『階層化日本と教育危機』は面白い書物だった。十数年前、生徒達の変容の話題として、成績が正規分布から外れていくことがしきりに言われていた。小学校では地域によって、はっきり2つ山が出来る学校があると言われていた。調査と統計分析によって、そういう噂や憶測に鮮明な根拠を与えてくれたのが、苅谷氏の書物だった。家庭から子供が与えられる教育の格差が、そのまま学校教育での成績や意欲の格差につながっている。教育の機会平等を実現するには、こういう家庭教育の格差を政策的に解消する必要がある。これが苅谷氏の基本的主張である。
文庫化された「教育の世紀」(ちくま学芸文庫)を期待を持って読んだ。主要には19世紀後半から20世紀前半にかけての米国教育思想のまとめであり、その点では面白かったのだが読後感がすっきりしない。なぜすっきりしないか考えた事をここに書く事にしたい。特に、この本の最終章は日本の教育批判に当てられ、そこでは前述の苅谷氏の主張が繰り返されるのだが、どうも実際学校で働く教師の実感から疎遠なのだ。
まず、興味深かった点から書くと、米国ではちゃんと議論していることがわかった。米国は封建時代を持たず、「人為的」に作られた特殊な近代国家である。国家を形成するにあたり、鮮明な建国理念を持っている。この理念を参照する事によって議論を進める事が出来る国だ。
30年ほど前、米国からのアフリカ系留学生に英会話を習った事がある。彼は米国の人種差別について厳しい批判を持っていたが、同時に建国理念のすばらしさについて誇らしげに熱を込めて語る。これは我々日本人にちょっと想像の付かない事で多いに驚かされた。
教育制度もまたこの国家建設の理念を参照しながら整備されていく。その過程を見せてもらったのは収益だった。
逆にすっきりしない点で、まず気付くのは、語られている事が、教育学者の学説、政治家の主張、子供を学校に送る保護差の希望、学校で働く教員の主張、実現した教育制度の理念、こういったそれぞれ位相のちがう言説が同一平面で取り扱われている事だ。教育学会で主流となる考え方が、必ずしも制度的に実現するとは限らない。教員労働組合の主張が全教員の主張と重なりはしない。こういう点が峻別されていない事が、彼の本をわかりにくくしている。実際の日本の教育に関して彼の主張が実効性を欠く根本原因であると思う。
20世紀前半までの米国の教育と政治、大衆運動との関係はよく知らない。だからこそ、ひとつの教育理念を制度的に実現するにあたって、学者の思想、行政の政策と国民の運動、教員の取り組み、これらをきちっと区別して述べてほしかった。
さらに、日本の教育との対比で言うと、日本は1500年以上の歴史を持つ国で、特に封建制末期江戸時代には大衆に普及した優れた教育制度を既に持っていた。一方侵略の外圧から形成された明治政府、敗戦後連合国から与えられた民主主義と、近代国家建設に関しての鮮明な理念を欠いたまま成り立っている国である。国民誰でもが承認する基本理念を現実にわれわれはもっているだろうか。一学生が他国に留学しても熱く語れるような理念を。広く言えば国の近代化は一般には歴史的成り行きで、自覚的な国家建設をした米国がその中では極めて特殊なのだろう。
こういう歴史的背景の違いがあって、日本では教育理念、教育思想が深化しない。と言うか共通の了解を形成しづらいのではないか。米国と対比するなら、明治の始め教育制度がどのように整備されたか、どのような議論が、どのレベルでなされたのか知りたいところだ。
特に現行の日本の教育について、苅谷氏の批判が甘いのは、学会の主張と、文科省の主張、教員組合の主張などが単純に並列して論じられているからだ。戦後日本は、保守勢力と、労働組合を中心にした革新勢力のせめぎ合いで建設されてきた。基本は保守勢力の寄り切り。しかし労働運動を沈静化する必要からも、戦後直後は労働組合の主張も随分制度作りに生かされているはずだ。そのダイナミズムの中で教育の歴史を語らないと訳がわからなくなってしまう。1960年代初頭に80パーセントを超えた日教組の組織率は、分裂を経て現在30%を切って減少中である。
今、「学力」が政治の話題となり、学力向上、公立学校から有名国立大学への進学を可能にする教育政策が保護者から支持を得て展開されている。「学力が低いのは労働組合の所為だ」と文部科学省大臣が公然と発言する時代である。「学力向上」が票集めの道具になっている。これに対して、「革新政党」労働組合は国民を納得させられるような批判を全く行えていないままずるずると後退するのみである。苅谷氏の発言は、この状況とかみ合わせて読み取る事がどうしてもできないのだ。
最後に、「学力」「教員の指導力」の規定が甘い。同じく近年文庫化された「学力と階層」(朝日文庫)の5章で教員の資質について論じた部分がある。教員養成系大学の入試偏差値と東大文Ⅰの入試偏差値を比べて、教員の資質低下を心配している。30年以上多くの教員の資質を見てきたが、出身大学の偏差値と教員としての資質の間に強い相関はない。断言できる。むしろその相関は弱まる傾向にある。教員の持つべき最重要な資質は生徒の心の動きに対する感応力であり、次に臨機応変な創造力であろうと思っている。学習指導の中身は本人に前記2つの資質さえあれば、教員を始めたときからで充分間に合う部分が殆どだ。その点では内田樹氏の「誰でも師たり得る」節に賛同する。教員養成系大学の入試偏差値から考えられる苅谷氏の教師像、学力観に多いに疑問を感ずるのだが。