岩手中2自殺事件

岩手県でいじめによる自殺が起きた。悲痛な出来事だ。(2015.7.5)今回の事件では、生徒が担任と交わした「生活記録ノート」が存在し、生徒の気持ちとそれに対する担任のコメントがつづられていた。これを父親がマスコミに公開したことで、マスコミは学校と担任の責任追及に動いている。もう当たり前になりつつあるが、当該中学校関係者のtwitterから担任名がネット上に流出し個人攻撃が繰り返されている。

普通どうするだろう。担任はこのような記述が最初に現れた時点で、「うちのクラスの生徒がこんな事書いてきた、どうしよう」と同僚と相談するだろう。特に経験あるベテラン教員に助言を受ける。即刻生徒を呼び出して事情を聞く。周辺生徒を個別に呼び出し情報収集する。担任団で協議し、更に学校全体で対応策を協議する。学校に来てもらうか家庭訪問して保護者と面談、事情を伝えて対策を検討。いじめに関与した生徒の調査、指導・・・。教員が集団で動かなければ、これらのことを早急に行うことはできない。いじめへの対処は難しい。被害生徒に今後の健全な学校生活を保障するために取らなければならない対応策は、微妙な配慮が必要であり状況に応じて千差万別。だからこそ教員間での情報共有と意思疎通は不可欠であるし、ベテラン教員の過去の経験がこういう場面で生かされる。こんなことは、「マニュアル」など無くても当たり前のことだ。普通に教員生活をおくっていれば否応なく身に付く、「スキル」である。のはずだった。それがそうならなかった所を考えるべきで、これは単に当該教員の能力や性格の問題ではない。

クラス担任は担任クラス内のトラブルをできれば隠蔽したいと考えている。これは、小中高問わず全国に広がる傾向ではないか。労働組合に象徴される教員間のつながりは失われ、管理職による、個別教員の管理が進行する。(学校評価・教員評価)クラス担任にとっては、「クラスの出来」は、自分の勤務評定。テスト平均は“他のクラスより”高い方がいい。遅刻欠席は“他のクラスより”少ない方がよい。トラブルは無いに越したことはない。クラスの中でいじめが起きれば担任のクラス運営能力にマイナス点がつく。生徒が多少辛い思いをしても、一年間表面上トラブルがなければその方がよい。更に、教員は大学に進学し教員免許を取得できた受験エリートであり、小さい頃から自分がテストの点で偏差値で評価されることに慣れきっている。教員の仕事を始めても、わかりやすい評価を求めて教員個別管理のシステムに自ら進んで組み込まれていく。こういう世界で教員は仕事をしている。

極端な場合をあげれば、自分の指導力は自分の評価を高めるためのみに使われ、その経験とノウハウは他教員に伝達されない。その方が自分1人が目立つ。自分と関係ない生徒のトラブルには口を挟まない。下手に関与して失敗すれば自分の評価を下げる。成功すれば自分ではない教員の評価が高まる。このような損なことはしない。そしてトラブルは出来る限り隠蔽される。業績が個人のものであると同時に、トラブルもまた個人の責任に帰せられるから。個別管理され、競争を煽られている集団で普通に働く心理だろう。こうして教育の質は低下し、ネオリベラリズムの時代、日本企業は生産性を下げる。企業でも同じことが起きていると思うのだが、如何であろうか。

自分のクラスのトラブルは「無い方がよい」。これはいつの間にか、「無いに違いない」「無いはずだ」という思い込みに転化する。今回公表された「生活記録ノート」の担任コメントはその感覚をよく表している。生徒の記述には、担任へのそれなりの信頼が感じられるだけに、今回の「ノート」は読むのが辛い。

このblogで私が再三繰り返して述べていることだが、学校は、生徒集団を教員集団が指導する場だ。クラス運営一つ取り上げても、担任1人でできるものではない。それは、指導の難しい生徒集団を前にし、学校の成立そのものが揺らぐような事態に追い込まれると実感できる。生徒よりも強い団結力を教員が誇示出来なければ、乗り切ることが出来ない。このような団結力は管理職が上から押しつけては出来ない。教員自らが互いの絆を結んで作るものだ。表面上生徒が沈静化し、教員の団結が求められるような緊急事態に遭遇することが少なくなった現在、学校の存立構造が教員自身にも見えにくくなっている。その裏で、教員の結束力が失われるのと並行して生徒指導の質も低下し続けている。今回のように問題が起きれば、管理の強化で対応しようとする。そして教育の質的低下は更に深く裏面で進行するだろう。この悪循環の途上。これが今回のいじめ事件について私の感想だ。

「クラスの出来」を競い合うのではなく、生徒集団全体の成長を教員集団全体で愛でる。教員集団の自己評価とする。教員の仕事をそういう評価システムに変換しない限り、今回のような事態は繰り返し発生するだろう。教員の個別評価などというつまらないことをやめることだ。一方、教員が自分の仕事を評価する仕方を自ら変更しなければならない。現行の学校教育で育った、若手教員がこのような価値観を何所で手に入れるか。