既に、PCの普及で学校には電子メディアが深く浸透している。小学生がインターネットで調べ物をし、プロジェクターを使ってプレゼンするのは当たり前になっている。生徒がPC室に移動して学習するスタイルだ。これまでは、一人一台機器を所有するまでにはならなかった。一部の私立学校でノートPCを全員所有したりしているようだが。タブレットの登場で言われているのは一人一台の所有で、これは、教育に新しい事態を招く。全員の所有を前提にすれば、、宿題の配布、動画配信による予習授業など、電子メディアへの依存を飛躍的に高めることになる。生徒への全員配布は新聞報道にもあるように一部自治体で始まっている。そこで私が感じる懸念について列挙してみる。
◇電子メディアによる教育の壮大な実験
教育の何所までを電子メディアに依存できるか。その目安は未知である。教員が黒板(白板)に手書き文字を書いてみせるのをやめたら、どうなるか。紙の教科書を廃止したら生徒にどういう影響を与えるか。動画配信による授業はどのような結果をもたらすか。子供たちが電子メディアに大きく依存して教育を受けると、結果がどうなるのか、私たちは知らない。やったことがないのだから。
私自身、仕事でPCを使い始めたのは大学を卒業してからだ。(そのころ「8ビットマイコン」が売り出され、従来大型計算機センターに持ち込むような処理を机上で処理できることに感激した。)従来の媒体で教育を受け体験を積み、その上で電子媒体に移行した。以来35年以上PCを使い、それに深く依存しているけれど、基礎となっているのは、紙・手書き文字・肉声・肉体の世界での体験だ。これが、大きく失われたときどんな結果を招くか想像がつかない。
現時点での我々の文化はそうやって創られてきた。我々の文化は、我々の肉体に規定されて生み出された。その基本である言語がそうであるように。母親の話しかけだけで人間は言語を獲得しうる。それをどこまで電子メディアが代行しうるか。
我々自身あくまで肉体的な存在であり続ける。食事をし、排泄して生きている。生殖行為により母親の肉体から生まれ、老化して死に至る。ネットワークの中に電子データとして意識が存在するのはSFの世界。テレビ電話では孤独は癒されない。肉体的な他者の直接存在を前にして人間は初めて心を落ち着かせる。
本来、実験校での様々な試み、研究授業、研究発表を経て、可能性や一般化できる事柄を見極めるべきだろう。これには随分の時間がかかるはずだ。恐らく十年単位の。その猶予があるのだろうか。安易な電子メディアの普及は、日本の教育全体を壮大な実験場にしかねない。失敗し後戻りできなくなったらどうするのだろう。電子メディアでの教育は、同時にそれしか知らない教員を排出し続けるのだから。高校生は4年たつと教員になる。
急速に電子メディアが浸透したとき、格差の拡大を最も懸念する。文化の本質的肉体性を学校=公教育以外の場で獲得しうる子供とそうでない子供に、現在以上の深刻な格差が生まれるだろう。現状の格差も基本はこのことに由来していると思っている。それが更に拡大するだろう。
そもそも、現在の集団授業を基本とした公教育自身、近代国家の構成員を効率よく生み出すために作り出された歴史の浅いシステムで、その見直しが迫られている時だ。20世紀の教育スタイルを見直し、ゆっくりと21世紀の教育スタイルを模索する。そういう余裕がほしい。
◇インターネット依存
これは、既に議論されている。生徒にタブレットを配布することはインターネットの世界を公認し導き入れる事になる。ネット上のSNS依存が子供たちをどう育てるか。結果の見えない実験は既に始まっている。これについては、多くの発言があるからここでは言わない。
単純に考えても授業中全員タブレットを出してネットワークに接続していたら、全員が授業に集中しているか監視する必要が出てくる。簡単に画面の半分でインターネット見たり、漫画読んだり、メッセージ交換できたりする。監視プログラムを走らせ、余計なアプリ開いていると教員が探知するシステムは可能だろう。でも監視プログラムを誤魔化すアプリだって開発可能なのだ。
そこで思い出した。大学入試課の先生、中途半端な時間にネット上で合格発表するのやめて下さい。生徒が授業中に奇声を発する事があるのですよ。全国の高校が昼休みをとっている時間、もしくは放課後。理想を言えば、土曜日か日曜日にして下さい。
◇産業界の圧力
これまでもそうだったのだけれど、教育機器の浸透は、教育の内的必然によるものよりも産業界の圧力である場合が多い。教育課程への「情報教育」の組み込みがそうであったように。そして、教育の側からブレーキをかける手段が殆ど無い。誰ができるのだ。
◇ソフトの開発と値段
タブレットは夢のような機械に見える。が、それはその機能を生かすアプリケーションソフトがあってのこと。PCによる教育を行うにあたって私が在職中一番苦労をし挫折を経験したのは、LAN環境でのPCの機能を生かした良質な教育ソフトがないことだった。
そもそもソフトの開発には大変な手間がかかる。よく売れるゲームソフトなどは、優秀なプログラマー数十人が数年かけて作るといわれる。逆にこれくらいの手間暇かけなければ良質のソフトは作れない。開発費用は数十億円にもなる。百万本といった売り上げを期待できるから、この開発費が注入できる。Windwsともなれば、たとえばVistaで開発費用は5年で7500億円というデータが上がっている。一本2万で売っても億単位で世界中で売れるから成り立つことなのだ。(こういう規模でないとOSが開発できないことも、深刻な問題なのだが。)
需要の少ないソフトはには良質な物が少ない、良質な物は大変高額になる。大量の需要が見込まれなければ良質なソフトは提供されない。コンピュータのソフトは価格の殆ど全てを開発費用が占める大変特殊な工業製品だ。したがって、私たちが良質な教育ソフトを手にするには、高額の費用をきちっと払う覚悟が必要なのだが今の学校にはこの認識がない。
コンピュータには値段がついているから予算化しやすいのだが、これを運用するソフトにはハード以上の値段がかかるのが普通であるという認識は学校社会になかなか育たない。ソフトにどれだけの費用がかかるかについての共通認識がない。問題集1冊千円で生徒に購入させたとき、それによって得られる効果は経験からおよそ想像がつく。しかし、教育ソフト購入して生徒に向かわせたとき何が得られるか、経験が乏しいから想像がつかない。前述のように壮大な実験がこれから始まる所なのだ。費用対効果を何所で誰が算出するのだろう。
更に、教育の世界は著作権意識が大変乏しい。最近入試問題についてはうるさくなってきたけど、普通教育目的の使用の場合、文学作品に著作権費用は発生しない。(と思われている。私も正確に知らない。)恐らくその発想を勝手に拡大したものだと思うのだけれど、学校には問題集、参考書の違法コピーが溢れている。採用見本として持ってきた問題集を適当にコピーして自分のプリントを作るなどということが、比較的平気で行われている。さらに、ソフトやデータの違法コピーが同じ感覚で行われている。だから、最初から市場が狭い上に、著作権侵害が横行するために教育ソフトは売れない。
教育ソフトの開発には、経験とコンピュータの可能性について洞察力を持った現役の教員とその意向を実現するプログラマーの時間をかけた共同作業が必要なはずだ。小、中、高等学校それぞれ違うだろうし、各教科指導用、一般のシステム構築用、などかなりの種類にのぼるはずだ。これらの提供を一般の企業に委ねたとき、企業の採算が取れてなおかつ各学校や保護者が負担可能な額でソフトが提供される保障はあるだろうか。タブレットは電子書籍+電子辞書以上には使われず、あとはインターネット参照のオモチャを無償提供するに終わるような気もする。
◇教員の仕事
「ソフトは教員が作ればよい。」PCが普及し始めた頃そう思う者は多かったし、自分の興味関心からソフト開発をする教員も多かった。実際、やればかなりのことができる。成績処理システムを自作した学校は結構多かったようだ。(これらの学校では今開発した教員が定年退職を迎え慌てることになる。素人の作るシステムだ。維持管理と更新が本人にしかできない場合が多い。)学校の先生が作られた良質な教育向けフリーソフトも数多く存在する。また、LANが普及すればその維持管理も教員がやろうと思えばやれない仕事ではない。でも、次の例で考えてほしい。
「下駄箱は教員でも作れる」「校舎の雨漏りは教員でも直せる。」実際、私でも技術家庭の実習室にこもれば、結構よい下駄箱を作る自信はある。既成の物より生徒の使いやすい工夫を凝らした下駄箱だって作れるだろう。でも、教員にそんなこと依頼する者はいない。教員の仕事でないからだ。
コンピュータ関連の仕事については、何所までが教員のかかわるべき事で、どこから専門家に委ねるべきなのか、共通認識がない。下駄箱のような。実際の線引きも難しい。思うようにシステムを運用するのに、自分でやった方が早くて安い場合だっていくらもある。このことが、コンピュータに関して知識のある一部の教員に過重な負担をかける。場合によってはかなり極端な負担となっているのだが、周囲からはなかなかそれが見えない。また、困難な生徒指導から逃れるようにして、進んでコンピュータ関連の仕事に打ち込む教員が現れることもある。このことも、ソフトウエアのコストに関する認識を遅らせる要因の一つになっている。
このような現状で、タブレット端末が普及したとき、一部の教員に更にひどい負担をかけることになりはしないか危惧する。
いくらできると言っても所詮素人。学校教員の作るソフトは、日曜大工で作る犬小屋程度と思った方がよい。(よくできた立派な犬小屋だってあるのだけれど。)長年安心して住める家は、プロにしか建てられない。
私は、教育の一部にコンピュータを用いることに賛成である。プロジェクター使って図表を生徒に示すことは随分してきた。手書きではとても追いつかない、関数の振る舞いを表現できる。また、ある種の学習ソフトが、学習の遅れた生徒の基礎トレーニングに大変有効であることもわかっている。機械の前なら間違えても恥ずかしくない。先述のようにタブレットがこれまでにない可能性を開くこともわかる。いかし、所詮道具だ。教育の、文化の肉体性を再認識し、機械の限界を見極め補助道具として賢く使用できたらと願う。