『日本の反知性主義』を読んで 2 自由競争の果て

 先に感想を書いて以来、考え込んでしまった。果たして私たちが「知性的」であった時代はあったのか。少なくとも「知性的」であろうとしてきたか。
 今から45年前、左翼の学生運動が盛り上がった時代があった。インターネットの記載によれば、1968.10.21 国際反戦デーは、集会参加者の集計が456万人(ウィキペディア)とある。一方で左翼内部では、共産党と新左翼の間で新左翼諸党派間で暴力的抗争が続く。翌1969年の内ゲバは警察が把握するだけで308件、死傷者は1145人、内2人死亡(昭和49年警察白書)。このような抗争を繰り返していた左翼に、支持者が400万人以上もいた。この運動が『知性の叛乱』(山本義隆)と呼ばれもしていたようだが、何所まで「知性的」であったのだろうか。最も政治的主張の近い者同士が最も鋭く対立し殺傷を繰り返すことの何所に「知性」が。
 当時の学生運動諸党派が、最低限の獲得目標であった「大学運営の民主化」を巡り妥協し運動を統一できていたら大学はどうなっていただろう。安保条約破棄を統一点に日本の左翼が妥協することができていたら、日本はどうなっていただろう。
 疑問点は何個かある。何故この時代の政治運動がこれだけ非合理なものでありながら、「反知性」とは呼ばれなかったのか。現在の反知性主義とは何所が異なるのか。当時の新左翼にとって、人民、第3世界、マルクス、レーニン、暴力革命は、無条件に価値あるものとされていた。マルクスやレーニンの書物は、例えばカントを読みながら考えるような読み方、テクストとして分析的に読み解くような読まれ方をしていなかった。むしろキリスト教徒が聖書を読むように、「聖典」として読まれていた。そして解釈の微妙な差異を巡り、左翼が四分五裂していく、これもキリスト教の諸団体と同じように。私は、全共闘世代から一歩遅れて大学生活をおくったが、この感じは学生間に色濃く残っていた。これは今の「反知性」と同じではないのか。
 また、この非合理性を当事者として「知性的に」分析する仕事が何故なされてこなかったのか。このことへの不満は前にも書いた。

 現代の「反知性主義」と1960年代左翼との差は、他者を媒介するかどうかにあるように思う。左翼思想はそれがどんなに過激なものであれ、少なくとも他者との共存共栄を究極の理念として成立していた。左翼思想は、他者とは何かを問うこと無しには成立しない。そこに少なくとも、「とりつく島」があった。当時の学生運動を経験した私より少し上の世代には、その体験から、深い哲学的な思索、文学的探求に入っていくものが数多くいた。我々より少し上の年代、学生は政治的であると同時に少なからず哲学的であり文学的だった。左翼運動の経験は、そういう思考を強いる。それは、左翼思想がその根幹で、自己と他者そして自然との相互関係を考察することを求めるからではないか。それは、相互に影響し合う「複雑系」であり、ある意味で何所まで深めても結論のでない世界だ。
 現代の「反知性主義」を主導するネオリベラリズムの根本は、競争原理の承認である。競争原理において、他者は登場しない。自分以外は単に対象に過ぎない。その論理は「線型」であり自己利益の最大化に向けての対象へ一方的働きかけ以外に考えることはない。対象の振る舞いは、自己利益を最大化するためにのみ考慮される。他者が登場しない以上、それによって逆規定される自己もない。単なる自分。現在共に生きる人間がそうであるように、過去の自分、未来の自分も単なる対象に過ぎない。他者が登場しない以上時間も登場しない。逆に、他者を顧慮せずに自己利益を最大化できると信ずるから、競争原理を承認得きる。これを「反知性主義」と呼ぶのではないだろうか。
卑近な例を挙げる。全国で大型ショッピングセンターの建設が進む。一つで地方小都市の全商店を含むような規模の建物ができあがる。大型駐車場がつき空調が完備され生活用品購入から娯楽施設までも含む。車で乗り付ければ家族連れで一日過ごせる。東京と同じ商品が同じ値段で手に入る。イオンモールが全国で地元商店街をなぎ倒す。どうなろうと知ったことではない。地元の商店街に配慮していたら、こんな進出はできない。現代の子供たちは、大規模店舗に地元商店が潰されていく過程を当たり前のこととして見つめることになる。弱肉強食は当たり前のことなのだ。そういう風に子供を育てるのは、実践する今の大人達だ。
 他の項で書いたことだが、90年代後半くらいに潮目が変わり始め、高校生のなかに左翼をひ弱なものと感じるものが増えてきた。電電公社、専売公社の解体が1985年、男女雇用機会均等法と労働者派遣法成立が86年、国鉄民営化が87年。好景気に隠れながらも1980年代から新自由主義施策は日本においても一歩ずつ着実に進められてきた。そして先の例にあげた大型商業施設の乱立は、2000年の大店法廃止によって始まった。こういうネオリベ施策の浸透と並行して「反知性主義」の芽が育ってきた様に感じる。
 他者を配慮に組み込み、他者との共存を模索することが現代の若者には「ひ弱な」ことに映る。少なくともそう感じるものが増えた。彼らにとって、他者を承認するよりも、自己都合を一方的に打ち出す方が力強く魅力的なのだ。
 恐ろしいのは、他の項でも繰り返し述べたように教育の現場にも様々な形で競争原理が導入され、全面的に肯定されようとしている現実だ。別項でも述べたが、大学間での学生奪い合いは、大型ショッピングセンターの地方進出と同じような様相を呈する。弱肉強食。高校、大学はもとより義務教育でも、公立と私学の間で生徒の奪い合いが進む。さらに自由選択制が象徴するように公立学校間ですら競争が煽られる。また、教員評価と称して教員間でも競争が強いられる。
 生徒間でも自由に競争することで、最大の教育効果が得られると信じられている。少なくともそう信ずる人々が1980年代から教育課程を改訂してきた。「ゆとり」は自由競争のためのスペースにすぎない。偏差値はまさにその象徴、学力を単純に数値で表現し集団の中での相対的な順位を示す。偏差値は、集団を1列に整列させる道具だ。
 こういう状況の中で、たてまえでなく本当の意味で、他者を教えることができるか。生徒は敏感だ。一方で競争を煽りながら他者との共存を口にしても、それが単なるきれい事に過ぎないことをすぐに見抜く。
実際には、競争原理のむなしさを感じ取りそこから離脱しようとする子供たちは予想外に多い。そもそも、競争によってふるい落とされる子供の他、教育の様々な段階で競争を主体的に降りる者がいる。その願望を抱えながら仕方なく競争集団に身を置いている子供もいる。迷いもなく本気で競争に身を投じている子供は実は少数派ではないか。長く教壇に立って感じる実感である。ところが、競争原理から離脱した、もしくは離脱しようとする子供たちの行く場所がない。そういう子供たちの思いに本当に応え形を与える場所がない。ここが、未来に向けた希望でもあり、また乗り越えるべき課題でもある。

1960年代末の学生運動も、あの形態以外新しい社会を切り開くための表現回路が存在しなかったからこそ、その矛盾を肌身に感じながら自ら隘路に落ち込んで行かざるを得なかった。それは遅れてきた世代として良くわかる。当時の日本の政治思想が到達した成熟度そのもの、当時の学生に先行する世代の「知性」が到達した限界点だった。今の若者の表現にもまた同様のことを思う。

 競争原理を越え、他者との共存を根底に据えた生き方を創造すること。次世代を担う若者に、本当の意味で「他者」を考える場を提供すること。それを表現できるような回路を共に切り開くこと。私たちの課題であると思っている。私も模索中。