「日本国憲法第九条を守れ」という意見はよく聞かれる。一方現行憲法第一章天皇(第一条から第八条)については、これほど鮮明な態度の表明をあまり聞かない。戦後左翼は、天皇制反対の立場を表明してきた。(スターリン時代のコミンテルンテーゼを引き継ぐとの指摘も多い。)その流れを引き継ぐ人たちにとっては、現行憲法第一章は守るべきなのか、廃止すべきものなのか、態度を決めかね口をつぐんできた。これは、知識人の知的怠慢、不誠実のひとつだと思う。態度を決めかねるなら、そう述べ、理由を論理的に語るべきだ。(その例外のひとつとして私が記憶するのは、灘本昌久氏・元京都部落問題研究資料センター長・現京都産業大学教授による『部落解放に反天皇制は無用』<http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20030425.pdff>である。)また、近年特に平成に入ってから、天皇制について多方面から自由に語ることがタブー視される空気はないか。その中で自主規制が行われ多くが語られなくなったとすれば、これ自身ファシズムの到来を告げるものだ。
その意味で、「天皇制についてちゃんと議論しましょう」と語る本書は刺激的だ。自民党の改正草案<https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf>では、第九条と共に、第一章についても大幅な手直しが行われ「天皇は日本国の元首であり」と書かれている以上、これに関する議論は避けて通れない。私たちは国民投票することになるかもしれない。考えなくてはならないことは多い。草案は具体的な国家建設の提案である。それに対し「現状維持」は有効な政治スローガンとなり得ない。この間の安部政権一人勝ちがそれを証明している。自民党の草案に反対するなら、どこを目指して一歩を踏み出すかについて、実現可能な対案を示すべきだろう。
私たちは、どのような国家を理想とするのか。どのようにしてそれを形成しうるのか。西欧社会は、共同体を基盤とした封建社会から近代社会に移行する過程を数百年かけて歩んだ。革命を含む大衆運動の成果として現行制度ができあがった。それは自然過程だろう。日本はその道を、外圧を受け制度や文化を輸入して、百年で駆け抜けた。その制度は国民が政治闘争の中で了解しながら作り上げたものではない。現行憲法然り。そのことによる歪みに私たちは直面している。
いじめなど学校現場が抱える困難もそのひとつだろう。学校外の社会(共同体的残滓を残した)が担っていた教育力を前提に、学校制度はできあがっている。その社会が急速に変質し教育力を失いつつある。現代日本社会に対応した新しい人と人との繋がりを私たちは必要としている。そこへ西欧の共和制を直輸入して上手くいくものでもないだろう。革命を起こせば何とかなると、議論を先送りすることが全くの空論であったことも、歴史が証明してしまった。固有の歴史性を抱えた日本で、一億人が、どうすれば有効で民主的な意志決定システムが形成できるか、そして天皇制は廃止できるのか。
もう一点、思想的な理想と、政治的に実現可能な政策をしっかり分別して臨む思考方法を私たちの文化は上手く共有できていない。40年前の全共闘運動が「打倒」「粉砕」「革命」など勇ましいスローガンを掲げながら自壊していったように。そのことが未だ真剣に反省されているとは思えない。私たちは確実な一歩をどうやって踏み出せば良いのか。
内田氏は、「鎮魂」「身体」をキーワードとして現行天皇制の必要を説く。数千年にわたって営んできた共同体生活の記憶、共同体の中での生と死の記憶を、実体的な共同体を失った今、どう扱うかが問題なのだという風に私は理解する。村上春樹の小説も、共同体的基盤を喪失した人間の生と死の了解を巡り書き連ねられてきた。その答を政治制度として実現できるほどに私たちの認識は成熟していない。それがいまの危機的状況を生み出している。
私の現時点での意見
天皇制-私たちが新しい社会を展望できるまで、現行憲法の象徴天皇制を維持。
『君が代』-現行憲法の国家観にそぐわない。新しい国歌を。「兎追いし・・」がいいな。
日の丸-アイコンとしてのデザイン性に優れている。
愛国-日本語を含む日本文化をたいせつにしたい。しかし、これらをもって大日本帝国憲法の時代を再現したいとするあらゆる政策には反対。
天皇制に関する議論をタブー視するあらゆる圧力に反対する。
PCの処理性能はこの30年で百万倍を超えて向上している。社会科学はこの30年でどれだけの事を為し得ただろう。