トランプ大統領の登場から教育の役割をかんがえる

トランプ大統領が登場したとき、橋下徹氏が「知識人の敗北」と述べていた。では、あなたは何者ですかと問いたくなるのはさておき、基本的に正しいと思う。トランプ氏の問題点を云々するよりも、何故「リベラル」が負けたのかをかんがえる方が生産的だろう。


 トランプ氏の政策は自国中産階級の目先の利益を最優先に掲げるものだ。米国において「リベラル」は、この政策を批判しきれなかった。もちろん批判はあった。でも、民衆の心に届くような政策を提示できなかった。もしくは民衆を納得させるだけの論理を展開できなかった。欧州においても、流入する大量の難民と頻発するテロを前にして、極右勢力が台頭、多文化主義は退潮を続ける。日本では憲法改訂を目指す安部政権が国会で圧倒的多数派を占める。なぜ右派が台頭するか新聞でも色々議論されているが、それよりも何故リベラルが無力なのかかんがえるべきだと思うのだ。


 リベラリズムは、単なる理想主義では無い。第二次世界大戦の犠牲者は六千万~八千万人(wikipedia)。二度とこのような惨劇を起こさないための知恵であるはずだ。内部に紛争を抱えた共同体は繁栄しない。大抵滅びる。共同体が共同体として生き延びるために蓄積された経験知の一つとして平等主義がある。二十世紀以降人間の交流(経済)は世界規模になり、地球全体が一つの共同体となる時代が来た。リベラリズムは限られた市場と資源を巡る破滅的な争奪戦を回避するための実践的知になるべきだ。知識人の役割はここにある。狭い地域の利益、時間的に短期の利益の追求と、広範囲のそして時間的に長期の利益との矛盾を示すこと。視野の広い実践的な提言をすることが知識人の役割だと思う。知識人は、単に日常生活を営んでいては見えない遠方を探査し民衆に報告してくれる探検家のようなもの。道に迷って藪に紛れ込んだとき、どちらに進んだら進路が開けるのかを調査する偵察隊のようなものだ。ちょっと良さそうな道が現れたけれども、この道は少し先に進むと深い谷の危険な道に続いているかもしれない。山道を歩いているとこのような場面に遭遇することがある。原子力がその例だ。使用済み核燃料の処理、安全管理、老朽化した核施設の処分などの費用や事故が起きたときの危険性等をいい加減に見積もれば、大変に安いコストでエネルギーを得ることができる。安易に原子力依存を進めた結果どれだけのものを失ったか。我々はどれだけ遠くを見ていたのだろう。また、見えたものを皆で共有できていたか。進むべき道はどこにあるのか。


 知識人はその役割を十分に果たしているだろうか。この道の先に崖が待っている。では、どちらに進むのか。進むべき道を示してきただろうか。安保に関する反対運動で、対米従属の外交方針に反対する、では日本はこの現実世界でどのような外交方針をとるべきなのか。単なる反対ではなく、進むべき道を積極的に示さなければ結局負け続けるのではないかと危惧する。世界大恐慌による不況に直面し、それまで多数派を維持してきたドイツ社会民主党はナチスに政権を奪われる。同じような道をまた世界は歩むのだろうか。


 「知」とはそもそも単なる日常生活からは見えない遠くを見つめる力、物事を深く見る力のはずだ。空間的時間的に視野を広げる力。部族単位の共同体で殆ど閉じていた時代には口頭伝承の蓄積だけで足りていた。その規模の拡大と共に共同体を維持する機構は複雑化し維持のために必要な知も増大する。そこで文字が生まれ文字を扱うことを専業とする集団が生まれる。制度的な文字を扱う訓練の場として学校教育が生まれる。学校教育の役割の一つは、普段の生活からは見えない遠くを見せること、遠くを見つめる力、深く本質を見つめる力を養うことにある。遠くとは、空間的遠方だけでなく、時間的な遠方、未来と、忘れられた、もしくは知られなかった過去にさかのぼることも遠くである。日常生活に必要な知恵の多くは、学校外で吸収できる。言葉を話し服を着てご飯の食べる、他者の気持ちを理解し共同生活を営む、そのために必要な膨大な知識の大半を我々は学校外で学んでいる。江戸以前の日本社会は教育の全てが日常生活の中にあった。もちろん、文字から情報を得ること、数値の複雑な処理する能力を養うことなど、日常生活からでは得られない現代社会への適応能力養成も学校教育の課題だけれども、学校の役割はそれだけではないはずだ。高偏差値の上級学校への進学、より高収入の安定した就職に教育の目標が特化して行くのは恐ろしいことである。


 大学の研究費予算査定が絶望的な情況にあることは多数報告されている。探検隊は探検した先から何を持って帰ってくるか、わかっていないから探検に出るのだ。手ぶらで帰還することだってある。その方が多いかもしれない。探検とは本来そう言うものだと思っていた。短期的な結果の予想できるものにしか研究費が下りなくては、遠くを見ることはできないではないか。何の役に立つかわからないことを調べ、何の役に立つか今はわからないことを教える。これが本来の研究と教育のあるべき姿だろう。


 経済が閉塞すれば視野は狭まる。どんな理想よりも、明日の食料が大切だから。友愛よりも自分が生きることが大切だから。このような時代だからこそ、遠くを見つめ進むべき道を提示する知識人の役割に期待し、遠くを見せる学校教育の役割を大事にしたい