岩手中2自殺事件 2

先の記述アップロード後もう少し調べてみると、担任は本人と相談していたし、手を出した生徒も指導していた。単に無関心を装っていたわけではない。でも自殺を止めることが出来なかった。

担任は、この件を「いじめ」と扱わなかった。公的にいじめと認知すれば、ある種のルールに則り管理職に報告し対処することになる。大事になる。担任の失策になる。それを避け1人で処理をしようとして失敗した。そう推察する。「いじめ」でないと思い続けていた、思い続けようとしていた。同僚にも相談を持ちかけたのだろうか。事実関係は不明。

何故こうなるか、先に書いた教員の孤立、個別管理の進行、相互協力関係の喪失が根本原因だと改めて思う。その結果、教員として身につけるべき「スキル」が失われた結果だ。

いじめは、最近現れた現象ではない。子供が集団を形成すれば必ず現れる。どのような時代にも、どのような国にも、子供集団のいじめはあるだろう。未熟な社会集団に現れる病理のようなもので、その治癒によって集団が一歩成長する。いじめの克服から、子供たちは他者を認識し社会性を向上させる。例えれば誰でも風邪を引くのと同じ事だ。放置すれば深刻ないじめに発展する人間関係の縺れは、未熟な子供たちの集団には常時発生する。これは誰の責任でもない。生徒の未熟さそのものが原因なのだから。風邪を引いたからといって、健康管理の責任を問いはしないのと同じだ。

そういういじめの「芽」を見つけ、生徒の人間関係を調整するのが、集団を管理する教員の仕事だ。これは、子供に集団で教育を施すようになって以来、だから日本で言えば「寺子屋」以来続いてきたこと。未熟な社会集団を管理し成長させる方法だ。そこには膨大な経験の蓄積があって、それを元にしながら教員はいじめを指導し集団を管理し、その経験がまた一つの情報として蓄積される。こうして貯えられた力量を教員集団の教育力というのだろう。

このblogでも再三触れたが、生徒の質は変動している。古典的な共同体倫理の感覚は表面上失われ、社会性も未熟。学校外に別の社会集団を持つことが少なくなった。一方電子機器を通じた新しい人間関係手段が広がる。これらも、ある日突然やって来たわけではない。全く未経験の世界に学校教育が放り込まれたのではない。一歩引いて眺めてみればゆっくりした地滑り的変容過程で、教員は新しい事態に対応しながら経験を蓄積し共有してきた。

別項でも書いたが、いじめに発展するようなトラブルを未然に防止し子供集団を成長に導くためにすべき指導はあって、これも大切だ。風邪ひかないように基礎体力を充実されるみたいに。でもどんなに体力があって、どんなに健康管理に気を遣っても運が悪ければ風邪をひく。同じように子供集団にいじめの種は現れる。風邪ひいたと思ったら、さっさと寝る。休む。無理して平静を装うと深刻な肺炎に至る。

ごく小さな種は、見つけたらすぐ潰す。関係者と集団全体に必要な対処をし、経過を見守る。腫瘍の摘出手術のようなもので、術後の経過観察は重要。それも周りの教員と相談を重ねながら、意見を拝聴しながら。少し種が大きくなると1人では対処できなくなる。同時に処理しなければならない指導と、情報が1人では抱えられなくなる。一晩で五軒家庭訪問などできない。1人で無理がわかれば、教員集団で話をしてこれは皆でやろうとなったら、何人かの教員がさっと立ち上がり必要な対処をこれで無事が相互に確認できるまでしてしまう。日常から、教員集団で生徒集団を指導しているから、生徒の側も集団として教員を見ている。指導を受け入れる素地がある。少々理想化すれば、かつては教員がこんな風に動いていた。だから「いじめ」が大事になる前に処理されるケースが多かった。

このケースでも、担任が「いじめ」と呼ぶかどうかは別に、経験ある同僚と相談し、トラブルの完全解決まで集団として動く事は可能だった。そういう集団形成が教員社会から失われつつある。教員自身が出来なければ、生徒に健全な集団形成を促すことなど出来るわけがないのだ。