中間総括

このblogに書きとめて8ヶ月が過ぎる。当初教員仕事のノウハウを記録するつもりだったものが、どんどん一般論へ流れていく。書きながら考え、調べながら考えているうちに出発点から随分違うところまで歩いてしまったような気もする。そんな今の全体をざっと俯瞰し記録しておきたいと思う。

教育
教育は、人類が種の存続のため次世代を養育する過程のうち肉体的な養育以外の部分を指す。過去の経験の蓄積と文化的到達地点を次の世代に託する行為である。これはいわば次世代への「贈与」であって、何かと「交換」しうるものではない。かつて、教育は、次世代が共同体の中で大人と共に暮らす過程で自然に与えられるものであった。
近代以前には共同体の生活そのものが内に教育行為を含んでいた。その内容は人類歴史数万年の経験が蓄積されたものである。日本の場合、米作が始まって以来米作に適した地域共同体形成と維持の方法が伝達されていた。

学校教育
社会の発達と共に文字文化を共同体全体で共有する必要が生まれ、そのための便宜的システムとして学校が生まれる。教育行為のうち文字文化の伝達を専門に引き受ける社会機構である。その歴史は世界的に見ても一世紀半程度、経験の浅いものであり、数十人の同一年令集団を単位として授業を行うやり方は暫定的。
また、学校教育は広い意味での教育全体の中に位置づけられてはじめて意味を持つように設計された制度である。例えば、排便処理の能力や母国語の習得は学校教育の受け持ち範囲でない。

学校は人間教育の場でない
学校はあくまで文字文化の伝達機関である。生徒と教員が人間的にかかわることは当然あるが、それは円滑な学校生活をおくるための補助にすぎない。会社の上司だって部下の生活上の面倒を見る。大きな会社にはカウンセラーもいる。それと同じである。
学校は偶然に形成された短期の同一年令集団で、しかも昼間の限られた時間だけ行動を共にする。そのような機構で人間を変えることなどできない。学校生活を通じて人間は変わるかも知れないが、それは学校を含む生活全体を通じてであって学校によってではない。また、特定の教員と生徒の出会いが生徒の人生を劇的に変える場合もあるが、それは社会のどの場面でもあり得る偶然の出会いに過ぎない。
もし学校で人間教育が可能なら、巷に流布する書物で指摘されているような「日本人の欠陥」はとうの昔に克服されているはずではないか。明確な意思表示ができ、民主主義の概念が根付き、契約概念を基礎とした近代的労働者集団が形成されているはず。

教育問題
制度としての学校教育はその発足以来殆ど変わることがない。学校教育に問題があるとすれば、社会が担うべき教育全体と、学校教育との間の不整合による。
産業社会の高度化に伴い、従来教育を担ってきた中間共同体が崩壊を続けている。地域共同体、そしてその構成要素となる家族が大きく変化して教育力を失い、ある部分では内容を変質させた。その結果、予め学校外で修得すべきものを欠いて就学する生徒の比率が増加し、学校教育を困難にしている。その困難は、一世代30年という短いサイクルで再生産される。
いじめ問題などその典型である。昔から似たような関係は子供社会の中に存在したが、従来子供社会内部もしくは子供が属する地域社会の中で処理され、学校で教員がかかわることなど無かった問題である。(その処理が理想的かは別問題で、差別が温存される様な負の側面も必ずある。)
また、教育=学校教育であるかの様な思い込みから、本来の目的である文字文化の伝達を越えて学校教育への期待がふくらみ、子供たちが未成熟であることの責任を学校が負わされている。この結果、学校教員の職務は拡大し、多忙を極めることとなる。
地域教育、家族教育から失われつつあるもの
・コミュニケーション能力
子供は身体的に他者と接することにより相互理解の能力を高める。互いの肉体の面前で言語だけではなくその動作、表情、声、等の全体によって他者を理解し受け入れる。人間は身体的にできている。他者との接触経験の絶対量が不足し、他者を深く理解する能力を欠く子供たちの数が増えている。かつて学校はそのスキルを相互に確認し高め合う場として機能していたが、基礎能力の低下に伴い学校での集団生活が意味をなさなくなりつつある。
・集団行動の規範、倫理意識
かつて日本社会全体を覆っていた農村共同体を基礎とする行動規範、倫理意識が徐々に薄まりつつある。にもかかわらず、それに変わる行動様式が身につけられず、規範意識そのものが希薄化していく。
少なくともたてまえとして存在した利他主義の美学が失われ、利己的な行動が周囲から批判されることもなく本人の後ろめたさもなく前面に出る傾向が強まった。
・言語能力
地域・家庭での相互接触の時間が減り、言語能力そのものが低下しつつある。特に子供集団が失われ、子供同士での自発的会話機会が減少し、その結果、発話能力、論理構築能力、言語理解力などどんどん低下している。語彙そのものが縮小傾向。
・主体的創造的体験
自ら工夫して対処する経験。自分で何かを作ろうとすれば常に起こることだ。別に、もの作りでなくても、主体的生活するとき無限に変化する状況への対応は必須。生活全体が受動的になりつつある。画期的製品で世界をリードしてきたSONYが没落するのも必然か。
・言語文化
口頭伝承として蓄積された言語文化が失われつつある。ことわざ、比喩、たじゃれが通じない。・自然に関する知識
動植物の名前、生態。主に採り方。こんな事近所の兄ちゃんか親に教わったものだ。
・遊び文化
様々な遊び、その技術。工作技術。今、雁皮紙と竹籤のゴム動力機をどれだけの子供が作れるか。
・その他民間伝承全般
振り返ればきりがない。生活習慣、家事、育児など私たちの生活全体について、蓄積され伝承された知識の総体は膨大なものだ。「野生の思考」は何も発展途上国に限定されるものではない。それらの伝承が急速に衰えつつある。それが現在の学校教育を困難にしている基本原因だと考えている。
余談だが、民間伝承の衰退といいながら、インターネットにはこれまた大量の蓄積が始まっている。私たちが子供の頃身につけたもののたいていのことは、ネットのどこかで誰かが書いている。ためしに「みっちゃんみちみち」で検索すると32000件、「襖 張り替え方」513000件。

新自由主義
国家機構の役割を縮小し国民の自由な行動をできる限り保障する。競争原理の承認、一方で構成員の中に必然的に存在する格差は国民の自己責任に帰す。と理解しているがどうだ。
1979年サッチャー政権、1981年レーガン政権の誕生からいわゆる新自由主義経済政策が始まる。日本では、電電公社、専売公社の民営化が1985年、労働者派遣法が86年、国鉄民営化が87年。80年代には日本でも既に新自由主義的政策は始まり、以降96年金融制度改革、00年大店法廃止、03年郵政民営化など、30年間にわたって進められてきた政策。教育政策も、紆余曲折を経ながらも、競争原理の拡大と格差の承認は83年臨教審発足以来一貫して基調をなしている。学校教育への影響で見れば、産業社会の成熟に伴う問題点がより促進されて現れることになる。
集約すれば
・中間共同体の解体と社会的な教育力の低下
・教育目標が文字文化の個人的修得競争に限定
の二点に集約されようか。

社会の変化はゆるやか
労働組合組織率の推移(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3810.html)で見るように大きな事件が起こりながらも社会の基礎構造が変化する速度は緩やかなものだ。組織率が下がったとはいえ、労働組合員が17%いる。一方50年前でも全労働者の半分は組合に加盟していない。生徒や保護者の質的変化も、ある傾向は持ちつつもこのような曲線を描くように思われる。30年以上同じ仕事をしての実感だ。

こんな枠組みで私の仕事を振り返っている。けりをつけて、専門である数学教育についてもう少し考えてみることにしようか。