自己評価

子供の自己評価が低いとマスコミではよく言われている。いろいろな調査が行われている様だが、たとえばインターネット上にこういうデータが公開されている。

「高校生の心と体の健康に関する調査」
日本青少年研究所  2011年2月発表 より

問30 あなたは自分自身をどう思っていますか。
4) 私は自分を肯定的に評価するほうだ
日本 米国 中国 韓国
1. 全くそうだ 6.2 41.2 38.0 18.9
2. まあそうだ 30.8 35.0 44.6 51.6

5) 私は自分に満足している
日本 米国 中国 韓国
1. 全くそうだ 3.9 41.6 21.9 14.9
2. まあそうだ 20.8 36.6 46.6 48.4

確かに、米国との差は極端だ。謙虚を美徳とする日本文化と、自己表現力を最大限評価する米国文化の差はあると思う。しかし、それでは済まないある種の真実をこのデータは語っている様に思う。
自己評価とは何だろうか。こういう体験がある。ある生徒が教員室へ進路相談に来ての発言だ。
「大学へ行きたくなりました。私は馬鹿です。理解が人より遅い。でも体力あります。人の倍勉強する自身あります。これからの勉強の方法を教えて下さい。」
素晴らしい生徒だ。この発言を聞いた瞬間この子が進路目標をかなえるだろう事を確信した。実際その通りになった。こういう子供を育てた保護者を尊敬する。自己評価の高さとはこういうものだ。残念ながらこういう生徒に巡りあう機会がどんどん減っている様に感じる。
この子は、自分の能力の限界を周囲にさらけ出す事を怖れない。努力の結果が失敗に終わる事を怖れない。だから自分を賭けることができる。挑戦する事ができる。なぜなら、自分の存在価値を学習能力とか進路などとは全く違う次元でしっかり確保しているからだ。他人と能力を比較しても、結果が失敗に終わっても、そんな事では傷つかない別の次元で自尊心を保持している。彼は、自分の存在そのものの価値を信じている。
この確信は、具体的な人間のふれあいの中で生まれる。A君はA君だから価値がある。そういう人間関係からしかこういう自尊心は育たない。その基本はやはり親子関係だろう。子供が可愛いのは、何かの能力に優れているからでも、見た目がよいからでもない。ただ自分の子供だからだ。それは誰とも交換できない絶対的なものだ。その関係が親族に、地域に広がり、人は自尊心を形成する。人間はこういう風に家族を作り、共同体を作り生き延びてきた。自己評価は、自分で与えるものでなく、社会から与えられるものだ。
子供の自己評価の低さは、このような緊密な人間関係が失われつつある事を示しているのではないか。まず親が子供に対し絶対的な愛情を示さなくなりつつある。いや示しづらい社会になってきた。保護者の所でも書いたが、子供がただ元気に生きていればよかった時代は失われた。子供は小さいときから序列化・数値化され、その物差しは、家庭にも持ち込まれる。小学校1年生が塾に入るに際し知能検査を受け、知能指数が本人に告知されると聞いて愕然としたのは随分前の事だ。親は自分を子供に投影し、子供を達成度で評価する。学業成績だったり、スポーツ大会の結果だったり、お稽古事のすすみ具合だったり。
「能力」の社会的な評価は自己評価の根本を形成できない。それは、何かができれば自信はつく。しかし、数値化された序列には必ず上がある。そして同じ数値の匿名の誰かと常に交換可能だ。
自己評価は伝染する。自己評価が低い人間に他者の存在を絶対的に肯定する力はない。自分を肯定してこそ他者を肯定できる。自己評価の低い人間がそのまま大人になって自己評価の低い子供を育てる。今、日本はこの負の螺旋を突き進んでいる。同じ理屈で、自己評価の高い生徒を育てるためには、自己評価の高い教師が必要なのだ。
昔の親の様に子供を育てよう。何かができたら、と言う条件付き子育てを止め、無条件に子供を大切にしよう。親は、まず自分の人生を、今の自分を肯定し自己評価を高めよう。
学校という仮の社会でも、それが劇場空間であったとしても、個人を絶対的に大切にする事を真剣に教えよう。劇場空間だからこそ、「ごっこ」の世界だからこそできる事がある。温室の中では、厳しい自然界では決してできないうつくしい花が咲く事がある。こういう観点から教育を根本的に組み立て直すとどんな学校ができるだろう。
実際には絶対的な他者の肯定、絶対的な自己肯定は簡単な事ではない。むしろ究極の理念であって、実現はできないものなのだろう。実現したとき、それは死を意味するのかもしれない。
宗教と愛と死は同じ点に収斂する。