「努力」という言葉が、嫌いだ。いや、努力が嫌いだ。好きなことをするとき、人は努力しない。努力して徹マンする人はいない。無理矢理つきあわされて、煙草の煙と眠気を我慢して努力してつきあう人はいるのかな。ゲームをするとき、熱中する、没入する、浸る、ハマる等とは言うが努力してゲームをやる人はいない。バグ取りのため仕事としてゲームをやり続ける人はいるかも知れないけれど。北岳山頂に到達するのに、苦労はするが、登山を楽しむ人にとって急斜面を登ることはは努力ではない。「努力」は自分では気が進まないことに無理矢理力を注ぐ時に使われるように思われる。学習に於いてもそうだ。自分が得意な科目を学習しているとき、集中はしてもあまり努力している感覚はない。苦手な科目、嫌いな科目の学習を強いられたとき、「努力」が必要になる。
ところが、教育の世界で「努力」はどのような立場からも、肯定的に評価される。君が代賛成派も、君が代反対派も、「努力」は同じように賛美するのではないだろうか。逆に言えば「努力なんてしなくていいよ」とか「のんびり暮らせばいいんだ」とか言う教員にはあまり出会ったことがない。そもそもそういう人は教員にならないのだろう。日本の教育界は「努力」礼賛世界である。
「努力は人を裏切らない」
「努力なくして成功なし」
「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」
とか、努力を巡る標語は教育界に満ちあふれている。
戦後教育の平等思想は、能力の平等を前提としてきた。子供たちが持つ能力の多様性にまっすぐ目を向けることは大変難しい。安易な土台の上で単純に「能力差」を語れば、優性思想に流れる。生々しいナチスドイツの記憶がある。この問題を敢えて回避するために登場したのが、「能力平等」の仮定だ。取り敢えず民主教育を出発させるためにとった措置としては、大変誠実なたいおうだった。しかし、一方で蓋をしたため、子供たちの能力多様性について充分考えることなく約70年過ごしてしまったことは、私たちの怠慢と言う他はない。新自由主義教育の露骨なそして単純な「能力差肯定論」に教育は足をすくわれようとしている。
「能力平等」を仮定するとき、現実に現れる成果の差を表現するために使われるのが「努力」という言葉だ。成績が悪い子供に対して教員がまず言う。
「努力が足りない」
「やればできる」(努力すればできる)
要するに、成果が出ないのは努力不足というわけだ。この言葉は子供たちを励まし希望をあたえるだろうか。結構一生懸命やっているのになかなか成果が出ないとき、「やればできる」と言われるのは随分哀しいことだ。嫌いなことや苦手な事について「努力不足」を指摘されるのも辛い。
「ちゃんと努力すれば、あなたも鉄棒で大車輪ができるようになります」確かにそうなんだろう。けど余計なお世話だと言いたくなる。私は器械体操が嫌いだ。不得手だ。時には、「やってご覧」といわれてやるだけで大車輪ができてしまう子供がいる。実際いた。
「努力が足りない」は、実際には多くの言葉に言い換えが可能だ。
・訓練(トレーニング)が足りない
・訓練の方法が悪い
・訓練を始めるための基礎力に欠陥が含まれているから、学習項目を遡らなくてはいけない。 ・この科目を嫌っている、意欲を欠く
・適性を欠く
努力を賞賛し、成果が出ないことを努力不足と切り捨てることで、教員は子供たちの能力多様性に蓋をする他にも、多くの合理的分析の可能性を捨象してしまう。別項で述べたが、日本の教育界が合理性をなかなか導入できない根本原因の一つがこの努力礼賛なのではないかと思う。
その上悪いことに、努力は結果よりも量で評価される傾向がある。膨大な努力を費やすことは、それ自体が美徳なのだ。合理的な学習法をもって短時間で結果を出すことより、闇雲な努力によって目標を達成する方が価値があるように言われるのも教育界一般の風潮だ。みんな「巨人の星」が好きだった。更に、目標が達成できなくても、費やした努力の量は社会で評価されるからそれに満足して諦めなくてはならない。教員自身も努力礼賛にしばられているから、勤勉だ。労働基準法の限界を超えて日本中の教員が働く。子供たちにできる限り手をかける。こうして学校は暗く消耗な場に転落していく。
Always the teachers seemed way overworked.
It was kind of sad watching, “exhausted” teacher teach “exhausted” students.
外国人教員から見るとこういうことになる。
http://en.rocketnews24.com/2014/02/24/is-japan-overworking-its-teachers-one-exhausted-educator-says-yes/
努力の肯定は、努力競争の肯定であり新自由主義教育の根本を支えることになる。日本の教員が殆ど何の抵抗もできないまま、新自由主義教育政策が推し進められていく根本原因がここにあるのではないかと思う。
高校広域学区制、義務教育学校自由選択制、学力テスト結果公開、教員評価制度、・・
高等学校は公立、私立問わず熾烈な学校間競争に晒されている。そしてこの場でも、手段の合理性よりも、努力の量がアピールポイントになる。つまり子供たちを努力させるために教員がどれだけ努力しているか、を競い合う。
「努力」の類語に「我慢」「忍耐」と言う言葉がある。「我慢して努力しなさい」「努力とは忍耐のこと」等々。つまり努力は自己否定をともなう。努力の礼賛は自己否定の強要だ。子供たちが暗くなって当然。のびのび育たなくて当然。
子供たちの成績を伸ばすのに、「苦手科目を克服しろ」と指示するより「得意科目を伸ばせ」と言う方が遥かに効果がある。「努力」は嫌いだが「熱中」「集中」は好きだ。好きなことを探せ。好きなことに熱中せよ。我を忘れて集中せよ。こういう自己肯定的な教育が実現することを願う。「のんびり」「ぼんやり」「ものぐさ」を評価しよう。
ものぐさ数学の森先生にはもう少し長生きしていただきたかった