近頃書店で隣国の悪口を書き立てた本がコーナーを作るようになった。多数の本が平積みで売られている。タイトルも宣伝用の「帯」も随分汚らしい事が書いてある。大体、他国の悪口を言えばきりがないのであって、米国について悪口をならべれば材料はもっとたくさんある。実際新書版にはアメリカ批判の本が随分出ているのだが、「反米コーナー」ができたり、「それでもこの国とつきあいますか」のような情緒的な帯は掛かったりしない。今のブームはそれから考えても異様だ。マスコミを通じてしかまだお目にかかっていないが「ヘイトスピーチ」の内容も同じく。極端な差別的表現が平然と大都市の街頭宣伝で行われる。この書物のブームを新聞が特集していて、『嫌中憎韓』と言うのだそうだ。妙な既視感にとらわれて考えてみると、小説「1Q84」の連想。これが私たちの住んでいた社会だったか。異世界に紛れ込んでしまった様な感覚。
高等学校では、(個人的な体験になるが)90年代後半から、読書量も多く多少なり政治思想に関心を寄せる理知的な生徒の中に、「右翼」的な発言をする生徒が現れ始めた様に思う。教員として人間的にも充分信頼できクラスでの人望もある生徒が、じっくり話してみると、かなり「右翼」的政治思想を抱えている。彼らが共通に語るのは、従来の「左翼的」言動は大変脆弱で、それに比べて「右翼」的言動に力を感じるのだそうだ。それまでは、およそものを考える生徒はどちらかと言えば「左翼」の側からの反体制的視点をとろうとしていた。もちろんそこには、「ベルリンの壁」に象徴される世界規模での社会主義国家の崩壊、日本での社会主義政党の凋落などが大きな社会背景としてあるのは間違いない。でもそれで説明を終えては前に進めない。
現在のような排外的言動が大衆的規模で現れると感じる様になったのは、インターネット掲示板でのいわゆる「ネットウヨ」の登場からのように思う。それまででも右翼政治団体はあって、街頭宣伝車が走り、日教組大会を妨害していたりした。しかし支持者拡大にはある限度があってある意味で安心して眺めていられた。その支持者の拡大が、2000年代違った様相を見せる。 「本音と建前」と言う言葉がある。この言葉に沿って考えれば、インターネットは「本音」でものを言う場を解放した。元来日本の文化の中に、「勇気をもって」「本音」を語る人間を礼賛する風潮がある。その傾向がどんどん助長されている。そして日本の若者が「本音」で語ると、差別、拝外。ある先輩が、「本音と建前」を「現実と理想」の文脈と取り違えていると指摘していた。維新の会代表は、そのために国際的に袋叩きにあった。「本音と建前」は国際的には全く通用しない日本の地方文化のようだ。理想をあくまで理想として語り続ける事が、外交と政治の国際基準だ。そして理想は「建前」ではない。
戦後の民主主義教育は、日本にどれだけの事を植え付ける事ができたのだろう。民主主義は「建前」にすぎず日本人の「本音」にはなり得ていないのだろうか。自由民主党という政党の存在に西欧人は首をかしげるという。自由主義、民主主義についてどれだけの人間がしっかり語れるだろうか。その違いを鮮明に表現できるだろうか。いや、我々は、自由主義、民主主義と言う言葉をどう使っているのだろうか。戦後民主主義は、占領国によって一方的に与えられた。長い苦難の末に一歩一歩闘いとるような過程を踏んでいない。そのため、「自由主義」、「民主主義」は深く考え込むことなくは無定義述語のように安易に使われてきた。相手を批判する道具としてこの言葉を使う事はあっても、その中身について腰を据えて考える事がどれだけあっただろうか。その付け払いが迫られている気がしてならない。
生徒に学級討論をさせる。たとえば文化祭の取り組みについて。議長はまずアイディアを求める。何件かの案が板書され一段落すると、多数決をとって、最大票を獲得した意見が採用されておしまい。後期中等教育完成の高校3年生でもこんな風であった。私が
「それは民主主義でないだろう」
コメントを入れると、生徒はきょとんとする。
「民主主義とは、他人の意見をよく聞き、議論を尽くす事だ。できれば全員一致になるまで討議を続ける事が望ましい。」
と言うと、
「そんな事はじめて聞いた」
と返ってくる。私たちは学校教育を通じて民主主義を教える事ができているのか。教員が民主主義を知っているのか。実践しているのか。学校運営は民主的で、教員会議は健全な討論の場になっているか。こう書くとブラックジョークの様だ。更に言うなら、この国の最高議決機関、国民の1/100000以下のメンバーで構成されたスパーエリート集団の議論の様子は民主的か。自分の主張を一方的に語り、他人の主張は野次と怒号で消してしまう。それを手本に子どもたちは育つ。
民主主義の基本理念である、あらゆる個の平等な尊重を、学校教育で教える場は殆どない。逆に、学校での生徒の行為は、数値化され序列化されている。進路先の偏差値、学校の成績、クラス内順位、あらゆるスポーツに順位がつき、文系クラブにもコンクールがある。その「成果」だけが重視され、目的と結果はすり替えられそのこと自体が忘れ去られている。他者は自分の相対的な位置を決定するための道具になる。社会に出れば最後には貨幣という絶対的数値基準が存在する。現行政府が、短期的な経済繁栄と排外的外交を政策をセットとして掲げるのは偶然でない。お金を儲けて、他人を見下して暮らす。それが「本音」なのだ。序列化すれば、上を見ても下を見てもきりがないから、序列化の中で自己を定めようとすれば、必ず「自分より下」を同定する作業が始まる。学校は、毎日丹念に差別と排外主義を教え込んできた。いじめを助長してきた。
私たちは、理想を語る事のたいせつさを忘れてはならない。いくら現実離れしていてもそれは決して「建前」ではないのだ。民主主義をどう教育するか、その前に教える側がどう理解し実践するかしっかり考えたい。
と、「理想論」を語ってみたくなった。