高校生の男子コーラス

 高校生男子の合唱を聴く機会があった。これがうまい。ハーモニー抜群。日本語の歌詞を踏まえた表現力。声量豊かで迫力がある。こんな経験をしたことがなかった。
 私の高校時代からは想像もつかないことだ。当時だって上手い合唱はあったのだろうけど、時代が変わった気がする。音楽文化の定着だろうか。西洋音楽が日本に入って百年ちょっと。これに対して40年は長い時間だ。世代にして1世代から2世代。クラッシックでも個性的な若手演奏家が登場している。大学ジャズ研の演奏を聴くと、軽くアドリブを続ける学生ピアニストが結構いたりする。日本で西洋がより深く根付いてきた。親子三代かけて初めて趣味人になれるというらしい。明治百年から更に半世紀が過ぎた。
それはさておき、気になるのが、高校生達の素直さ。ロマンティックな曲を心を込めて歌う。明るい笑顔でダンスを踊る。この純情さ。他の稿でも書いたが、この素直さ、純情さは、私が仕事をしながらも特に今世紀に入って気になっていたことだ。生徒達は感動を求めている。学園祭に熱心に取り組む。指導はしやすくなっている。無垢な存在だから簡単に染まる。
 私が若かった頃、こういう大人から与えられたもの、他から与えられたロマンティックなものへの反応は、「破壊」「拒絶」「しらけ」。「しらけ」ていたと思う。そういえば、最近「しらける」って言いませんね。「自由」という言葉も聞かなくなったけれど。
60年代から70年代の若者文化は、既成のものを拒否する。独自性にこだわる。覚醒を求める。理想化して言えば。少なくとも当事者はそれを夢みていた。自由とはそういうことだと思っていた。内部から自己変革を繰り返し破滅に向かって突き進んでいく当時のモダンジャズは理想を実現しているように見えた。むつかしい顔をして、大音量で鳴るアルバートアイラーに聞き入るものが本当にたくさんいた。叙情的なるもの、ロマンティックなものは、現実を美化しその矛盾を隠蔽する体制的の補完物とみなされ、拒絶することになる。既存のもの、上から与えられたものを拒絶するのは、「主体的」行為である。自ら行動しようとする「主体」は自由を望む。既成概念を拒んだけれども、何も新しいものを作り出せないとき、作り出せないことに気がついたとき「しらける」ことになる。自由を求めるけれど、手に入れた自由の中でどう行動すればよいかわからないとき「しらける」。
 こういう全共闘世代の主体意識も、今思えば随分怪しいものだ。あれから半世紀何が生み出されたかを見れば良くわかる。「全共闘」を振り返る書物の大半は、当時を叙情的に美化している。根底から拒否していたはずのロマンティシズムにどっぷりつかっている。痛みをこらえて自らを腑分けし、否定すべきものをとりだし、次世代に伝えるべきものを残す、こういう作業をしたものがどれだけいるか。この文句も、書くときりがない。
 では、今の若者は全共闘世代の主体意識を越えた地点に立っているかというと、これも怪しい。かりに幻想かも知れないけれども芽生えた、「主体意識」が退化したところに、今の若者がいるように思えてならない。社会性の欠如、自我の未成熟。
 全共闘世代の文化は、崩壊の進む地域共同体からの抵抗のアピールだった。ところが、全共闘世代は「自分たちは新しい」と思っていて、自らの出自が地域共同体の倫理意識にあることに無自覚であり、以降の社会の変容に対し抵抗力を持ち得なかった。英国サッチャー政権、米国レーガン政権が先陣を切った世界的なネオリベラリズムの大波に呑まれる。
 今の子供たちに、地域社会がない。自我形成をし社会を疑似体験する子供集団がない。こうして純真無垢な若者が育つ。(正確に言えば、そういう子供たちの割合が年を追って増加している。)資本主義社会の消費者として自立している、という論調を私はあまり信用しない。というか生徒と接した実感として感じ取れない。自我はあくまで他者との実体的な出会いによって、生の言語交換によって形成される。その体験量が絶対的に不足している。仮に消費主体としてもちっぽけな主体だ。本当に若者が経済合理性に貫かれて行動していれば、全く違った社会が形成されていると思うから。
 いじめの問題にしても、こういう視点から入るべきだろう。一つのクラス、一つの学校である一定の倫理観を共有する集団を形成することは、以前よりかなりたやすくなっている。染めやすくなっている。そうだとすれば、いじめは、統率する教師集団が、生徒集団に対しきちっとした倫理体系を構築する能力があるかが第一の問題なのではないかと思われる。優れた指導者がいれば、美しいコーラスができる高校生だ。素直にロマンティックな感動を作る高校生だ。生徒は涙と感動を求めている。40年前の高校生より遥かに強く。
日本の地域共同体が作り上げてきた倫理観は、それ程簡単に失われるものではない。若者は変わったという論調がある一方で、「日本人論」はこの50年あまり変わったことを述べていない。
「出る杭は打たれる」「表現力がない」「個性がない」云々。グローバリズムの時代を迎えても日本人は日本人なのだ。共同体の倫理は無意識のうちに(ユング的な)伏流として必ずある。それを表面に引き出すのはそれ程難しい仕事でない。自分がやって来た仕事の実感としてそう思う。
一方、無垢で染めやすいということは、どうとでも染まるということである。流行に対する抵抗力がない。当然、ファシズムへの抵抗力もない。中間共同体の欠落はファシズムへの第一歩だという。高校生の美しいコーラスはそういう怖さを感じさせる。
 こういう時代だからこそ、、教育の本来の役割である新たな時代を切り開く主体形成が求められている。教員は、染めやすいことを利用して、暫定的に倫理的な空間を確保する一方で、子供たちの社会性を育てる仕事をしなくてはならない。他者の存在を認め、他者をそれなりの形で理解し自覚的な集団を形成する技量を養う。これが、現在の教育に課せられた課題だ。学校は、教育の一部であり、一部に過ぎない。学校で無理だとしたら、誰が何所でやるか。
 見事な合唱を聴きながらこういう事をかんがえた。