きる。問題を見て瞬時に解答方針をたてる。煩雑な計算もミスなしに1回で仕上げる。数学の問題を解決するために是非とも必要な試行錯誤の時間がそもそも与えられていない。そのため、計算の訓練と問題パターンの修得に受験生は時間を費やす。
生徒の中には、ゆっくり考える事が好きで、そのために理科系を選ぶものは多い。独創性ある解答を作る者や、綺麗で論理的にしっかりした骨格の答案を作る事ができる者など多様な個性がある。定型パターンの高速処理、これも数学処理の能力の一部ではあろうが、一部に過ぎない。マーク試験の根本の問題として、独自の発想や表現力を問うような作問はできない。作問者の用意した解答過程に自分の思考を沿わせることのみが要求される。そもそも、マーク試験では数学の理解や表現を確かめることは無理だ。と思う。
私は、センター試験の中で特に英語は、ある種の良い結果を与えたと思っている。修飾関係が複雑でパズルのような構文解析が必要な文章、大学のゼミ生ですら頭をひねるような難解な英文を日本語にする作業から、平易な英文の速読と大意の把握に重点が移ったことは大変喜ばしいことで、日本の語学教育は一歩前進したのではないかと考えている。しかし、実施時間に対するその量の多さは数学と同じ。問題の総単語数は4000を越す。分速50語では読むだけで80分かかってしまう計算だ。センターで得点を上げるためまず生徒に教えるのは、時間配分。国語も同じ。制限時間内に読まなくてはならない文章の量は半端でない。評論文と小説は共に四千~五千字、更に古典、漢文。難関大学に合格するにはこのようなテストで全体として9割以上の得点が求められる。速さと要領の良さが受験指導の焦点になる。そのような生徒が難関校の合格切符を手にする。情けない話だ。
高校教員が望む解決策は、だた一つ。選抜試験であることをやめ、資格試験に純化することだ。高校の数学を教科書レベルで一通り学習したら、ほぼ満点取れるテストにする。計算を容易にし、問題量を減らす。優秀な生徒であれば、時間をもてあます程度の内容にする。そのことによって、高校での数学教育は随分改善されると思う。特に、大学に進学し更に勉強しようと思うものへの数学教育をもう少しまともなものにできるはず。ばかばかしいトレーニングの時間を生徒に与えなくて済む。
もう一つの解決策。独自の作問力がある大学はセンター試験から降りる。以前の京都大学理学部のように。文系から理系までの学部を揃え一学年の募集定員が五百人を超す国公立大学では、センター試験を足切り以外には使わないことにする。残りの生徒を対象として問題内容を設計し直す。もしくは、文系学部では理系科目しかセンターを選抜に使わない、理系学部では文系科目しか選抜に使わないようにする。つまり二次試験実施科目と同じ科目のセンター試験は選抜に使わないことにする。
大学入試の選抜試験が何故このように過熱するかはまた別の問題として、少なくとも現行センター試験数学のばかばかしさから早く脱出すべきだと考える。工場の現場から企業や大学の研究室まで、創造力ある人材が豊富に配置されてきたからこそ、戦後日本の復興があった。そういう人材が枯渇することを危惧する。