かつて、真空管ラジオの背面には必ず配線図が貼ってあった。我が家に初めて来たテレビの背面にも配線図が貼ってあった。多少電気の知識があれば全体を理解できた。各部品の構造も単純で高校程度の理科の知識があればその動作原理をすべて理解できる。ラジオ、アナログテレビの信号形式は広く公開されていたし、FMステレオの本放送が始まると、ステレオ放送の信号形式の解説と復調回路の作り方がラジオ制作雑誌に特集された。多少電気の知識があれば「なるほど」と納得できる程度のものだった。信号形式が単純だから受信機の構造も単純、理解も可能だし、自作や修理もできた。今でも中波ラジオは、部品4個でゲルマニウムラジオが組める。20年前ぐらいだろうか、実家の古いカラーテレビの色がおかしいので緑信号の系列を追跡し、電解コンデンサーを1個取り替えて直した事がある。
地上波デジタルテレビの信号形式を国民の何%が知っているだろう。秘密にされているわけではない。インターネット上でいくらでも詳しく知る事ができるのだが、その内容が複雑で専門知識をかなり蓄えないと「なるほど」と何得できないだろう。受信機はコンピュータの一種でありその内部を理解するのは簡単な事ではない。
自動車の仕組みも基本は極めて単純で、素人でも随分さわる事ができた。重たいので本格的な修理のためには、大型ジャッキとかクレーンとかが必要になるが。米国などでは自分のガレージで車を修理し、古い車を乗り回す人が今でも多くいる。しかし、「電子制御」が登場し、キャブレターが電子燃料噴射に変わり、変速機が電子制御自動変速になって車も理解不能になり、素人には修理不能になった。日本製のオフロード車は本当のオフロードでは役にたたないという話を聞いた事がある。電子回路なんて一切ない、昔のソ連製あたりの方が砂漠ではずっと信頼できるのだそうだ。テープとか針金で応急措置ができる。
レコードは音の振動がその形のまま溝に刻まれていた。画用紙に縫い針をセロテープで貼り付けたもので回転するレコードに触れれば音が聞こえた。銀色に光るプラスティックの円盤にはそのような親密性がない。原理は他の電子機器に比べれば単純な方だろうが、再生機はこれもほぼコンピュータ。高速に動作する超小型コンピューターが安価に入手できるようになってはじめて実用化された。
昔の黒電話、裏蓋のねじを外すと番号ダイヤルとベルが見え、マイクとスピーカーがつながっているだけでそれ以外の何もなかった。今の携帯電話は、30年前のスパーコンピュータを遥かに上回るコンピュータに制御されている。中身の全体を知っている人間は恐らく世界中に誰もいない。日本に数千万台ある携帯の中から1台を特定して回線を接続するためには複雑な手続きが必要だ。その概要も知らないから、脱走犯が携帯電話を使って警察に捕まる。
私が初めて仕事用に用いたPC、なつかしのMZ-80Bには全回路図とIPLの機械語語ソース、BASICインタプリタのkせつめいが記載されたマニュアルが附属していた。ソフトを自作しない限り動かなかった。図面を見て自作応用機器を接続して使っていた人が結構いたからこそ全回路図が掲載されていたのだろう。時代と共にPCの性能が向上し、それに反比例してマニュアルは薄くなる。
書き出せばきりがない。集積回路の技術、小型コンピュータ製造技術がもたらした劇的な環境の変化は、思い返せば、ほんの30年ほどのことなのだ。1970年代まで、私たちが生活に使う道具は殆ど全て内容が理解可能で、たいていの道具は素人でも修理も可能だった。少なくとも一人の人間がその全容を把握する事が可能だった。今、身の回りにいくらでもある、コンピュータ(PC、携帯、テレビ、CD、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、・・・)はその構造の全体を一人の人間が全て理解する事はできなくなっている。コンピュータ心臓部であるLSIは数千万から数億の素子が配線されて成り立っている。それを動かすソフトウエアはたとえばウインドウズ7で5千万行以上のソースコードで成り立っているという。この全体を誰が把握できようか。同時にその製造のためには、巨大な資本と情報の蓄積が必要であり、「パーソナル」なコンピュータが世界的な寡占状態でしか提供されない状態が生まれている。我々の周囲をブラックボックスが覆う。意図的に隠されているわけではない。(そういう部分もあるだろうが。)規模が大きすぎ、内容が限度を超えて煩雑すぎるのだ。そのこと自体熟考を要する事なのだが、もう一つ気になるのは、このような環境で育った子供たちだ。
我々は、この30年を大人の目で見ながら通過する事ができた。新しい機械をそれなりに納得しながら使おうとしてきた。今の子供たちには、はじめから電子機器がある。予め理解を拒絶した道具に囲まれて育つ。大体素人の修理を想定していないから、簡単に内部を見る事はできないし、仮に見てもLSIが何個かペタッとついているだけだ。ゲーム機にしてもテレビにしても携帯にしても、その動作に何の疑問も持たない子供たちが大半だろう。二進数を教えたついでにCDの信号について話したら、日直日誌に「考えたら不思議一杯」とあった。後で記載した生徒と話してみると、今まで疑問にも持たなかったという。疑問に思っても無駄だから、与えられたものを素直に受け入れ活用しなさい。今の子供は、幼少時から自然にそういう訓練を受けて育つ。この発想は身の回りの物理的道具に止まらなくなるだろう。自然現象に疑問を持たなくなり、社会制度に疑問を持たなくなり・・・。
子供たちの批評精神を育てようとするとき、このブラックボックスをどう扱ったらいいだろうか。