相模原殺傷事件に思う

 極度に不快な事件である。こんな事件が現実の世界で起きたことが信じられない。「ヘイトスピーチ」の登場も衝撃だったが、事態はここまで進んでしまったのかと改めて思う。1970年代、「差別は悪である」という規範は一応日本社会を覆っていて、差別は残っていたとしてもそれは隠然と行われ、今の時代のように堂々とその正当性が主張されることはなかったと思う。今回の事件、そしてヘイトスピーチでも感じられるのは「反差別は「建前」で、皆本音では差別しているだろう。私は勇気を持って正直に差別的言動をしてみせる」 という屈折したヒロイズム。

 人間の即自感情の肯定。少なくとも戦後の日本社会にまがりなりにも存在した「反差別」の規範が崩壊しつつある。この事件については実行者の病歴やドラッグとの関係が言われ、保安処分の強化の口実にされようとしている。(実行犯は自分もまたこのようにして差別と排除の対象に追い込まれていくことを想像できただろうか。)しかし、戦後これほどまで露骨な差別事件はなかった。一つのきざしとしてこの事件をとらえると、背筋が凍る。更に言えば、村落共同体の倫理として歴史的に積み重ねられてきた共生の規範が根こそぎ失われつつあるのではないかとさえ思われる。

 皆が個人の利益追求から勝手な振る舞いを始めたら、中世の村落などすぐつぶれてしまう。更にさかのぼれば、余剰生産物を持たない原始共同体にとっては共に生きることは理念などではなく死活問題だったはずだ。人類が富を得て、争いが始まる。そんなことをしていると不幸を招く事を人類は長い歴史的経験から学び、生活規範に組み込み宗教や思想に結晶させてきたのではなかったか。市場原理と競争原理の全面肯定、経済成長第一主義、これらは個人の欲望を無反省に認めることにつながる。理想が「建前」に矮小化されされ、その「建前」すら失われつつある時代を迎えているようだ。これはまるで原始共同体以前まで我々の文化を後退させることにつながるのではなかろうか。

 世界規模で見ると、地球は飽和状態である。世界中の人間が日本人と同じ生活を始めたら、瞬く間に資源は失われ地球環境は破局を迎える。グローバルな意味では人類の状況は原始共同体の抱える状況に近い。同時に資本蓄積は進行し、巨大資本は小国の資産全体を遙かに上回る規模に成長した。素人である私の勝手な思い込みかもしれないが、新自由主義は、世界経済の飽和状態が生んだもののように思われる。分かち合うより奪い合え!(更に、力のある私たちが奪い取っても当然でしょうと。)資源争奪戦は、中東では1990年代から始まっている。状況を放置すれば、資源争奪は激化する一方となるだろう。これを終わらせ、戦争を回避するためだけにも、我々がこれから平和に生きていくための具体的な行動が必要だ。言い換えれば、地球規模で平等思想を立て直すこと。そして具体性のある実践プログラムを提示する努力が求められている。

『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (E.トッド)』
は革命以来のフランスの平等主義がいかに脆弱なものであるか、簡単に排外主義に転化するかを語る興味深い書物だ。(文章は読みづらい。もっと上手な日本語訳ができると思うのだが。)これを読んで改めて平等について考えさせられた。どのような範囲で平等を語るのか。人種、国籍を超えて平等を語れるのか。また、どのような状態を平等と言うのか。政治的権利か、経済状態か。仮に、全世界の人類の平等を理想としたとき、所得の平等は実現しうるだろうか。平等を実現するために「先進国」の国民が生活水準の大幅後退を容認するだろうか。現にヨーロッパで起きている移民問題、排外主義は、そのことの難しさを示してはいないか。

『戦後政治を終わらせる(白井 聡)』
 反知性主義を「知的なもの、知的ぶったものや人に対する反感」と定義している。反感を呼ぶ責任の半分は、日本における「知的なもの」そのものにある。日本におけるリベラル知識人の知的怠慢がここにきて露呈したと見るべきだろう。同書にはこんな指摘もある。オランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァンウォルフレンの発言を引用している。

社会党は、現実路線を取ることができず、空理空論ばかり唱えるから駄目になってしまった。(P88)
社会党や大江健三郎さんは日本の保守政治を批判してきたけれども、言っていることはまるで非現実的で、GHQの言っていたこととほとんど変わらない・・・(P89)

昨年度の「集団的自衛権」を巡る動きにしても、スローガンは「平和憲法を守れ」「戦争法案反対」。安部政権の中国敵視政策を具体的に批判し、どのような外交戦略が可能なのかを示すような言説はごくわずかであったように思う。中国敵視政策に対抗するスローガンは「日中友好」しかあり得ないではないか。(日本人がみな安倍晋三と同じ事を考えているわけではないのと同様、中国人がみな習近平と同じ事を考えているわけではない。)「憲法を守れ」と言うが、憲法一条から八条までをどうするのか。当面棚上げなのか。
私たちは平等の内実について考察せず、言ってみれば理想郷や天国を語るようにあこがれとしての平等を口にしていた。江戸時代までの村落共同体の倫理に、西欧の平等主義を接ぎ木して分かったような気になっていた。日本の経済成長が止まり経済格差が広がれば、理想としての平等はリアリティーを失い、その脆弱性が一挙に露呈する。
 反知性主義を巡っては別項でも書いたが、今の情況を招いた責任の少なくとも半分、は戦後リベラルを自認する政党、学者、知識人、マスコミ、それらのもとで動いてきた学生運動の担い手、特に「団塊の世代」にある。そう思う方が実践的ですよね。批判するより自らを変えていく方が可能性がある。

『自閉症の脳を読み解く(テンプル・グランデン)』
 人間の脳機能がきわめて多様であることをMRIなど最新の医療技術の成果をもとに解説。そして多様性を基盤に置いた教育の必要性を訴えている。戦後教育は「能力・資質の均等」暗黙の前提に進められた。平等主義はこの前提の上に成立していた。「やればできる」は今でも教員の常套句だ。しかし我々の資質は、田んぼで育つ稲のように均質ではない。そのことは子供たちが一番よく知っている。平等理念の底の浅さを、言葉にならなくても体感している。このような平等主義は、「教育の成果は個人の努力の結果でありその個人に還元されて当然」とする競争原理に簡単に絡め取られる。
人間の多様性を前提とした強固な平等主義の確立が、教育の直面している課題であろう。そしてその理念に基づいた機構の再編。平等がきれい事でなくなるために。優生思想と本気で対決しながら多様性の承認と平等を実現することは大変に難しい。項を改め少しずつ考えていきたい。

 資源の争奪を回避し70億人の人間が平和に暮らしかつそれが持続できるために、多様な人間がその多様性を生かしながらも平等に暮らせる社会を実現するために、私たちは莫大な課題をかかえている。「革命」が一挙に解決すると信ずるような知的怠慢を避けよう。できることから一歩ずつ前に進むことができたらと思う。そのような実践の積み重ねが、いつかは大きな社会変革を生むことになるかもしれない。