東大・京大、高校別ランキング

 週刊朝日。情けない。何故天下の朝日新聞系列雑誌がこのような事をするか。しかも、新聞広告では特大見出し。朝日は教育問題について偉そうに論じる資格を自ら手放している。マスコミとは元々そのようなものだ、と言われればそれまでだが。
 『どの大学に入学できたか』がその人物の評価として大手を振るうことの愚かしさを、今さら論じるつもりはない。ここで書いておきたいのは、高校が、高校教員がこういう事に大きく縛られてしまうことの問題点である。ランキングを熱心に読むのは、保護者よりも高校教員ではないだろうか。高校受験生は、もっと詳細なデータをいくらでも手に入れられる。別項で書いたベネッセなど、生徒一人一人がどんな偏差値で高校に入り、どれだけの偏差値で高校を卒業し、どのような進路をとったか、詳細なデータを握っているのだから。その気になれば、高校入学者平均偏差値と3年間の偏差値推移を高校別に示すことが出来る。
 『中学生およびその保護者が高校を選ぶとき、その高校の大学合格実績が主要な指標になっている』と言う意識に、高校は集団意識として縛られている。2006年あたりから次々発覚したいわゆる「世界史未履修」はその象徴だろう。後期中等教育の教育目標を捨てても、合格実績の方が大事と考えて運営されている高校がどれだけ多いか、その一端を世間に晒した出来事だった。社会問題になったのは、氷山の一角。類似行為で肝を冷やした学校はまだまだ多数あるはずだ。
 近所の人や子供の友人の保護者等と接して感じる本音、親が高校教育に求めることがらは、はるかに多様だ。勿論進学実績も大きな指標だし、それしか頭にない親もいる。が、それはあくまで保護者の一部にすぎない。
 では何故、高校は、大学合格者実績にこれほど縛られるのか。それは、今の日本社会で高校の教育力を示すものとして共通に了解されているものが、これくらいしかないからだろう。高校教員がそれに縛られ、社会もそれに縛られる。人間形成、自由、友愛などは売りにならない、と多くの高校が信じている。現代社会を理解するための基礎教養であるはずの世界史を、履修したふりをして教えないなどということが、全国各地で起きているのだから。主体性、実行力、努力、忍耐、立身出世の手段や受験勉強の助けになるような「人間教育」は逆に進学実績と共に強くアピールされる。競争社会の勝者を育てます。短く言えばそういう教育理念がインターネット上の高校ホームページには溢れることになる。
 仮に乗用車が、各社ともその最高速度だけを宣伝材料に使い続ければ、車を買う方も、車選びの基準はスピードになってしまうだろう。快適性、安全性、便利性、経済性、保守性、堅牢さ、美しさ・・・など他の価値は忘れられる。ますます各社は最高速度を競う。
少子化が進み、高校はこれから入学生徒急減期を迎える。公立学校の広域学区制は全国に広がった。公立、私立全体での生徒争奪戦の時代だ。受験産業によって、高等学校は地域ごとに序列化され偏差値30から70まで詳細なランキング表がインターネット上に公表されている。高校毎に生徒の学力が輪切りされていく。ランキングが下がり、学習意欲の低い生徒が集まれば、それだけ学級崩壊、学校崩壊の危険性は高まる。授業内容よりも生徒管理に必要なエネルギーが多くなる。しっかり落ち着いて授業を聞いてくれる生徒の前で、授業をしたい。さらに、私学にとっては、生徒を安定的に確保することは経営上の死活問題。こうして高校教員は進学実績向上に走る。そして、ランキングを上げるには進学実績を上げる他ない、との思いに多くの高校が縛られている。それ以外の方法を見いだせなくなっている。
 これはある種のサービス競争だ。授業時間、補習時間、勉強合宿、模擬試験は多い方がよい。太平洋戦争当時の日本と同様、冷静な判断より勇ましい議論が勝つ。こうして高校教員は、自ら際限ない過重労働の道を歩む。
学習の動機付けも、「入試に必要」の一辺倒になり、教える教員も何故高校生に今これを教えているのかわからなくなる。生徒も今何故勉強しているのか、「受験」以外の理由を思いつかない。冗談ではない。世界史未履修事件はまさにそれを教えている。受験科目以外の教科は、評定平均を良くして、推薦入試、AO入試に有利にすることが唯一の動機付けになる。
 全ての高校がそうではない事もわかる。ランキング表の上位に常に顔を出す「名門校」の中には、それこそリベラルアーツの理念に基づく「理想的な?」教育を行っているところがある。「受験に関係ない」こともしっかり教える。米国のプレップスクールのように大学で伸びる生徒を育てる。学校では教養と基礎学力を高め、受験技術は塾・予備校。とりたてて競争しなくても、他の学校が激しく競争すればするほど、自然に「優秀な」生徒が集まる。そういう学校もある。
 一方、4年大学制進学者は高校生の約半分、更に、それなりの受験勉強を必要とする、つまり週刊朝日に名前を出すような「難関」大学は、偏差値55以上と見て正規分布表から概算すれば、全体の約3割。ランキング表に関わるような進路選択をする生徒は、大きく見積もっても全高校生の20パーセント以下だろう。逆に中学卒業程度の学力があれば入れる大学も沢山ある。「受験」が学習動機付けにならない生徒を相手に、熱心な教育活動を行っている高校は数多く存在する。それらの学校にどうやって光が当たるか。
 人間にとって最良の行動は、競争から生まれる。教育の効率を上げるには、競争原理を持ち込めばよい。この偏狭なネオリベラリズム教育観により、英国サッチャー政権・米国ブッシュ政権がとった方針を、数十年の遅れを伴って日本は追従している。学校間で競争を煽られ、教員間で競争を煽られる。学校間の、教員間の横のつながりは分断される。そのお先棒を担ぎ競争を煽るような真似はやめてほしい。
 全国の高校で、大学で、偏差値とは関係なく良質な熱意溢れる教育を行っている所は、いくらでもある。現に、私の子供は週刊朝日ランキングから無縁な大学で、素晴らしい指導教官に出会い大きく成長した。マスコミ本来の役割は、偏差値に象徴される一元化した教育観を相対化し、教育の多様性に読者の目を開かせる所にあるはずだ。週刊誌もまた、過酷な部数競争に晒され、良心などかなぐり捨てて読者の劣情に迎合しなくては売り上げが伸びない、のですか。