家族

テレビもラジオも電話もない明治時代、日本人はどんな家庭生活をおくっていたのだろう。更に百年遡って、電気もない、新聞もない、学校もない、父親の出勤もない時代の農村で(日本人の大半は農民漁民だった)家族はどうだったのだろう。歴史的に見ればこのような生活が、二十世紀に入ってからのサラリーマンの生活より少なくとも数百倍は長いはずだ。
1980年代だが、人類学フィールドワークの報告を読んだ事がある。ブッシュマンは実によくしゃべり、よく笑うそうだ。動物一頭倒せば、食べ尽くすまで他にすることが無い。文明の進歩と人間の談笑時間は逆比例の関係にあるのではないかと報告書は述べていた。ジャレド・ダイヤモンド氏も同様のことを書いている。ニューギニア高地人は夜になれば火を囲んで談笑して過ごす。他の項で書いたけれど、それが伝承と教育の場にもなる。
日本人だって、つい最近まで(百五十年くらい前まで)もっと親密な共同生活をおくっていたのではないかと考えるのが自然だろう。私たちの文化は、そういう生活を前提にして基本的枠組みを形成している。
今、どの部屋も照明があって当たり前。子供は個室を持ち、テレビは家庭に複数台あって当たり前、電話は個人所有、インターネットも個々にアクセス可能。家に帰ってくる時間もばらばら。空間と時間を家族の構成員が共有することは、量と質の両面で随分後退してしまった
家族とは何か議論するできる力は私にない。性生活、親族と家族、議論は拡散する。簡単に、人間が共同生活を必要とし、同じ住居に暮らすその最小単位を家族と呼ぶなら、その現実的な存立基盤は時代の進行と共に大きく変わった。人が家族を形成する必要は徐々に失われている。一人でシマウマを狩ることはできない。農耕も一人でできるものでない。北の極限で暮らすイヌイットにとって伴侶の喪失は自分の死をまねく切実な問題だそうだ。
高度経済成長まで、サラリーマンの一人暮らしも不可能だった。全て外食で済ます程の給料は出なかったし、今のような外食産業はなかった。全自動洗濯機と乾燥機もなかった。電気掃除機もなかった。サラリーマンは結婚するまで実家で暮らすか、賄い付きの下宿か寮で過ごすのが普通だった。結婚することは男は社会人として生きていくために必須であった。女性はその補助として家庭を運営する。これも、朝から晩まで働きづめの労働だった。
それが、今では全く様相を変えた。都市で終身雇用を得れば、結婚するよりずっと経済的に恵まれた生活ができる。お金さえあれば全て不自由なくまかなえる。育児も一人親でも可能。家族を形成する切迫がない。
結婚しない若者が増える。離婚が増える。<婚姻率と離婚率の長期的推移>離婚しないまでも、現在の家庭生活を維持することが絶対条件でなくなり、リセット可能なものに見えたとき、構えは随分変わってくるだろう。維持しようと思うからこそ、反省し、妥協し、我慢する。互いに。そういう回路が働かなくなる。
担任をしていて、一人親家庭の数は急速に増えていることが実感としてわかる。かつてクラスに一人か二人入るかどうか位だった一人親家庭が、近年場合によっては二割を越す場合がある。問題行動などのため生徒の家庭生活により踏み込むことになると、離婚はしていないのだけれど別居状態、また別居もしていないのだが殆ど父親が帰宅しない家庭などもわかってくる。実質的な一人親家庭は更に多い。
文化には強い慣性が働いていてこのように急速に変わることがない。そのねじれが、様々な問題を生む。人間は他者からの承認を得て生きる。「あなたは居てもらうと困るから消えてくれ」と全く違う立場の人何人かから立て続けに言われたら、本当に死にたくなる。人類がその誕生以来続けてきた共同生活が生んだ、人間の文化の根幹だ。(母親から離れれば生涯単独行動で過ごす白熊はどんな自己認識を持っているのだろう。)家族がその相互承認システムの基本単位であったはずだ。それが経済生活の面から揺らいでいる。
他項で書いたが、教育もまたその多くの部分を家族が担ってきた。言語、運動の基礎、基本的生活知識、生活習慣などから、社会倫理まで。教育の基本単位は家族だ。学校で問題行動を起こした生徒がいれば、学校教員は家族に連絡し解決を家族に委ねる。学級担任が生徒と関わるのは1年、家族は一生。一生涯にわたる絆があってこそ教えられる事がある。
子供たちはその存在を全面肯定してくれる、そして全面的に依存できる保護者を必要としている。保護者が見守るからこそ、微妙な思春期に自己形成ができる。安定した家族は子供たちの成長を容易にする。それは、長く教員をして数多くの家族と接し痛切に感じる事だ。
自分の子供だから可愛い。生きていてくれることそのものに感謝する。そういう子育てができない親が増えている。これも他項で書いたことだが、子供が社会的実績を上げて初めて子供を認める。自分の社会承認願望を子供に投影する。子供が健全な自己肯定感を得られない。大人が生き方を見失い家族が崩壊を始めている兆し。
近代的な家族の形は、資本主義の発展に伴い大量に生み出された給与生活者のために作られたものなのだろう。江戸時代の農民はもっと緩やかな家族生活をしていた、らしい。給料を運んでくるお父さんが一方的に偉くなったのは、明治に入ってからだろう。同時にそれまで人口の一割程度しか居なかった武家の倫理が一般に拡大された。
先に産業革命を通過し資本主義社会を形成した西欧には、資本主義社会の家族形態についてそれなりの成熟過程、文化的蓄積があるように思われる。農村共同体から切断された近代家族をどう形成するか、資本主義社会を生きる人間をどう教育するかの知恵。急速に西欧の経済形態を移植した日本にはそれに対応した成熟過程がない。そのせいで、ネオリベラリズムの世界、自由競争と消費単位の個人への還元の時代に、日本の「家族」は崩壊が早いのではないかという気がする。
生徒の家庭を見ても、私の周囲を見ても家庭のトラブルは多い。子供たちよりも、私たち中年の男女が生きる方向を迷い、あえいでいる。次の世代のために、私たちはどんな社会をつくるべきなのか。「街場の共同体論」(内田樹)何度目かの読み返しをしながら。