「体育会系」という言葉がある。「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」とは、昔からよく言われてきた事だ。私自身はその中に身を置いた事がないが、体育会と言わずとも寮などでもそれに似たような上下関係はあったようだ。40年前の話である。社会は、オイルショック、バブル、ベルリンの壁崩壊、・・。どんどん動いてきた。高度資本主義、消費社会、ポストモダン、グローバリズム、社会を分析する様々な言葉が登場した。共同体意識は失われ、大衆は消費主体としての個人に解体した等と言われる。
にもかかわらず、相変わらず「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」は生き残っている。らしい。程度の差はあるだろうが、大学運動部の寮で1年生が4年生の「付き人」として奴隷のように奉仕する風習は未だ存在すると聞く。そんなことをしていたら、合理性を徹底的に貫く他国のスポーツトレーニングにかなうわけがないと思うのだが、これはの本題から逸れる。学年による上下関係は絶対であり、態度としての礼儀、言葉遣いとしての敬語は体育会で生き延びるための必要条件だ。同時にこれは、今の日本社会で円滑な生活を送るための技術でもある。「体育会系」は就職に有利。日本は変な国である。西欧社会学の概念を当てはめても分析できるわけがない。
この上下関係は、卒業後も保存され、社会に根を下ろす。「体育会系」は日本社会に親和性が強いから、社会の中心部にまで「体育会」出身者は多い。OB会は強い組織を持ち、裏のネットワークを作る。学校の教員も体育科の教員は全員、そして各教科に「体育会系」教員がいる。彼らはたいてい自分が属した種目の部活動を指導する。その指導に「体育会」の感覚を持ち込む。地域のスポーツ教室、少年団の指導者たちも「体育会系」。中学生の部活動加入率約70%、その70%が運動部に属するのだから約半数の中学生は運動部で活動し、多かれ少なかれ「体育会」の空気を吸っていることになる。
体育系部活動では、先輩、指導者への礼儀と言葉遣いが教えられ、それを守る事が強く求められる。実際、それが部活動の最大のメリットであると考える保護者も多い。その程度は運動の種類、学校、地域でまちまちだろう。また、生徒間の上下関係と、指導者対生徒の関係は別に見るべきかも知れない。誰か調査研究してほしい。しかし、都道府県大会、全国大会で実績を残すような部活動ではほぼ例外なくこの関係が強く成り立っていると言って間違いない。従来指導者に対しては無条件の服従が理想とされてきた。過酷なトレーニングを要求し、実績を残すのである。
大学の「体育会」頂点とする運動部の世界は、日本の縦社会を補強する大きな材料になっている。
「教員の指示に従う」、学校ルールを無条件に承認するする生徒が供給されるのだから、教員にとって、礼儀と言葉遣いを仕込まれた運動部員は好都合な存在である。直接その部を指導しなくても同じ学校に勤務すれば、「自分が頭の上がらないA先輩が指導を受けた先生なのだから、自分もまた従って当然」という無限ループができあがり、こちら側の何の努力なくとも生徒が指示に従うようになる。こんな楽な事はないのだ。そして強い部活動に属する生徒は、教室内でも他の生徒が一目置くから、教室全体が指導しやすくなる。
現代社会で、学校の中で生徒が教員の指示に従わなければならないのは、それが学校教育の仕組みであり、そうしないと円滑な運営ができないからだ。別項でも述べたように、サッカー試合の審判のようなものだ。学校で教員の指示に従う事は、生徒の自覚的な学校教育への参加行為の一部であるべきだ。「体育会」的発想がもたらす最大の問題点は、この社会組織への主体的な参加意識を抹殺してしまうとことだ。生徒は、「今ここが縦社会的振る舞いを求められているか」「ここで縦社会的振る舞いを逸脱するとどのような社会的制裁を受けるか」いわゆる場の空気に対する感覚を研ぎ澄ます。
運動部指導者の中に、本来的に生徒を育てる目を持ち、同時に競技とそのコーチングに豊富な知識と経験を持った優れた指導者はいくらでもいる。形としての上下関係裏に、深い信頼関係が成立している事は多い。この、型の実質を作る信頼関係が怪しくなっているのがもう一つの問題点だ。別項で述べたが、子供たちの対人関係に関するスキルは確実に落ちている。これは生徒間の関係のみならず、他者全般に及ぶ。他者を主体的に評価する力量が落ちている。敬語を使うときも、心から尊敬して敬語を使う、その場が求めるから形式的に従って敬語を使う、こういう事に、かつての生徒の方が自覚的だった。
新任の頃、生徒から他の教員の評価、噂話を聞くのは、結構楽しみの一つだった。特に、指導する部活動の生徒なとは普通の教員対生徒とは別の親密な関係が作れるから、合宿の折など面白い話をいくらでも聞けた。学校内にスパイを放っておくようなものだ。独特な視点から下される人物評価は勉強にもなった。生徒間で教員がどう評価されているか、お互いによく知っていた。日常の会話の中で、他者をどう評価するか豊富な話題が存在したのだろう。
教員にこちらが感心するような巧妙なあだ名がついた。あだ名は、的確な人物評価と表裏一体だ。教員をあだ名でしか知らない生徒もいたし、教員間でも生徒の付けたあだ名が流通した。最近、教員のあだ名がめっきり減った。
某高校で起きた、コーチの暴力と生徒の自殺もこういう文脈で起きたと思っている。教員が思っているような信頼関係が実は生徒との間に成立していなかった。これは最近よくある話なのだ。
「体育会」のもたらす縦社会がどんどん形骸化し、社会参画の主体性を奪い、競争社会での子供たちの孤立を促進する後押しとなっているように思える。
1年生が4年生の付き人になることが、そのチームが強くなる事に貢献するはずがない。自分の精神的肉体的条件の管理方法を下級生に教えるのが経験者の役目だ。誰でもわかるこういう不合理を、黙って承認しなさいと「体育会系」は教える。