『学び合い』学習という教育運動がある。NHKで取り上げられたり(ETV特集 2012年2月5日放送)新聞で取り上げられたりしている。例えば朝日新聞2014年5月。これは一つの教育運動で明確な指針がある。その一つが、上越教育大学の西川純氏の提唱するもので、インターネット上に手引き書が公開されている。
『学び合い』の手引き書(平成 25 年7月 26 日版)
これは160頁に及ぶ結構大きな資料で、ここに『学び合い』の到達水準の殆ど全てが投入されているのだろうと思われる。私はこの運動についてその詳細を知らない。インターネット上で公開されている種々の実践、またこれに寄せられている批判について近年知った程度だ。ここでは、先の手引き書を読んだ感想、私の考えとの差を少し述べてみたい。
基本的に賛成です。私も同じようなことを考えて授業をしてきたから。それについては前項で述べた。引っかかるのはどこか。
全体を読んでまず気になるのは、その極端な理想主義だ。理想主義は理念としては理解できるが、理想主義の実践は、硬直化し権威化する。スターリン、毛沢東・・・。例えば、「学び合いの時間が授業全体で占める割合は多ければ多い程よい、学び合いの時間を増やせないのは生徒の可能性を信じていないからだ。」と手引き書では繰り返し述べられている。こういう言葉で他人を縛るのは宗教と同じである。「あなたの信仰が浅いのはイエスの復活を本当に信じていないからだ。」と言われるのと同等ではないか。これが「手引き書」であるだけに余計たちがわるい。そして、『学び合い』を実践する教員は、この手引き書で何と「同志」と呼ばれる。20世紀の共産主義運動のように。
教師の役割について。教師はガイドであって内容を教えるものでないと繰り返される。
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教師が教えると、子どもは常に教師を頼ります。それゆえ、教師はあえて教えません。仮に、数十人の子どもに対して、最適の説明で個別対応が出来ると豪語出来るような人がいるなら(単純計算から言って不可能だとは思いますが・・・)教えてもいいでしょう。しかし、そう出来ないならば、教えるべきでありません。教えないとき、心の中で「君らなら出来る、私より凄いことが絶対出来る」と信じられるか否かがポイントとなります。ただし、教師にとってはつらい。なぜなら、教えたいから教師になったので、それを我慢するのは容易ではありません。しかし、ある段階に達すれば、教えられます。その目安は、教師が教えても、子どもが「先生のつまらない」、「先生、邪魔」といわれるぐらいの段階まで、子どもたちの自主性が育ち、教師の意見を取捨選択出来るようになったら介入することができます。(手引き書P50)
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これは間違いだ。この論でいくなら、野球を強くするには、子供たちが手引き書をみて議論を重ねるのが一番効果的なことになる。集団に適切な課題を計画的に与えておけばそのうちベートーベンのピアノソナタが弾けるようになるか。そしてこれが最も効率的な方法か。スポーツや音楽のような例を引くのはずるいだろうか。私は、人間の作り出した全ての文化は肉体的なものであり、生身の肉体が向き合うことで伝えられるものが、全ての分野について必ずあると思っている。そしてそれは、前世代から後継世代に対して与えられていくものだ。確かにテキストから読み取れるものはある。が、生身の肉体の存在は、テキストから読み取る百の苦労を一瞬に解消してくれる。この肉体的に与えられるべきものを判別し意識化するのが教員の仕事だ。言葉を換えれば、テキストとのつきあい方、テキストに対する姿勢、このメタテキスト的部分こそ教員の役割であり、これは生徒の中に自然発生的に生まれるものでは決してない。
次に、生徒の能力についての記述。
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我々はこのコミュニケーション能力は教えなければならないとは考えていません。我々
の DNA に組み込まれていると考えています。(手引き書P12)
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これは、ウソだ。言語について考えてみればすぐわかる。言語を獲得する能力を人間は遺伝的に有している。しかし、しかるべき時にしかるべきトレーニングをしなければ、言語を獲得することはできない。狼に育てられた子供の話は有名だし、テレビの前に放置されて育った子どもの言語的欠損も報告されている。日本語環境の中で育てば日本語を獲得する。人種によって獲得する言語が遺伝的に異なるのではなく、獲得言語は生育環境だ。当たり前ですよね。さらに、育った家庭の言語環境で、同じ日本語を話していても運用能力に大きな差が生まれることを、我々教員は強く意識させられている。言語とは遺伝的に基礎を支えられているとはいえ、その達成は一つの文化だ。もっと幅広い意味でのコミュニケーション能力についても同様であろう。私たちは学校の現場で、生徒のコミュニケーション能力の低下に悩まされ続けている。家庭、地域共同体の緩やかの崩壊、子供集団の喪失などにより、子供たちのコミュニケーション能力は確実に低下している。これをどのように補うか育てるかが、学校教育の緊急な課題だ。生徒の能力を信ずることが問題なのではない。生徒の能力を分析的に把握し柔軟で適切な処置をとることが求められている。
《『学び合い』の手引き書》は私にとって刺激的な書物であった。逐一批判を加えれば同じくらいの長さのテキストができあがってしまうかも知れない。しかし、「刺激的」という意味で同書は優れたテキストである。教条的に読まれるのではなく、教育とは何かを考える格好の材料として、若い教員の方々にとっては一つの極端な参考意見として、広く読まれ批判されることを願う。