用事ができて、急に旅行をしなくてはならなくなった。慌てて荷造りし、村上春樹訳ロング・グッドバイを鞄に突っ込んで家を出る。これだったらゆっくり時間を潰せる。何回目かの読み返し。これまでと違うのは昨年 The Great Gatsby を英語のトレーニングのつもりで苦労して読んだこと。このあとでもう一度、ロング・グッドバイに目を通すと村上が解説で指摘していることがよくわかる。同じ話だ。美しいが薄情な女に献身する男の美学。
様々な男達が出てきて、その描きわけは面白いのだが登場する女性は平板だ。ただ暮らしているけれど仕事もしていない。花瓶に生けられた花のようにただ存在する、その女を巡る男の物語。むしろ積極的に女の愚かしさを語っていると読めなくもない。アメリカ映画はどれをとっても女性蔑視映画だと内田樹先生がおっしゃっていた。西部開拓時代、その前線では女性は圧倒的に少人数だった、というような説明をされていたように思う。でも根っこはもう少し別の場所に在るように思う
アメリカ合衆国は建国約二百四十年、歴史の浅い国だ。築二百年の建物は歴史的建造物。封建的な地域共同体が熟成することなく、急速に資本主義化されてしまった。恐らく封建的な共同体の残滓が存在しないことが、資本主義国アメリカ合衆国の強さの秘密なのだろう。ところが、残念ながら女性が最も女性らしく生きられる場は共同体の中にあるのではないかと思うのだ。
大都会の下町、農村、漁村で目に付くのはおばちゃんの元気良さ。地域コミュニティーで、人々をつなぎ合わせコミュニティーとしての器を形成しているのは女性のネットワークだ。横の人間関係を作る能力は、どう見ても女性の方が優れている。親族関係の絆も表向き父系性のように見えて実際には女性のつながりを起点に作られていくのはよく知られた事実だ。男は、表面で活躍しているように見えて、実は女性が用意した共同体の器の中を泳がされているに過ぎないのかも知れない。女性が最も生き生きしているのは、共同体が形成する人間関係の中で自尊心を育てた時だと思う。それを私たちは『おばちゃん』と言う。
人々が市場原理で分断された場で、伝統的で親密なコミュニティーの存在しない場で女性がその本来の力を発揮することができないでいるのが、アメリカ社会なのではないだろうか。アメリカの女性解放運動がもう一つ魅力を欠くのは、女性に男性と同じように振る舞う権利を与えているに過ぎないからだ。結果的には労働市場で売り手が増大し、労働者の競争を寄り強める役割を女性解放運動が果たしてしまう。現在のアメリカ映画に出てくる女性は、男勝りの有能な人間と部屋に飾られた花のようなただ存在するだけの女性の二通り。どちらにしろ、男の価値観だ。男の価値観で男と同じ仕事ができるか男の価値観で女として可愛い。本当のおばちゃんになかなか出会わない。こんな国を「先進国」と思い込み、戦後70年アメリカ社会に追いつくことを目標に努力してきた。なんて恐ろしいことだろう。
こういうことを言うのには理由がある。僕の属していた職場では、女子生徒を特にクラスの中心となりうる女子を『おばさんタイプ』と『お姫様タイプ』に分類していた。『おばさんタイプ』とは前述のように伝統的共同体の中で自尊心を高めてきた、もしくはそういう行動原理を身につけて育った女子。それに対し『お姫様タイプ』とは、現代社会の一般的基準で高い評価を得ることで自尊心を高めてきたタイプ。「美人」で「成績がよい」さらによく本を読んでいたりピアノが上手だったりする。こんなネーミングが生まれた理由は、単純だ。『おばさんタイプ』が少なくとも一人、できれば複数名存在すると、そのクラスの運営が大変に楽だからだ。やんちゃな男子生徒が一番弱いのが『おばさんタイプ』、学校長の言うことすら聞けない生徒でも、むいしろそういう生徒ほど『おばさん』に弱い。男女を問わずクラスの中に親密な人間関係ができあがり派閥争いやその他のトラブルも自然に調整されていく。中心には『おばさん』がいる。また他の女子もそのスキルを学んで少しずつ『おばさん』化していく。個性的な『おばさん』に恵まれたクラスは、楽しい思い出が多い。また、生徒の親の中に『おばさん』がいて、多くの生徒がお世話になりその『おばさん』の家が生徒の溜まり場になっていたことでクラスの生徒が親密になった場合も多い。逆に苦労したクラスを思い出してみると『おばさん』がいなかった。対して、『お姫様』は居てもクラス運営上何の助けにもならない。どころか人間関係を複雑にもつれさせる原因を作ったりする場合が多い。
お姫様より、おばさんを育てる教育を。お姫様より、おばさんが育つ社会を。これが、女性解放の道であり、新自由主義に抗する道であろうと思う。内田樹先生、おじさん的思考の続編「おばさん的思考」を書いて下さい。
ロング・グッドバイを再読して、こんなことを考えた。