運動部の試合に保護者が顔を出すようになったのはいつ頃からだろう。 公式野球などの元々親が熱心だった部活動はある。上達すればプロスポーツにつながる野球、サッカーなどには昔から熱心な親がいた。それが、かつて殆ど来なかった種類の運動にまで保護者の応援が広がりまたその数が増え続けている。会場によっては、自家用車で保護者が応援に来ないよう予め注意のプリントを回さなくてはならないことがある。これがまた熱心な応援をする。室内競技で、妨げになるストロボ撮影が問題になる。その応援の口汚さのため競技によっては、わざわざ保護者の「野次」に規則を設け注意をしなければならない場合まであると聞く。
ご縁でピアノの発表会を見に行って驚いた。小学生の女の子が綺麗に髪の毛をセットしプロの演奏会のようなステージ衣装で登場する。ペダルに補助を付けなくてはならないような子が大変難しい曲を弾く。友人の子供がバレエを習っていて、一回の発表会でかかる費用が十万円を超えると聞いて驚いた。
ビジネスマンの雑誌「プレジデント」が子供の教育に関する記事を載せるようになり、現在は「プレジデントファミリー」なる教育雑誌を刊行するようになった。父親まで!と驚愕するのはもう古いことなのかも知れない。
子供の私立中学に通う割合は上昇傾向を続ける。2011年東京で二十六%、全国平均で八%。通塾率も九十年代に急上昇し、2013年小学生全国平均四十六%、東京で五十九%、中学校では全国平均五十六%、最も高い奈良県で七十三%。(「ベネッセ教育総合研究所」「都道府県別統計とランキングで見る県民性」より)
子供の教育に強い関心を寄せる親は増えた。(勿論これは傾向であって、ゆったりと子育てする親もいれば、全く無関心な親も当然いるのだが。)しかし、これらの保護者の行動はどこまで合理的経済行動だろうか。学習面だけ取り上げれば、「良い」就職をし子供に高額の所得を得させる事を望んでいるとも考えられる。しかし、今や大学全入時代。小学校から塾に通って到達できる大学の「ランク」を上げることで得られる経済効果はどれほどもものか。どこまでの保護者が合理的計算をしているだろう。医者・弁護士になれれば確かに所得は保障される。だがなれる人数はごく僅か。医学部の定員は全国総計しても九千人同世代人口の一%以下。大変リスキーな博打である。まして、経済的に安定したプロの音楽家や舞踏家など同世代でごく僅かしかいないことは誰でも知っている。それを目指して途方もないお金をかけることは、経済的には全く引き合わない。音楽系の高校や大学に通うものは、高級外車が買えるような値段の楽器を普通に持っていると聞いたことがある。子供の教育に熱を上げる保護者の振る舞いは合理的経済行動では説明できない。
音楽大学生が異様に高価な楽器を持っているのは、東アジアに特徴的に見られることで、西欧ではあまりないことらしい。大学受験の過熱もどうもそれに近い。東アジアの米作地帯が持つ文化、儒教文化地帯の近代化には共通で理解できることがたくさんあるのではないかと思うが、これはこの文の主題からは少し外れる。
また、子供への愛情でもなさそうだ。人生の土台を作るかけがえのない幼年期を、塾通い・お稽古・スポーツトレーニングで埋めるのはあまりに残酷な振る舞いではないか。
これらの親は子供をペットの様に扱っている。有名大学への進学、有名企業への就職、スポーツ大会での活躍、これらは子供の品評会と理解すると一番わかりやすい。犬をドッグショーに出品するのと似た感覚で子供を育てている。植物で言えば、盆栽を育てるように育てる。だからこぢんまりした子が育つ。ペットだから、期待にこたえられなくなると簡単に放棄する。一応飯は食わせてもらっているが、精神的には放棄された子供は多い。親が学校に求めるものは、子供の品評会でのランクを上げる事なのだ。
最近の「熱心な」親をこんな風に見ている。
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アメリカ文化
『復興文化論』(福嶋亮大)は示唆に富む面白い書物であった。日本古典、中国古典の読み込み量が、西欧文化と現代日本の書物を読み込んだ量(これが従来の「教養」だった)に加算されている。論旨よりも、文芸批評として刺激的。今後が楽しみ。その一節、現代の項に、アメリカ文化は自然否定の文化でディズニーはその象徴であり手塚治虫はそれを日本で引き継いだ、といったことが述べられている。
成る程と納得した次第。アメリカ文化は植民地の文化だ。アメリカ先住民を抹殺し、力ずくで「開拓」をした。アメリカ先住民の抹殺(具体的には5%に減少:http://ja.wikipedia.org/wiki/)は同時に先住民の文化の否定。アメリカ文化は近代文明の力で無理矢理自然をねじ伏せた(つもりになっている)文化だ。その土地に住む共同体の文化は自然との共生についての経験と知識によって成り立っている。それに失敗した文化は滅びる。そして、数千年の歴史を持つ文化は必ずその基礎として自然との共生を土台とする共同体の記憶を持っている。神話はその一つ。アメリカ文化は神話を持たない文化だ。
例えばアメリカの農業は過剰な潅漑により深刻な打撃を受けているらしい。アメリカ文化に「発展」はあっても「持続」はない。二百年何とかなってきたけれど、この先千年持続可能である保障は何所にもない。恐らく無理だ。
アメリカ文化は、原始共同体の記憶を持たない文化であり、自然との共生を否定した文化である。他項で書いたけれど、原始共同体での女性の地位を記憶として持たないアメリカ文化は極端な女性差別文化でもある。ウーマンリブはアメリカから起きた運動である。グローバリズムとは、この安直なアメリカ文化の世界的敷衍のことだ。
イスラム社会との対立は、このアメリカ文化への反感が生み出しているのではないかと思う。イスラム文化はそれこそ五千年以上の歴史を持ち、中世約千年間にわたり世界をほぼ制圧し続けた。こういう重厚な文明がアメリカ文化と親和性を持たないのは理解できる。聞きかじりでしかないが、イスラムの教えの中には、アメリカ流の個人主義を正反対にしたことが多く書かれているという(例えば「マルカムX自伝」)。そして今、ヨーロッパの若者を「イスラム国」が惹きつけてしまう。
グローバリズムへの有効な批判として、イスラムしかないのか。考え込んでしまう。さらに、日本は何故大した抵抗もなくアメリカ文化を受け入れ広大な米軍基地の存在を許してきたか。「奥様は魔女」の家庭生活に憧れて僕たちは育った。
イスラムのテロリストによる残虐な事件を見ながら。
いじめについて_1
いじめについて触れようと思う。
心理学や教育学の専門家ではない。統計データも専門の文献も読んでいない。ただ三十余年の経験から言える感想を述べることしかできない。
いじめとは
いじめを定義するのは難しい。様々な生徒の人間関係は多様でそれこそ連続的に広がっている。
ここまでは悪ふざけで、ここから先はいじめ。これはしごきで、こっちはいじめ。このような区別がつくものではない。いじめている当人も自覚していない場合が多いし、いじめられている被害者もいじめだと思っていない。これには境界の曖昧さ以外の理由があるのだが。いじめの発見や対処が難しい一つの理由がここにある。
社会的、肉体的上下関係を利用して、一方的に精神的肉体的苦痛を与えること。
取り敢えずこういう事にしておこうか。しかし、具体的な対処の場面では細部にこだわるべきでない。経験から言って、教員がいじめに対処する第一歩は、こちらが一方的にいじめだと認定し宣言してしまうことに尽きる。言葉を換えれば、「これは生徒間で許されない行為であり、許されない人間関係の作り方である」と一方的に評価を下すことからいじめに対する処置がはじまる。別に、周囲もしくは当人がいじめと言おうが言うまいが関係ない。このような人間関係は許さない、と断固宣言することが大切だ。
ただ、このように文章で論じる場合は、ある種の定義が必要だと思うだけだ。
現在と過去のいじめ
いじめは昔からあった。私の少年期にもあった、就職初期の時代にもあった。統計で見るるとむしろ減少している。(「平成17年度生徒指導上の諸問題の現状について」(文部科学省調べ))
それでも現在いじめが社会的に問題視されているのは、いじめの内容が大分変わってきたからではないかと思う。現在と過去のいじめの違いは、他の項で書いた生徒の質的変遷によると思われる。他の項で書いたことをいじめとの関連でもう一度記す。
まず、生徒が集団形成をしなくなった、できなくなったことによるもの。かつてのいじめは、集団がその集団を維持するため、集団維持に敵対する者や集団維持の障害となる異質な者を排除したり、制裁を加える行為としてあらわれた。いじめの理由が明らかだった。教員として外側から見ても善し悪しは別として理解できたし、内側にいる加害、被害双方が、なぜいじめるのかいじめられるのかわかっていた。少なくとも、いじめる側はいじめることを正当化する論理を持とうとしていた。
ということは、いじめられないためにはどう振る舞えばよいか、互いに明確だった。我慢して、集団の要求に従うか、いじめ覚悟で自分の個性を貫くか、選択の余地があった。それがまた辛いものであったにせよ。集団の要求も随分理不尽な場合もあった。ただ少なくともある日突然全く理由もなくいじめが始まるといったことはあまりなかったのではないだろうか。
もう一つ。集団として、ある種の制動が効いた。極端ないじめのエスカレートは集団内で正当化されないし、逆に集団維持を困難にする。「それくらいにしておけ」というのものがいた。まあその限度も決して正当化できるものではない場合も多かっただろうが、どこかに制裁の限界があることは了解していた。もしくは、教員が働きかけることで、比較的容易に集団に制動機能を持ち込み限度を調整することができた。
孤立した加虐-被虐関係は際限なくエスカレートする。私は心理学の専門家でないけど、親子関係でも、夫婦関係でも、孤立した虐待関係は悲劇を生む。私たちでも、自分の子供に説教をしているとき虐待の、底なしに深い穴を覗く体験をしたことはないだろうか。いじめでもそうだ。どこかで制動がかからなければどんどんひどくなる。
また、集団性の喪失と同じ事なのだが、かつて生徒が共有していた倫理規範が希薄になってきた。1980年代であれば、「自分より弱い者に手を出すのはみっともないことである」という説教に生徒は敏感に反応した。共同体意識のこのような部分を教員が少々補強することで生徒集団の質を高めることができた。ある種の「美学」を共有することができた。今こういう説教をしても、本当に何を言われているかわからない生徒がいる。また、他項でも触れたけれど、教員に他の生徒のことを言いつけることは、絶対のタブーであった。私の少年期もそうであったし、就職当時も同様だった。校則違反に関してきつい取り調べをしても、自分の非は認めるが同伴した他の生徒について殆どの生徒が口を割らなかった。(こういう生徒は教室に帰れば英雄になれる。)近年様相は一変した。自分の非を認めれば同様の行為をした生徒のことを簡単にしゃべる。こちらはちょっとがっかりしながら、楽に調査を終える。教員室に公然と他の生徒の非を報告に来る生徒などかつては考えられなかったことだ。
これらの規範(美学)はファシズムの温床でもあり、強烈な差別意識を伴う場合もある。少なくとも個人を共同体に拘束し自由を奪うものだった。これを一方的に美化するつもりはない。しかしその規範に従う限りにおいて人間関係についてある種の安全が保障されていたのは事実だ。実質的な共同体の崩壊の進行と並行して時間差をおきながらこれらの規範意識が希薄化する途上に私たちはいると思う。
次に指摘したいのは、生徒のコミュニケーションスキル、人間関係力がどんどん低下していることだ。他の生徒の言動が了解できない。自分と均質な人間しか理解し受容することができない。かつてなら、少々「変わった」生徒がいても周囲がそれなりに了解し集団の中に存在位置を与えられたものだ。「変わった」生徒自身も周囲を理解し集団の中でどう振る舞えばよいか心得ていた。転校生とかお金持ちなど社会的な理由の異質さ、勉強が極端にできるできない、内向的性格、さらに現在ならアスペルガー症候群に分類されるような異質さ、これらの「変わった」生徒も教室内でそれなりの社会的地位を得ていた。少なくとも比較的容易にそういうクラス集団を作ることができた。
今は、お互いが良くわからないから、取り敢えず排除の対象にならないように振る舞い、均質な者同士が小集団を形成する。面と向かって物を言うことが苦手だから電子媒体に頼る。理解できない生徒は排除の対象になる。極端なことを言えば、そもそも皆が互いを良くわかっていないから、ほんの偶発的な事柄が排除の原因になる。よく指摘されるように、いじめの被害者と加害者が流動する。
現在のいじめは、人間が集団を組めば必ず発生する排除の論理が、制動を失ったものなのか、かつて明確な形で存在した、共同破壊行為に対する制裁措置が残滓として社会的に生き残り他の共同体論理との関連を失って暴走しているのか、私には良くわからない。恐らく両方なのだろう。少なくともここで指摘した要因が重なり合って、現在のいじめが過去とは違った異様な事態を生み出す事になるのだと思っている
いじめについて_2
いじめを少なくするため、学校で何ができるかについて。いじめを全くなくすことは恐らくどのような集団にもできないし、「自分のクラスでいじめはない」と教員が思い込むのは危険なことだから、なるべく少なくするために何ができるかを考える。
答は単純だ。『全ての他者を尊重する』その規範を持ち込み強化すること。これしかない。私はうまく条件さえ整えば、ある意味容易なことではないかと思っている。体験的にも。その理由を書く。
前項で、生徒は変質していると書いた。また現代の若者について論じた書物は数多くある。一方で「日本人論」も多く、こちらでは日本人は外国と比べてどう違うか、またそれが如何に変わらないかその特性を論じている。これは奇妙なことだ。会話が失われ変わってゲームや電子メディアが普及し婚姻率も下がり、と若者の変化が報告される。一方、「出る杭は打たれる」、自己主張がない、同調圧力が高い、交渉力がない、日本人論が好き・・・明治開国以来変わらない日本人の弱点が指摘される。どちらもが、正しいのだろうと思う。流動する表層からと強い惰性を持った深層までの広がりを持って文化や規範は動いていく。二千年近くも前に成立した神話が日本人の心を読み解くために用いられるのだから。
数万年にわたり日本列島に定住し、二千年もの間共同で稲作を行ない築かれた日本人の共同体論理が簡単に失われるはずがない。弥生人の流入、縄文人の排斥などあっただろうが、逆に長い歴史の中で民族の流入対立が指摘できるのがこの一点くらいというのが大変特殊なことだ。
親孝行とか先祖を敬う意識は薄れてきたように見えるが、敬語は生き残り、日本語で二人称代名詞が英語の様に一つになることは想像できない。別項で書いたが、大学体育会の特殊な社会は程度の差はあれ今でも生き残っている。旧帝国軍隊の上下関係をそのまま温存したような社会が、高等教育の中に公然と生き残っている。その異様さはインターネットで検索してみても容易に知ることができる。(こんなことやっていて日本のスポーツが強くなるはずがない。)大学体育会を通過した人間が、体育系部活動を指導し、社会体育を指導している。
神戸の震災、東日本大震災などの危機に際して、日本人の復興へ向けた共同作業は海外から絶賛されているという。混乱に際しての略奪行為は稀少で、互助的社会組織が自然発生的に立ち上がる。共同性が必要とされる社会的実体を前にすれば、深層意識は表面に出てくる。良い意味でも悪い意味でも私たちは共同体意識を深く抱え込みそれに縛られている。
生徒の中に他者を尊重する規範意識を育てるために、新たに何かを植え付けるのではなく、以前より少々深く深層に分け入って共同体意識を掘り起こせばよい。90年代の半ばから、クラス担任や教科担当としてクラス集団をまとめるためにこう考えてやって来た。実際これは可能なことだ。大切なのは、名目としてではなく、教員自身が本気でそれを語ることだ。
他人を傷つける事を最も許されないこととする。他人を助けることを最も賞賛されることとする。個人的な事柄、例えば学校を遅刻する事より、集団的事柄、例えば教室掃除を他人に押しつけてさぼることを次元が違う悪事であると宣言し生徒とことん追求する。成績の良かった生徒より、級友に勉強教えた生徒を賞賛する。これはなかなか細かい配慮のいる事柄で、学校生活の結果として残るのは、学業成績、出欠記録、各種検定、進路などどれも個人的事柄ばかりなのだ。そういう結果よりも他者や集団の尊重の方が次元を越えて大切だと折に触れ、矛盾なく、本気で語り続ける。また、担任としても弱者(=勉強苦手な者、問題を抱えた生徒)に対してエネルギーを注ぎ続ける。
さらに、そういう価値観に基づいて集団形成をする。他者をたいせつにする以上きちっとした集団を作れ、これも折に触れ言い続ける。遠足・研修旅行・合宿・体育祭・文化祭あらゆる行事を利用して、集団形成を助ける。リーダーを育て運営テクニックを教える。
先に述べたように、生徒にこれを受け入れる素地はある。さらに、別項で述べたように、現在の生徒は世間が言うほど個人主義の論理を身につけてはいない。クリアーな自意識を持ちしっかり自己主張する生徒は少なくとも増加していない。また、自己の栄誉達成のため、主体的に努力する生徒の数はむしろ減少している。確かに社会は競争を煽り、保護者は子供を競争に向けて駆り立てるが、それに従う者は一定数存在しても自覚的に競争に入っていく生徒の数は少ない。受動的なのだ。学習塾(それも個人指導主体)の繁栄はその結果と見るべきだろう。要するに倫理規範を失い集団形成力を失った今の生徒は、代わりに西欧的個人主義を身につけたわけでもなく、単に白紙なのだ。白紙だから染めやすい。(極右・極左にでも容易に染まるだろう。)入学したばかりの1年生は楽で、特にそのまま3年間持ち上がりの場合3年目にはかなり成熟したクラスを作ることができる。逆に、全く接点がなかった学年で突然卒業学年の担任をしたときは苦労した。
少なくとも、私が管理する集団としては、その「ローカルルール」に従う集団になる。それでよい。むしろその方がよい。絶対的な真理として与えるのではなく、この集団に適応される仮のルールとして、規範を設定する方が生徒も受け入れやすいし、本来倫理規範は局所的なものと扱うのが健全だろう。これも教えなくてはいけないことだが、社会集団はそれぞれその集団だけに有効なローカルルールを持つ。校則などもその典型なのだけれど、絶対的な基準としてではなく局所的なルールであると説明する方が、あらゆる学校での振る舞いは生徒が受け入れやすい。納得すれば生徒は上手に頭を切り換える。繁華街で全裸になってはいけないが、風呂屋では全裸にならなくてはいけない、社会というのはそういうものだと生徒に説明してきた。ローカルルールを守りながら生徒は考え成長する、それが余所でも適応される行動規範として身に付き発展させてくれる生徒が小数でも存在したら、十分ではないですか。更に言うなら、倫理規範を明確にすることは、生徒の思考にある種の座標軸を与えることに繋がり、生徒の人間的成長を促進するのではないかと思う。集団形成がうまく行ったクラスの卒業生はむしろ進学実績も良いし社会貢献に繋がるような職業選択する生徒が多いように感じている。
勿論、こういう生徒指導が学校全体で共有され学校としての局所ルールとなればそれに越したことはない。私はこれに関する実践について言う資格はない。若い白紙の生徒を変えることは容易いが、教員集団は生徒集団より遥かに強い慣性が働いていてなかなか動かない。特に近年の若手の教員は教員自身、既に共同体の論理に触れることなく育ち、主体的集団形成の経験もない「お利口さん」である場合が多い。また、厳しい学校観競争に晒されていて、売り物としては個人的な栄誉の達成以外ないと信じられている。(本当はそんなことないと思うのだけれど。)学校全体を変革するためには、しっかり労働組合を組織し活動すべきであったが、多忙にかまけてそちらに力を割くことができなかったことを今悔やんでいる。
もし、このサイトを子供を育てている保護者の方が見られているなら、こう助言したい。学校案内のパンフレットやホームページでの学校紹介欄で、他者や集団を尊重する人間教育にまず最初に触れる学校を選ばれるのがよい。個人の栄誉達成についてばかり書かれている学校は如何にきめ細かなサービスが謳われていても生徒間でいじめが横行している確率が高い。教育理念は意外に教員と生徒を拘束するものだ。
また、他者を理解する能力、人間関係を取り結ぶ能力については、高校になってやれることには限りがある。対等な立場で肉体的に面前するような体験の絶対量が、幼児期から不足しているのだから。肉体的に相対したとき人間は特別なモードにはいることを、アスペルガーの研究が教えてくれる。そのモードに入れないのがアスペルガー症候群の特徴の一つなのだそうだ。その上で文字化された言語以外から(仕草、表情、声色・・)情報を読み取り処理するのは一つのスキルだ。トレーニングが不足している。高校生になって教員ができることは、他者理解のスキルに気付かせること。そして何より、他者を理解しようとすることの大切さを訴え続ける他ない。折に触れ、級友を理解しようとしているか、生徒に問い続ける。互いが理解しようと努める様な集団形成を心がける。
当然ですが、ここで書いたことは私が目標としてきたことであって、実現できたことではありません。手痛い失敗もしてきたし、ひどいいじめにも出会いました。ただ、こういう方向に走ってみると結構うまく行く場合がありますと申しているに過ぎないことをご了解下さい。
いじめについて_3
次にいじめの発見と対処について。
一番問題に感じるのは、『いじめの被害者は、いじめをなかなか認めない』という臨床心理の世界では広く知られたことがらが、学校教員になかなか認識されていないことだ。私自身書物で学んだ当初は「そんなものかな」少々疑問を持っていた。が、実際のいじめ事件でこれが当てはまる場合を体験し納得した。いじめの被害者は、「これはいじめではない」と自分に言い聞かすことでかろうじて自分を支えている。自分自身でも追う思い込んでいるし、指導に入った教員にも、「これは、私自身も進んで参加している悪ふざけである」というような言い方をする。いじめであると認めたとき、最後の心の支えが折れてしまうからだ。だから、いじめが深刻であるほど、被害者が深く傷つけられていればいるほど、被害者はいじめを心理的に認めない。「私はいじめられている」と被害者が口に出して言えるいじめはまだ軽度なのだ。マスコミで報じられる、学校が気付かぬままある日いじめが原因で生徒が自殺してしまうような事件が起きる原因の一つはここにある。(私は幸いこのような深刻な事例に出会わなかった。ただ幸運だっただけだろう。)教員が一方的にいじめであると認定し被害者が安心できるような処置を始めたとたん、被害者は、今まで仲間だと主張していた加害者に関して、一転その残忍さを堰を切ったように語り始めたりする。
被害者の申告を待っていじめの認定をし、対処を始めたのでは必ず遅れる。このことを、現場の教員にもっと広く周知徹底すべきだ。先項でも書いたが、いじめの認定をするかどうかが問題なのではない。行為の事実そのものを、指導しなくてはならない。
書くのは簡単です。実際いじめが起きたときその処置は大変難しいことはわかっているつもりです。担当教員そして学校がどういう価値観で指導を行っているか、加害生徒、被害生徒、そして周囲の生徒にも納得させられるような処置をしなくてはならない。当然、教員の指導が入ったことで逆にいじめが進行するような事態を防ぎ、被害生徒を守り切らなくてはならない。
いじめが起きてしまったときの対処については、いくらでもテキストがあるので気のついたことを何点かあげるに止めます。
まず、いじめの指導を容易くするかどうかは、普段から学校がどのような指導をしているかと大きく関わる。前項で述べたような、いじめを許さないような価値観を教員、学校が体現していたかどうか。普段成績のよいものや部活動の結果のよいものを極度に優遇し生徒を差別的に扱っているような印象を与えてしまっていたら、ある日突然いじめは許さないと言っても生徒は納得しないだろう。勿論、運動会で一等とったら賞品あげるように、優秀な者を当然褒めるが、一方で全生徒に平等に指導が行き届いていないといけない。学校観競争が激しくなり、「実績」に教員の目が集中するとき、教員がよほど慎重に振る舞わないと、生徒の側は不公平感を募らせる。これではいじめ事件の処理を生徒が受け入れないだろうし、生徒の学校への不公平感はいじめの温床そのものだ。
また、いじめの指導が特にそうなのだが、生徒指導全般これは経験の蓄積以外にたよるものはない。生徒は流動し変化しているといっても生徒である。過去の様々な出来事への対処、成功もあり大きな失敗もあった経験から学ぶこと活用できる事柄は多い。困難な事例であればあるほど、多くの教員の結束が、特に経験を積んだ年配教員との連携が大切になるはずだ。これが、先にも言った「成果主義」に走り、それに向けた体制変革にばかり目がいく現在の学校では難しくなっている。古いものを切り捨て「効率」よく「改革」することが善であるような風潮が多くの学校に見られるのではなかろうか。過去を知らない若手教員が改革の旗手として重視され、年配教員が邪魔になる。結果として、貴重な生徒指導経験の蓄積までもが切り捨てられていく。悪いものは改めなくてはならない。しかし、学校の運用の形の全てに経験の蓄積があり現在の形となった理由がある。(教員が楽をするためずるずるとできあがったものもあるのだが。)生かすべき歴史、経験の蓄積を無視して発展はない。
医者、教員は、同僚をかばう。医療ミス、教育ミスはなかなか表に出ない。これは教員にとって難しい問題だ。長く共に仕事を続けてきた同僚は大切だ。チームプレーでしか学校教育は成り立たない。人数比で二十倍もの生徒を管理し学校を運営できるのは教員の結束があってこそ。その同僚の人生を大きく変えてしまうようなことはしたくない。そういう事態をできる限り回避したい。当然だ。更に、先ほどから述べているように学校観競争の中で学校の評判はできる限り落としたくない。そういったわけで、ミスを出さないようにする心理が教員に働く。一方、人間のやることだから失敗は必ずある。教員の何気ない一言が生徒を深く傷つけてしまう場合もある。緊迫した事態の中で教員が自制心を失う場合もある。生徒は時として教員の予想を超えた行動をとる。いじめも起きる。当然そうならないよう心がけていても。慎重に運転していてもだれでも必ず自動車保険をかけるように、教育ミスは起きる。私も大小様々な失敗を繰り返してきた。そういう必ず起きる教育ミスに対しどう責任をとればよいのか。残念ながら、私に経験からできるような提言はない。
教育のミスは学校の教員集団のシステムの不全として起きる場合と(いじめ等)事故そのものは特定の教員によって起きる場合がある。これらのミスを教員集団全体の問題として認め責任をとり改めていかないと集団の発展がないことは確かだろう。教員個人が起こしたミスの中には明らかにその個人の資質に関わるようなものも含まれる。(よく問題にされる教員の生徒に対するセクハラなど。)このような問題であっても、教員集団の形成の仕方によって防げるのではないだろうか。教員は聖人ではない、普通の人間の集まりだ。まして、いじめ事件は教員集団の在り方に深刻な問題を投げかける。これを集団の問題としてとして受け止められるような組織作りは是非とも必要だろう。学校の評判を落としたくない心理が働く場合、特定の個人にその責任の全てを押しつける傾向はないだろうか。形式的にそのような処置をすれば、組織としての反省は同時に回避されてしまう。
『みんなで一緒に「貧しく」なろう』【齋藤貴男】 14年12月総選挙を前に
自民党優勢の世論調査結果。自民党は「アベノミクス」。当面の経済拡大最優先。これに対し、野党は方法論と冨の再分配について批判するばかりで、経済拡大そのものに疑問を呈する発言は殆ど聞かれない。共産党だって、庶民にもっと冨をよこせと言うに終始している。これでは自民党がまた勝つ。官僚組織と資本家、農業生産者が支持する政党である。経済政策が最も具体的で現実的。実効性がある。自民党の用意した土俵で勝負になるわけがない。
高度経済成長の時代、「もう少し分け前よこせ」との言い分には実効性があった。分け前出せたから。実際庶民も豊かになった。自民党の政策は強固で、かつ目の前で実現して行った。だからこそ批判勢力は批判だけしていればよかった。批判にも現実性があり、ある程度の軌道修正もされてきた。自民党も野党の主張を計算に入れて政策立案してきた。だから、野党も一定の支持を集めることができたし、朝日新聞の書くことにも意味があった。不況と停滞の時代、同じ事繰り返していたら批判勢力から衰退していくのは当たり前だ。
バブルの崩壊、特に90年代後半から、高校生が「左翼」に対する興味を急速に喪失して行ったような感触がある。逆に知的に背伸びをする生徒が「右翼」に興味を示すようになる。そういう流れが当時はよく理解できなかったのだけれども、今時代を見返してみると、「左翼」が支持を失うことと、自民党の政策が実効性を失っていくことは並行して起こって来たように思う。もっと視野を広げれば、資本主義経済の要、米国が、ベトナム戦争終結以降迷走を続けてきた。その後を犬のようにたどり、時に無理難題を押しつけられてきた日本。
停滞の時代、「アベノミクス」だってうまくはいっていない。しかし、飽和状態を迎えた資本主義社会で経済拡大を考えれば、打つ手は新自由主義的政策以外の選択肢が見えない。英国のサッチャー政権米国のレーガン政権誕生以来、資本主義全体がそう動いてきた。経済拡大を前提にする限り、自民党以上の具体的政策は野党に立案できないだろう。
私たちは、有限な空間に有限な資源を抱えて生きている。単純に考えても生産と消費の活動を無限に拡大できるわけがない。科学技術がその壁をある程度越えてくれるだろう期待はある。実際ある程度のことは可能かも知れない。だが、未来の技術を担保に経済拡大を志向するとどうなるか、私たちは強烈に学習する機会を持った。
中国の国民が日本と同水準の国民所得を得ようとすれば、中国の国民総生産は日本の10倍を超さなくてはいけない。世界中の人間が、今の日本並みの暮らしを求めたらどうなるか。限られたこの地球で、資源の争奪戦が起こって当たり前。集団的自衛権に象徴される自民党の外交政策も、「経済の拡大=資源の争奪」の観点からすれば当然の帰結だろう。世界中の国が豊かさを求め経済拡大を続ければ、日本も強力な軍隊を持ち資源確保に向かうことになるだろう。それが唯一現実的な政策だから。
私たちは、見かけの物質的繁栄に見切りをつけるときを迎えている。しかし、環境保護に向けて様々な主張が現れる時代になっても、はっきり経済縮小を主張する言説にはなかなか出会わない。原子力発電所に反対する。それはよいだろう。ではどれだけの規模で消費エネルギーを想定したらよいのか。エネルギー消費を縮小し、経済を後退させよとは殆ど誰も言わない。特に政治家は言わない。
庶民を馬鹿にしないでくれ。我々は金儲けばかり考えているわけではない。若者は競争社会に半ば見切りをつけようとしている。イオンモールが全国の商店街をなぎ倒すのを苦々しく見ている。オリンピック騒ぎにうんざりしている。飛行機より高い運賃払って、「リニア」に誰が乗るか。都会では乗用車を持たない人間が増える。BSで繰り返し放送されるイタリアの農村。近隣の国々とだって、悲惨な戦争するより仲良く資源を分け合う方がよいに決まっている。
1990年代から新自由主義批判を始めた齋藤貴男氏を尊敬する。別ページで述べたように政府の教育政策に対する批判は未だに有効。いや時を経て彼の正しさが認知されることになった。『みんなで一緒に「貧しく」なろう』は2006年の対談集。
美しくしあわせな社会をめざし、ゆっくりと仕組みを作り替えながら撤退しよう。
貧乏しよう。
そういう政治家に一票入れたいのだけれど。
中間総括
このblogに書きとめて8ヶ月が過ぎる。当初教員仕事のノウハウを記録するつもりだったものが、どんどん一般論へ流れていく。書きながら考え、調べながら考えているうちに出発点から随分違うところまで歩いてしまったような気もする。そんな今の全体をざっと俯瞰し記録しておきたいと思う。
教育
教育は、人類が種の存続のため次世代を養育する過程のうち肉体的な養育以外の部分を指す。過去の経験の蓄積と文化的到達地点を次の世代に託する行為である。これはいわば次世代への「贈与」であって、何かと「交換」しうるものではない。かつて、教育は、次世代が共同体の中で大人と共に暮らす過程で自然に与えられるものであった。
近代以前には共同体の生活そのものが内に教育行為を含んでいた。その内容は人類歴史数万年の経験が蓄積されたものである。日本の場合、米作が始まって以来米作に適した地域共同体形成と維持の方法が伝達されていた。
学校教育
社会の発達と共に文字文化を共同体全体で共有する必要が生まれ、そのための便宜的システムとして学校が生まれる。教育行為のうち文字文化の伝達を専門に引き受ける社会機構である。その歴史は世界的に見ても一世紀半程度、経験の浅いものであり、数十人の同一年令集団を単位として授業を行うやり方は暫定的。
また、学校教育は広い意味での教育全体の中に位置づけられてはじめて意味を持つように設計された制度である。例えば、排便処理の能力や母国語の習得は学校教育の受け持ち範囲でない。
学校は人間教育の場でない
学校はあくまで文字文化の伝達機関である。生徒と教員が人間的にかかわることは当然あるが、それは円滑な学校生活をおくるための補助にすぎない。会社の上司だって部下の生活上の面倒を見る。大きな会社にはカウンセラーもいる。それと同じである。
学校は偶然に形成された短期の同一年令集団で、しかも昼間の限られた時間だけ行動を共にする。そのような機構で人間を変えることなどできない。学校生活を通じて人間は変わるかも知れないが、それは学校を含む生活全体を通じてであって学校によってではない。また、特定の教員と生徒の出会いが生徒の人生を劇的に変える場合もあるが、それは社会のどの場面でもあり得る偶然の出会いに過ぎない。
もし学校で人間教育が可能なら、巷に流布する書物で指摘されているような「日本人の欠陥」はとうの昔に克服されているはずではないか。明確な意思表示ができ、民主主義の概念が根付き、契約概念を基礎とした近代的労働者集団が形成されているはず。
教育問題
制度としての学校教育はその発足以来殆ど変わることがない。学校教育に問題があるとすれば、社会が担うべき教育全体と、学校教育との間の不整合による。
産業社会の高度化に伴い、従来教育を担ってきた中間共同体が崩壊を続けている。地域共同体、そしてその構成要素となる家族が大きく変化して教育力を失い、ある部分では内容を変質させた。その結果、予め学校外で修得すべきものを欠いて就学する生徒の比率が増加し、学校教育を困難にしている。その困難は、一世代30年という短いサイクルで再生産される。
いじめ問題などその典型である。昔から似たような関係は子供社会の中に存在したが、従来子供社会内部もしくは子供が属する地域社会の中で処理され、学校で教員がかかわることなど無かった問題である。(その処理が理想的かは別問題で、差別が温存される様な負の側面も必ずある。)
また、教育=学校教育であるかの様な思い込みから、本来の目的である文字文化の伝達を越えて学校教育への期待がふくらみ、子供たちが未成熟であることの責任を学校が負わされている。この結果、学校教員の職務は拡大し、多忙を極めることとなる。
地域教育、家族教育から失われつつあるもの
・コミュニケーション能力
子供は身体的に他者と接することにより相互理解の能力を高める。互いの肉体の面前で言語だけではなくその動作、表情、声、等の全体によって他者を理解し受け入れる。人間は身体的にできている。他者との接触経験の絶対量が不足し、他者を深く理解する能力を欠く子供たちの数が増えている。かつて学校はそのスキルを相互に確認し高め合う場として機能していたが、基礎能力の低下に伴い学校での集団生活が意味をなさなくなりつつある。
・集団行動の規範、倫理意識
かつて日本社会全体を覆っていた農村共同体を基礎とする行動規範、倫理意識が徐々に薄まりつつある。にもかかわらず、それに変わる行動様式が身につけられず、規範意識そのものが希薄化していく。
少なくともたてまえとして存在した利他主義の美学が失われ、利己的な行動が周囲から批判されることもなく本人の後ろめたさもなく前面に出る傾向が強まった。
・言語能力
地域・家庭での相互接触の時間が減り、言語能力そのものが低下しつつある。特に子供集団が失われ、子供同士での自発的会話機会が減少し、その結果、発話能力、論理構築能力、言語理解力などどんどん低下している。語彙そのものが縮小傾向。
・主体的創造的体験
自ら工夫して対処する経験。自分で何かを作ろうとすれば常に起こることだ。別に、もの作りでなくても、主体的生活するとき無限に変化する状況への対応は必須。生活全体が受動的になりつつある。画期的製品で世界をリードしてきたSONYが没落するのも必然か。
・言語文化
口頭伝承として蓄積された言語文化が失われつつある。ことわざ、比喩、たじゃれが通じない。・自然に関する知識
動植物の名前、生態。主に採り方。こんな事近所の兄ちゃんか親に教わったものだ。
・遊び文化
様々な遊び、その技術。工作技術。今、雁皮紙と竹籤のゴム動力機をどれだけの子供が作れるか。
・その他民間伝承全般
振り返ればきりがない。生活習慣、家事、育児など私たちの生活全体について、蓄積され伝承された知識の総体は膨大なものだ。「野生の思考」は何も発展途上国に限定されるものではない。それらの伝承が急速に衰えつつある。それが現在の学校教育を困難にしている基本原因だと考えている。
余談だが、民間伝承の衰退といいながら、インターネットにはこれまた大量の蓄積が始まっている。私たちが子供の頃身につけたもののたいていのことは、ネットのどこかで誰かが書いている。ためしに「みっちゃんみちみち」で検索すると32000件、「襖 張り替え方」513000件。
新自由主義
国家機構の役割を縮小し国民の自由な行動をできる限り保障する。競争原理の承認、一方で構成員の中に必然的に存在する格差は国民の自己責任に帰す。と理解しているがどうだ。
1979年サッチャー政権、1981年レーガン政権の誕生からいわゆる新自由主義経済政策が始まる。日本では、電電公社、専売公社の民営化が1985年、労働者派遣法が86年、国鉄民営化が87年。80年代には日本でも既に新自由主義的政策は始まり、以降96年金融制度改革、00年大店法廃止、03年郵政民営化など、30年間にわたって進められてきた政策。教育政策も、紆余曲折を経ながらも、競争原理の拡大と格差の承認は83年臨教審発足以来一貫して基調をなしている。学校教育への影響で見れば、産業社会の成熟に伴う問題点がより促進されて現れることになる。
集約すれば
・中間共同体の解体と社会的な教育力の低下
・教育目標が文字文化の個人的修得競争に限定
の二点に集約されようか。
社会の変化はゆるやか
労働組合組織率の推移(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3810.html)で見るように大きな事件が起こりながらも社会の基礎構造が変化する速度は緩やかなものだ。組織率が下がったとはいえ、労働組合員が17%いる。一方50年前でも全労働者の半分は組合に加盟していない。生徒や保護者の質的変化も、ある傾向は持ちつつもこのような曲線を描くように思われる。30年以上同じ仕事をしての実感だ。
こんな枠組みで私の仕事を振り返っている。けりをつけて、専門である数学教育についてもう少し考えてみることにしようか。
自主活動としての部活
私の子供の一人が高校時代属した部活動は、顧問が本当に何もしなかった。少なくとも表面的には。部活動の運営は全て生徒による集団運営に委ねられていた。練習の計画を立てる、部員に連絡を取り出席を管理する、大会に登録する、練習場所を巡り他の部活と折衝をする、果ては部活動費を増額しコーチを探し出して謝礼をはらい指導を依頼するまで。全ての運営を生徒が行っていた。そのため大量の時間を使い生徒同士議論を重ねていた。顧問は、生徒が全てお膳立てした書類に署名捺印するだけ。引率など必要なときは形式的に顧問が顔を出したが、ただ居るだけ、逆に生徒についていくだけだったようだ。3年間熱心に活動したが、あげる事のできた結果は当然大したものではない。
この体験を通して得たものは大変大きい。大学に進んだとき、他の学生が幼く見えて仕方がなかったようだ。ゼミでリーダーシップをとり、クラブ活動に精を出し、バイトで金を貯めて留学するなど、大いに有意義な学生生活を送る事ができた。顧問のだらしなさについて、子供は不満をならべていたが、私はこの顧問に感謝している。このような体験こそが、部活動の目的なのだ。
単に顧問がやる気がないだけたったらこのような活動は決して成立しない。高校生が自主的に動くには、膨大な量の情報を学習しなくてはならない。先に挙げた活動内容についても、どうして良いかわからければ、できないことだ。単に手続きの仕方のような知識から、集団運営の方法リーダーシップの取り方、議論の仕方、必要な情報を獲得する方法まで、担当する生徒が身につけなければ自主的な活動は成立しない。さらに、このようにして自主的に活動することの意義を自分自身が評価できるからこそ生徒は積極的に動く。これらのことは指導者の関与なくして決して成立しない。
自主活動がそのクラブの伝統、更に学校全体の伝統なのかもしれない。生徒は自覚せぬままに、呼吸するように自然に自主性を身につけられる学校はある。しかし、伝統を作り維持発展させるためには、教員の指導、必要な情報の提供が是非とも必要である。空気のように学校を覆うには教員集団がその意義を理解し、学校の生徒指導全体にその「香り」がいきわたるのが理想だ。それは教員集団の自覚的努力によってしか達成できない。もちろん、入学してくる生徒の「質」にも大きく規定されていて、必要な労力の差は大きいのも事実だし、事実上不可能な学校もあるだろう。
一つの部活動で自主活動の伝統を作り上げるには何年もかかる。生徒の適性を見計らいながら必要な情報やノウハウを提供し、陰に陽に活動を支え、慎重に活動力を高めていく。こうした指導を続ければ、生徒は交代しながらも徐々に伝統は形成され活動力が育つ。逆に言えば何年か辛抱すればできる。これが部活動指導の魅力でもある。
このような、自主的な部活動は近年数を減らしているように思える。教員自身が部活動の本来の意義を見失っている。歴史的にはまず、自主活動の伝統を守ってきた学校の活動力衰退。自主的に生徒が動く学校の生徒指導はある意味で楽だ。そこで多くの教員が本当に手を抜き、伝統の維持発展のために必要な指導を怠った。自主性の涵養と放任を取り違えている。これは、戦後「民主教育」をリードした労働組合の衰退とも重なる。そして顧問管理型のクラブが当然「結果」を残し主流を占める事になる。
かつて、私が顧問をしていた部活動でも優勝はできないが(私学の選手養成コースのような部活には当然歯が立たない)結構上位に殆ど生徒だけの運営による学校があった。大会会場外で生徒同士が輪になって延々と総括討議をしていたりする。練習試合に行くと、生徒が総出で歓迎してくれるが、顧問は一瞬挨拶に来るだけですぐどこかに行ってしまう。このような学校はこの30年で極端に減ったように思う。「自主運営」による学校もあるが、生徒数も活動力も衰退するばかりに見える。
これは負のスパイラルを生む。高校生の自主活動を本当の意味で体験しない世代が教員になる。「自主的」に活動することの価値を教員が体験として知らない。仕事も上司に言われるがまま。彼らは、生徒もまた教員の言われるがままに動けばよいと思っている。自分がそうしてきたように。
生徒が自主運営する部活動を裏からさりげなく支える仕事は、直接生徒から感謝してもらえない。結果は生徒自身が出したと感じられなければ、自主運営ではないからだ。仕事の手応えが欲しい教員手柄が欲しい教員は、これに耐えられない。主体性の涵養と黒子としての教員のようなある種の理念の実現は、教員相互の精神的支え合いによってはじめて可能になる。労働組合の衰退で、教員社会は理想主義を失い、教員は個人的栄誉を求めて部活動の場でも生徒の自主性を奪う。
学校制度は教育行為の一部に過ぎない
教育は、共同体の存続のため次世代に共同体運営能力を委ねる行為だ。生物の基本行為は種の存続であり、人間は共同体を維持することによってしか種を保存することができない。そのために重ねてきた文化的蓄積を次世代に託すのが教育である。
教育は人類が人間として生き始めると同時に始まり、共同体維持行為の最も重要な部分の一つであ理続ける。昔も今も変わらない。教育の多くの部分は構成する人間個人の生存能力を高めるために費やされるのだろうが、それも共同体そのものの維持に必要だからだ。
人々の生活行為はそのまま教育行為であり、子供たちは共同体の中で生活を共にすることで育つ。必要な全てが伝承される。その中には、次世代を如何に教育するかというこのも当然含まれるだろう。
この共同体の教育行為の中で「学校」は文字文化継承のために当てられた特殊機関にすぎない。文字文化が登場して以来、これを継承していたのは共同体構成員のごく一部だった。近代公教育が登場するまで、文字文化は一対一の徒弟制度のようなものによって伝承されてきたはずだ。近代的な学校教育が始まっても、「学校」の役割は基本的に変わりはしない。「学校」は文字文化伝承のために設けられた特殊機関であり、人間が行う教育行為の一部を担うに過ぎない。
現在においても、人が成人するまでに身につける事柄のうち、学校によって身につけることの割合はどれくらいだろう。誰かちゃんと調べた人はいるはずだが。 出生直後の母親の話しかけから教育は始まっている。言語を獲得し、身体能力を獲得し、社会生活の基本を獲得するのは三才までの幼児教育だ。ここで獲得され身につけられる情報量は膨大なものだ。自分で子供を育ててみて(といっても多くを連れ合いと両親に依存していたのだけれど)良くわかる。例えば、子供が衣服を身につけボタンをかけられるようになるだけでどれだけのトレーニングが必要か。排便を学び、直立歩行を学び言語を獲得するための学習量はいかほどの物か。その言語を用いて更に学習が進む。生活習慣を身につけ、自分と他者を理解する。これが三歳までにある程度できるようになる。現代社会においてすら、教育のうちに学校教育の占める割合はそれ程多くないと考えてよいのではないか。大体、小学校で習ったことの多くを我々は忘れている。身に付いていない。小学校理科の教科書を読み返してみるとよい。再発見することがどれほど多いか。他方、年長者を含む子供集団で付近の里山を歩き回り得た様々な知識は、今でも不思議なほど身に付いている。
こう考えないと教育を巡る問題に正しく接近できない。今教育に問題があるとすると、「学校教育」よりも、その外側で行われるべき共同体の教育行為を検証する必要があるのではないか。なぜなら、「学校」は制度化され固定されているので、今も昔もそれ程変わったことをやっていないからだ。(よい意味でも悪い意味でも。)しかし、学校外の社会、学校外での子供の育ち方は戦後70年を見ただけでも大きく変化してしまった。 人類始まって以来行われてきた共同体が次世代に対して行うべき教育行為が、急速に消失しつつある。周囲の大人や様々な年齢層の子供たちと(家族、親族、地域社会の)生活を共にし会話を交わす体験が失われつつある。
虐待など育児に関するトラブルが絶え間なく報道されている。育児の方法を学校は教えてくれない。(家庭科でごく少量やる?)育児は、人間一人にすれば一生のうち一回しか体験できないことだ。体験から学ぶことはできない。子供が成人するとき初めて結果がわかるのだから。生命を維持し体を育てると同時に前述のように膨大な情報量を含む幼児教育を施さなくてはならない。大変な行為である。拘束時間が多くかつ膨大な「知識」を必要とする。決して学校教育で教えられるようなものでない。これがなぜできるかと言えば、小さいときから成人するまで周囲の親の子育てを様々な角度で見てきたから、そして周囲の経験者が絶えず見守り手助けしてくれるから。文化的伝承の中でしか育児はできない。子育て、幼児教育は親を中心としながらも、共同体による集団的行為であったはずだ。二重の意味で喪失が起きようとしている。子育ての行為が失われ、同時に子育ての文化的伝承行為が失われる。
現代社会では、教育とは学校教育であるような錯覚がまかり通っている。子供たちに欠けたものがあれば学校教育で補おうとする。しかし、従来社会が行ってきた半ば無自覚の教育行為を現在の学校制度で補うことはとうてい無理な話だ。繰り返すが、現在の学校は文字文化の伝承を目的とした特殊教育機関にすぎない。学校教育を覆う社会教育があってこそ、その一部として成立し生かされるものなのだ。
全ての子供が一律に集団教育を受ける、現在の学校制度自身、長い人類史の中で教育行為の歴史の中で極めて経験の浅い制度である。かつて私が担任した生徒に、全校朝礼に臨んで「千人が同時に同じ事をやるのは異常だ」と言い放ち学校をやめて行って者がいる。これは今思えば極めて健全な感覚であったように思う。他項で述べた、村上春樹のメッセージも正しい。学校制度自身工夫と変革の余地はいくらでもあるはずだ。なくては困る。特に、社会の変化と学校制度が齟齬をきたしているとき学校制度の根本的な再考が求められている。
当面考えられるのは、急速に変化する社会の中で学校がその体面を維持するための「しのぎ」の術。ちまたに溢れる教育論の大半はこの「しのぎ」にすぎない。現行制度でしのぎながら、社会と学校について、具体的に実現可能な変革を模索する、21世紀前半はそういう時代になると思う。
伝統的な教育行為を社会の中である程度維持している「発展途上」国の人間は強い。グローバリズムにうかれ、ネオリベラリズムに席巻された「先進」国は、自己変革ができないならば、その人間的教育力の格差により「発展途上」国の文化に圧倒される日が来るかも知れない。急進派のテロリズムばかりが目立つが、イスラム文化は世界的に支持者を拡げている。これも一つの兆しではないかと思ったりする。
タブレット端末への期待
朝日新聞にタブレットコンピュータと教育についての3人の論考が出ていた。(14.8.23)
タブレットはとてつもない機械であることは間違いない。私が思いつくその機能を列挙してみる。
◆電子辞書
ここ数年で、電子辞書はかつての電子手帳と同じ運命をたどるだろう。既に、学校に紙の辞書を持参する生徒は殆どいない。(だろう。全国調査したわけではないから。)電子辞書は広く普及している。価格を維持する高機能型には、数十種類の辞書のほかおまけとして数多くの受験参考書が組み込まれている。一方辞書機能に特化した物はどんどん安価になる。しかし、スマホにかなわない。スマホ買えば、それに安価なアプリを追加するだけで辞書になる。2つ持つのは不合理だから、電子辞書を買わない生徒が増えている。学校は携帯の授業中使用を禁止している。持ち込みを禁止している学校もあるだろう。そこで、スマホに組み込まれた辞書は悩ましい問題になる。
タブレットの普及は、電子辞書の衰退に追い打ちをかけるだろう。紙辞書のように記述の全体を見回すことが可能になり、反電子辞書派も反論ができなくなる。更に、様々な電子辞書の検索機能は紙辞書では実現できないことをやってのける。例えば、同一の語幹、同一の語尾を検索する機能は単語学習を効率化するだろう。その上、テキストとのリンクが可能になり、テキストをタッチすれば辞書ウィンドウがひらいて、意味を調べた上で発音を確認できたりする。
◆電子書籍
既に、使用教科書の全てをタブレットに組み込み、教科書を持ち歩かない学校があると聞く。高等学校3年間で使用する教科書全てを電子データ化してタブレットに組み込むことは、タブレットの機能からすればたやすいことだ。その上に大学受験に必要な参考書や問題集の全ても余裕で組み込める。そして紙ではできない機能を数多く付加できる。図版は大型で美しくできるだろうし、動画付きの教科書だって可能だ。家庭科の教科書には、魚の捌き方が動画で出ていたりすると楽しい。英語のテキストは全て音声をリンクできるだろう。先述のように、テキストは全て辞書とリンク可能だ。更に、同一書籍内部や書籍相互のリンクを設定できるから、例えば数学の教科書は問題集の対応問題にリンクし、問題は模範解答集とリンクできる。問題集の[ヒント]をタッチすると、教科書の対応ページにジャンプするような機能の組み込みも簡単だ。教科書と問題集と模範解答を机の上にならべて勉強するかわりに、机の上にタブレットがあればよい。
高校生向けの推薦図書など殆ど電子化されているから、簡単に手にはいる。国語の教科書に出てきた作家について、他の作品を紹介する。英文に接する機会を増やすために、英文の絵本やファンタジーなどを提供することもたやすい。
◆高機能関数電卓
英国では機能を統一した関数電卓を数学を学ぶ生徒全員に購入させる。教科書も関数電卓で処理する頁があり、試験でも関数電卓を使用する問題がある。タブレットは高機能関数電卓として使用できる。現在のスマホでも無料アプリとして関数電卓がついてくる。iPhoneでは縦にすると普通の電卓だがこれを横にすると関数電卓になる。英国の高校生が購入する関数電卓(メーカーはカシオだった!)と同程度の機能を持ち三角関数や指数対数関数の計算が可能になる。タブレットも同様で高校までで出てくるあらゆる数値計算を処理できる。更にあらゆる関数の描画・グラフ化が可能。かつては、高級関数電卓だけがグラフ描画機能を持っていた。空間図形を描いて、自由に視点を移動させたりすることは、人手では決してできなかったことだ。更に、数式処理ソフトも安価で手にはいる。およそ高校生までに学ぶあらゆる数式処理がタブレットで可能だ。因数分解や展開は当然。解ける代数方程式は全て解く。分数、累乗根、虚数を組み合わせた代数的解を瞬時に示す。教員でも頭を抱える複雑な積分も一瞬。しかもそれが雑誌一冊の大きさで手軽に持ち運べる。タブレットを全員が持っていることを前提としたとき、数学教育は変わらざるを得ないだろう。理系の技術者として仕事をしていても、計算処理はタブレットに任すことができるのだから。
◆小型PC
ワープロ、表計算、画像処理などPCにできることはすべてできる。テキスト入力に専念するときはキーボードを付加すればよい。教育ソフトも同様で、個別学習機器としての機能を果たす。コンピューター室で行っていたことが、普通教室で、自宅で、通学途中の電車の中で可能になる。
◆ネットワーク端末
教室に無線LAN機能を用意すれば、これまでコンピュータ室でしかできなかったPCネットワークを利用した授業や、LL教室で行っていた音声教育などをタブレットは簡単に代行する。問題を解かせてその結果を教員が集計したり、誰かの解答を全員に提示したりできる。アンケート調査もできるしクラス討議の投票も、生徒委員の選挙もできる。ソフトさえあれば。
また、学校では結構たくさんの配布プリントがある。授業の参考プリントから、様々な案内プリントまで、書込用でない物はすべて電子的に配布できるだろう。それも必要な生徒だけ選択的に配布できたりもする。学校は膨大な紙を消費する。多いに節約できるはずだ。更に各種申込や生徒提出書類、この集約は担任にとって結構手間な仕事なのだけれど、かなりの部分電子化できるはずだ。ソフトさえあれば。
既に多くの大学の授業がそうであるように、板書がパワーポイントに変われば、パワーポイントのデータを取得すればノートをとらなくてすむ。黒板の手書き文字を電子化する電子黒板もあって、生徒はノート取りから解放され授業を聞くことに集中できる。?
◆インターネット端末
PC同様インターネットサービスを享受できる。調査して、レポート作成する等PC室でしかできなかった事が教室で、自宅で可能になる。
教育で注目されているのが動画配信。タブレットを全生徒が保有すれば授業を自宅で受けられる。話題の反転授業。授業は宿題として自宅で、学校では発表と討論なのだそうだ。授業も、別に担当の先生でなくてよい。有名大学の先生でもよい。現在教科書を採択すると、教科書のサービスとして、全てのテキストの電子データー、定期試験用問題サンプルの電子データ、更にパワーポイントを用いた授業用の板書データまでついてきたりする。そのうち法定時数分の授業動画が附属する時代が来るかも知れない。全国の生徒が同じ先生の動画で勉強する時代が来るか。既に有名予備校では動画配信授業が一般化している。世界中の多くの大学が講義の動画配信を行っている。全国にたくさんの姉妹校を抱える巨大私立など動画配信同一授業は簡単に実現できるだろう。全国から授業の上手い教員を選び出し、動画配信に専念する体制を作ればよい。また、通信制高校、通信制大学などもタブレットの普及により更に広がるだろう。何時でも何所でも授業が受けられる。
◆デジタルカメラ、ビデオカメラ、音楽演奏、動画再生、メトロノーム、ストップウォッチ
実験、自然観察、フィールドワークの報告などリアルな物が作れそうだ。遠足、研修旅行のリアルタイムレポートも作れる。
体育の時間には模範演技を動画で見せる。跳び箱飛んでる様子を各個人に配布する。音楽鑑賞もタブレットで。実技演奏も収録して各個人に配布。タブレットアプリのメトロノームは高性能で見やすい聞きやすい、電子チューナー(調律器)もタブレットで代用できる。
運動部でも、一流プレーヤーのフォームをスマホやタブレットで学び、自分のプレーをタブレットで撮影確認する事は既に始まっている。野球のスコアブックも画面タッチだけで簡単につけられる時代だ。陸上で複数の選手が周回しているラップを1人で集計したりもできるだろう。
要するに、アプリケーションを組み込むことで様々な機械に変身する機械なのだ。
◆センサーの活用
タブレットやスマホには3軸加速度センサーが組み込まれており、時系列でデータを取り出すアプリもある。上方に放り投げてみるだけで結構面白い。物理では様々な実験ができるはずで、すでに、授業研究としてインターネット上に発表されている。台車にタブレット取り付けて斜面を走らせ、結果を見る。超高層ビルのエレベーターにタブレットもって乗り込み加速度の推移を計測したり、旅客機離陸の際の加速度を測定したり、今まで殆ど不可能だったことができるようになった。機器を付加すれば、速度、温度、PHなど実験データを時系列でとりだし、グラフ化したり計算処理したり、高度なデジタル計測が手軽にできるようになる。
タブレットのセンサー機能を最大限生かしたアプリとして感心したのは、星座早見盤。タブレットを空にかざせばその方向にその日その時見える星座が示される。現在地の緯度経度がわかり、現在の日付時刻がわかり、タブレットが向いている方位と地表に対する角度がわかって初めてできることだ。
思いつくところを列挙してみただけでこれだけ書けるが、まだまだ未知の可能性がある。例えば現在急速に進歩しつつある音声認識技術。既に話しかけに応答するスマホがある。話しかけるだけで機器が操作できれば教育機器としての可能性は随分広がる。でもこれでいいのだろうか。