戦争体験

 私の亡くなった母は、戦争当時東京で仕事をしていたため疎開できず、私の祖母と二人東京都心で空襲に耐え生き延びた。大空襲の際隣の家まで焼失したそうだ。私の幼少時、ときどき母は悪夢でうなされ家族全員が目を覚まし母を起こすと、いつも空襲の夢だった。空襲の恐ろしさ、知人を軍隊に送る哀しさ、戦中戦後の物資の乏しさを母は繰り返し語ってくれた。
一方亡父は田舎で旧制中学の教員をしていた。その頃のことを父はあまり語らなかったが、私が高校生になりそれなりの判断力がついた頃、父の戦中の悔いについて、静かに喉のつまりを吐き出すように語ってくれた。旧制中学で予科練の志願を募る仕事だ。終戦間際、予科練への志願はそのまま特攻隊による死を意味していた。父は多くを語らない。職務として強制されたのか、自ら進んで予科練の意義を語ったのかも定かでない。おそらくそのどちらでもあるのだろう。初めて接した、父が心の奥底に密かに抱えていたその深い悔恨の念は一生忘れることができないだろう。
 戦争の悲惨さは、その直接被害の大きさだけにあるのではない。他者を死に追いやる体験を強いられるという被害。戦争を生き延びた人々にとって、それも誠実に生きようとすればするほど、加害体験は心に刺さって一生止まり続ける刃物としてその人を苦しめ続るはずだ。
 父は、組合運動に参加し平和運動を支持した。私が、戦闘機や軍艦のプラモデルを作ることを許してくれなかった。管理職への道を歩まず現場教員として、教職を終えた。戦後の父の人生は償いのために当てられた。決してそれだけではなかったにしろ。
 戦場で敵と対峙し銃を向け合えば、生き残るためには敵を倒さなくてはいけない。人を殺さなければ自分が生き残れない状況に追い込まれること、人の死を賛美する立場に追い込まれること、それが戦争の本質的悲惨さなのだと思う。
 神風特攻、人間魚雷など、今から考えれば悪魔のような作戦を立案した者がいた。この作戦による死者は、Wikipedia によれば、一万四千人を超える。現代で言う自爆攻撃。これを国家を挙げて組織的に行いこれだけの死者を出した。悪の象徴のよう言われるアルカイダでも、ここまではやらない。しかし、単に立案した者だけが悪なのではない。特攻隊の作戦を具体的に遂行し、専用兵器を開発することに多くの軍人民間人がかかわった。(アニメで有名になった堀越二郎も)国民の多くが特攻隊の志願を奨励し、特攻隊を賛美し、志願しない者を「臆病者」と罵ることによって成り立った作戦だ。
 終戦まで、日本陸軍の主力部隊は中国大陸にあった。中国人の軍人民間人合わせた戦死者は一千万人を越えるといわれる。南京虐殺、731部隊の人体実験。事実の国際的な確認はできていない(そのこと自体多いに問題なのだが)にしろ、大量の中国人殺害に手を染めて、日本人は本国に帰ってきた。朝鮮人強制連行、強制労働、従軍慰安婦。直接手を下したのは現場の兵隊であり、多くの日本国民だ。戦後生き延びた彼らは、加害体験を心の底に抱えながら戦後の国家建設に励んだ。私の父のように。
 戦後の平和運動のなかで、ともすれば被害体験だけが強調されてきた。戦争の悲惨さを訴える証言は多く、それは貴重なものだ。一方、被害体験だけを語る事を批判しアジア人に対する加害に注目する立場からは、当時の政府、軍隊、そして天皇の戦争責任追求が行われてきた。でも実際には、被害と加害は二分される者でなく、戦争という過酷な運命に日本人全体が巻き込まれ、先述のように、被害者であり同時に加害者でもあり、加害者であることを強いられるという意味での被害者であったのだと思う。
ドイツ小説『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク)は、戦争がもたらす過酷な運命を描く秀作だ。主人公は、ユダヤ人連行にかかわる加害者であると同時に、障害者として差別され利用され運命に翻弄される被害者でもある。その体験は現在に繋がる。(映画化され日本でも公開されたが日本語タイトルが『愛を読むひと』!)日本になぜこのような戦争をテーマとした重厚な作品が生まれないのか、あるのかも知れないけれど私のような一般人が(パンピーが)接することのできる作品がないのか、考え込んでしまった。
 一般人の被害体験を掘り起こし証拠として保存する努力は数多くなされてきた。加害体験の掘り起こしがどれだけできただろうか。ホーロコストについての戦後の厳密な調査に匹敵するような、日本軍の中国大陸での振る舞いの調査がどれだけできているだろうか。少なく見積もっても、中国人の犠牲者は、ユダヤ人のそれを上回る。被害と加害が交錯する戦争の本当の悲惨さをどれだけ記録できただろうか。できないとしたら、その原因はどこにあるのだろう。
 2014年は敗戦から69年。敗戦時20才だった人は89才。多くの日本人が戦争体験を胸に秘めたまま他界してしまっている。
 私は愛国者である。(内田樹氏の議論と同じことを言うが。)日本文化を愛するし、日本語でしかものをかんがえ、学ぶことができない。だからこそ、日中戦争・太平洋戦争の負の側面を描写するものに対して「自虐史観」とレッテルを貼るような、安易な発想を認めるわけにはいかない。日本文化には、自らの過ちと正面から向き合うだけの余裕と力量があることを信ずる。
 加害体験は心の奥にしまわれ、被害体験は忘れることなく語り継がれる。アメリカ人は原爆投下を忘れても真珠湾を忘れないのと同様に、中国人は日中戦争での日本軍の振る舞いを忘れることはないだろうし、韓国・朝鮮人は植民地支配と強制連行決して忘れないだろう。これからの東アジアの平和のためにも、あの戦争を振り返り教育として次の世代に伝えるべきだろう。
 
 学校間競争の話に飛ぶ。
「生徒をより多く確保するためには、より多くの生徒サービスを提供しなくてはならない」
「授業時間数は多い方がよい」「模擬試験は数多く受けた方がよい」「補習時間は長い方がよい」
「保護者会は数多く開いたほうがいい」「中学生向き学校説明会はたくさんやればやる程よい」
競争に巻き込まれたときには、勇ましい意見が必ず勝つ。
どこか似てないかと思い怖れるのである。