用事ができて、急に旅行をしなくてはならなくなった。慌てて荷造りし、村上春樹訳ロング・グッドバイを鞄に突っ込んで家を出る。これだったらゆっくり時間を潰せる。何回目かの読み返し。これまでと違うのは昨年 The Great Gatsby を英語のトレーニングのつもりで苦労して読んだこと。このあとでもう一度、ロング・グッドバイに目を通すと村上が解説で指摘していることがよくわかる。同じ話だ。美しいが薄情な女に献身する男の美学。
様々な男達が出てきて、その描きわけは面白いのだが登場する女性は平板だ。ただ暮らしているけれど仕事もしていない。花瓶に生けられた花のようにただ存在する、その女を巡る男の物語。むしろ積極的に女の愚かしさを語っていると読めなくもない。アメリカ映画はどれをとっても女性蔑視映画だと内田樹先生がおっしゃっていた。西部開拓時代、その前線では女性は圧倒的に少人数だった、というような説明をされていたように思う。でも根っこはもう少し別の場所に在るように思う
アメリカ合衆国は建国約二百四十年、歴史の浅い国だ。築二百年の建物は歴史的建造物。封建的な地域共同体が熟成することなく、急速に資本主義化されてしまった。恐らく封建的な共同体の残滓が存在しないことが、資本主義国アメリカ合衆国の強さの秘密なのだろう。ところが、残念ながら女性が最も女性らしく生きられる場は共同体の中にあるのではないかと思うのだ。
大都会の下町、農村、漁村で目に付くのはおばちゃんの元気良さ。地域コミュニティーで、人々をつなぎ合わせコミュニティーとしての器を形成しているのは女性のネットワークだ。横の人間関係を作る能力は、どう見ても女性の方が優れている。親族関係の絆も表向き父系性のように見えて実際には女性のつながりを起点に作られていくのはよく知られた事実だ。男は、表面で活躍しているように見えて、実は女性が用意した共同体の器の中を泳がされているに過ぎないのかも知れない。女性が最も生き生きしているのは、共同体が形成する人間関係の中で自尊心を育てた時だと思う。それを私たちは『おばちゃん』と言う。
人々が市場原理で分断された場で、伝統的で親密なコミュニティーの存在しない場で女性がその本来の力を発揮することができないでいるのが、アメリカ社会なのではないだろうか。アメリカの女性解放運動がもう一つ魅力を欠くのは、女性に男性と同じように振る舞う権利を与えているに過ぎないからだ。結果的には労働市場で売り手が増大し、労働者の競争を寄り強める役割を女性解放運動が果たしてしまう。現在のアメリカ映画に出てくる女性は、男勝りの有能な人間と部屋に飾られた花のようなただ存在するだけの女性の二通り。どちらにしろ、男の価値観だ。男の価値観で男と同じ仕事ができるか男の価値観で女として可愛い。本当のおばちゃんになかなか出会わない。こんな国を「先進国」と思い込み、戦後70年アメリカ社会に追いつくことを目標に努力してきた。なんて恐ろしいことだろう。
こういうことを言うのには理由がある。僕の属していた職場では、女子生徒を特にクラスの中心となりうる女子を『おばさんタイプ』と『お姫様タイプ』に分類していた。『おばさんタイプ』とは前述のように伝統的共同体の中で自尊心を高めてきた、もしくはそういう行動原理を身につけて育った女子。それに対し『お姫様タイプ』とは、現代社会の一般的基準で高い評価を得ることで自尊心を高めてきたタイプ。「美人」で「成績がよい」さらによく本を読んでいたりピアノが上手だったりする。こんなネーミングが生まれた理由は、単純だ。『おばさんタイプ』が少なくとも一人、できれば複数名存在すると、そのクラスの運営が大変に楽だからだ。やんちゃな男子生徒が一番弱いのが『おばさんタイプ』、学校長の言うことすら聞けない生徒でも、むいしろそういう生徒ほど『おばさん』に弱い。男女を問わずクラスの中に親密な人間関係ができあがり派閥争いやその他のトラブルも自然に調整されていく。中心には『おばさん』がいる。また他の女子もそのスキルを学んで少しずつ『おばさん』化していく。個性的な『おばさん』に恵まれたクラスは、楽しい思い出が多い。また、生徒の親の中に『おばさん』がいて、多くの生徒がお世話になりその『おばさん』の家が生徒の溜まり場になっていたことでクラスの生徒が親密になった場合も多い。逆に苦労したクラスを思い出してみると『おばさん』がいなかった。対して、『お姫様』は居てもクラス運営上何の助けにもならない。どころか人間関係を複雑にもつれさせる原因を作ったりする場合が多い。
お姫様より、おばさんを育てる教育を。お姫様より、おばさんが育つ社会を。これが、女性解放の道であり、新自由主義に抗する道であろうと思う。内田樹先生、おじさん的思考の続編「おばさん的思考」を書いて下さい。
ロング・グッドバイを再読して、こんなことを考えた。
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河合隼雄
著作集の刊行が始まったのが今調べてみると94年。ふとしたきっかけでこれを手にしてから、既刊を読みあさり、未刊の発行を待っていたからこの書物に出会ったのは95年くらいだろうか。教員として15年の経験を経た頃であった。学生時代ユング心理学を少々学んだがさっぱりわからなかった。教員の経験を経て年令も40代になってみると、これが良くわかるのだ。
我々教員特に高等学校教員は必要な教科の単位を揃え簡単な教科教育法の授業を受け、短期間の教育実習さえすれば免許を得る事ができた。現在は少し違う様だが。特に生徒指導については殆ど学ぶ事がなかった。実際に教員となって四苦八苦するのだが、それこそ自分のわずかな人生経験と先輩の助言による出たとこ勝負。現場で学ぶ以外方法がなかった。生徒を犠牲にして技量を貯えていくことになった。そこで河合隼雄に出会う。人の心を理解するにあたって新しい視点、多くの具体的知識を得る事ができた。心から感謝いている。クラス担任としての仕事、生徒の理解にそれまでにはなかったある種の幅を得る事ができたと思っている。当時、過去の事例を思い出して、もう少し早く学んでおけばよかったと悔やんだものだ。
そうでなくても、中年になって読むと面白い。日本文学の理解、世界の児童文学の理解もその独特の視点が面白く引き込まれる。自分自身の「中年、老年」を受け入れる意味でも大いに助けになったし、文学の紹介本としても読書の幅を拡げてる事ができた。子供に読み聞かせ、与える本についてもお世話になった。
河合隼雄は劇薬である。物事を体系的に説明しようとする優れた書物、マルクスとかフロイトが極端にそうであるように、彼の著作も強烈な吸引力がある。程よい距離をおいて理性的に読み解くのがむつかしい。臨床心理にかぶれた教員が全国に現れる。彼の仕事について、絶賛する人と全面的に否定する人に極端に似分解してしまうのもそのせいではないかと思う。彼と個人的に面識のあった人間を何人か知っているが、人物評価もまた極端に二分解する。西欧的な自立心を身につけ、その上大変に賢い人だから人生でも自分の思う様に生きたようだ。周囲が彼の繰り出す論理に正面から反論するのは大変難しかったのだろう。
90年代後半からの彼の著作を読むと「これがなかなか受け入れてもらえない」等、彼のかんがえを伝える事の難しさを語る様になる。彼が提唱し、社会的にも組織化してきた臨床心理学は彼の死後発展しているようには思えない。彼の仕事を発展させる様な人物があらわれない。本屋の棚を見ればわかる。未だに河合隼雄なのだ。悪い言い方をすれば教祖様の死んだ後の新興宗教。彼の臨床心理学は、河合隼雄という人物とセットになってはじめて成立していた、臨床心理学=河合隼雄 かもしれない。
同僚の中にも極端にとりつかれた教員がいた。生徒の行動全てを臨床心理学の公式で理解しようとする。そうすると生徒独自の個性、特殊な状況がどんどん見落とされてしまう。まして安易に「カウンセリング」に手を出すのは大変危険。聞きかじった知識で素人が外科手術をするようなものだ。悩み事相談はする。生徒の話に耳を傾けるのは教員のたいせつな仕事のうちだ。しかしこじれた家族関係を何年もかけて解きほぐすようなことは、教員には力量としても時間的余裕としてもできはしない。ここでも、できる範囲を見極める事、手に負えないときはすぐ的確な専門家を紹介する事、これが教員に必要な技量だろう。擦り傷の手当はしても、骨折したら外科医に連れて行く以外方法がないのだ。
彼の著作は「こんな見方もある」程度の距離をもって接するに限る。神社で引くお神籤のようなものとして扱うとちょうど良い。通常とても気付かない視点を示してくれる。これがずいぶんと助けになる。
彼の基本理論の一つが「母性原理」「父性原理」の二項対立なのだが(二項対立はユングの基本概念で、生と死、陰と陽、・・・)これが、彼自身が言う様に理解されない。「父性原理」とは西欧的な個人主義の原理を指すのだが、日本人には上手くイメージできない。言葉としては理解できても、体でわからない。彼が書いている様に、日本で小学校から留年制度・飛び級制度を導入する事はとうてい無理だ。かつて「父性原理」を口癖にする同僚がいたが、そのスローガンのもと河合隼雄が「母性的」なものの典型として扱っていた旧日本陸軍の様な「厳しい」生徒管理を目指していた。冗談の様な話である。
具体的には子供の問題行動を抑える場面で、ひろくは画一化された教育を改善するために、彼は「父性原理」の必要を繰り返し語ってきた。日本社会はますます「母性原理」一辺倒に流れていく。このブログで私が繰り返し語ることになる「面倒見」至上主義・成果主義は、言葉を換えれば「母性原理」だ。政治の世界では、領土問題、憲法改定。(彼自身、愛国教育を基本に据えた政府刊行の道徳教育冊子の編纂をし、長く文化庁長官をつとめた。)彼の著作を学びながら、彼の限界点を越えて行かなくては「母性原理」の横行は食い止められない。
教員は河合隼雄を読もう。ただし中毒には気をつけて。
ダイアモンド
ジャレド・ダイアモンド Jared Diamond
『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎』2000年日本語訳刊
『文明崩壊――滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年日本語訳刊
『昨日までの世界――文明の源流と人類の未来』2013年日本語訳刊
等の著者。独自の視点で現代社会の危機に警鐘を鳴らす。他の著作を含め大変面白いのだが、特に『文明崩壊』は説得力がある。過去崩壊した文明の原因を探りながら、今世界が一つになって崩壊の道を歩んでいる事を教えてくれる。実に念入りな論理展開で、読み終わると背筋が寒くなる。 単行本で上下900頁にのぼる書物だが、飽きることなく一気に読んでしまった。
「何年先を見越して共同体の利益を考えたか」「何年先を見越す事ができたか」が文明の存続と崩壊を決定づけるポイントなのだ。(遠い将来を見越して共同体の存続を図った希有の例として江戸幕府の森林政策が挙げれれている。現在の日本が世界中で行っている森林伐採についてはボロクソ批判されているのだが。)『見えざる手』はウソだ。市場を構成するそれぞれが最大利益を追求しあえば、市場は最良の結果を与えるはずだった。現在の「グローバリズム」推奨者も基本この立場だ。しかし時間軸をとって、どれだけ先までを見越して最大利益を追求しているかはこの論理ですっかり抜け落ちている。1年先の利益と10年先の利益は必ずしも一致しない。我々は原発でそれを思い知らされた。(ちなみに、ダイアモンドは原発推進派である。地球温暖化防止のためには原発必要と考えている様だ。)株式市場では、1秒先の利益を巡りコンピュータが取引をしている。我が国の政治家は、何先を見越して政策立案をしているか。国民に何年先の未来を提示しているか。繰り返し起きる「異常気象」をもっと深刻に受け止めるべきなのだ。ダイアモンドは「とおく先を見よ」と言う。増加し続ける人口と経済拡大の結果として増大する資源とエネルギー消費を見れば、遠くない将来地球環境は破局を迎える可能性がある。
論理の展開は、驚くべき広がりを持つ。文理問わず現行の学問分野の恐らくあらゆる領域を覆い尽くして議論が展開される。巻末に附加されたブックリストの量だけでも圧倒される。その意味では、これから将来の進路を定めようとする高校生、特に大学で何を学ぶか考えている高校生に是非読んでもらいたい書物だ。学問のヒントに満ちあふれている。調査研究が単なる知識の集積に終わらない事を鮮やかに教えてくれる。本物の知性に触れる機会として絶好。
彼の書物が持つ気持ちの良さは、他の文献に依拠して語る事が一切ない事だ。日本人の書く書物を読むと、欧米思想家の引用が絶えないことにうんざりする事が多い。カードゲームの様に知識を競う。日本だけではなく翻訳書の中にもその傾向の書物はいくらでもある。彼の書物は前記のように膨大な資料を参照しながら書かれているのだが、論理の展開はあくまで彼自身の言葉で書かれている。××イズムを批判する事で自分の立場を語るようなこともない。あの文献量から見て、日本の学者が良く引用する様な古今の有名書物に目を通していないがずはない。けれどそれが決して表には出てこない。日本の評論家は困るでしょうね。分類して批評することができないから。文献解釈を巡って異を唱える事ができないから。
そして、生産性。本業は鳥類学者だ。フィールドワークを重ねたニューギニアが彼の発想の原点にある。その傍ら、数百の文献を駆使した千頁に及ぶ書物を数年に一冊の割合で書き続ける。インタビュー集『知の逆転』(NHK出版新書)の冒頭に彼が登場するのだが、本に書いてある事改めて聞き直すようなことするよりも、彼の知的生産性の秘密を探って欲しかったな。
教壇に立つ教員は、『文明崩壊』を基礎教養としてほしい。
これから大学進学を目指す高校生は『文明崩壊』をこれからの学びのガイドマップとしてほしい。
高校野球の過剰報道
数十年来思ってきたことを書く。単なる不平不満である。
マスコミの高校野球過剰報道は目に余る。年を追ってひどくなる。テレビでは地方大会1回戦から試合を流す。新聞も地方版では各試合詳細に報道する。
過剰だ。なぜ地方大会1回戦から新聞には全チームの紹介が載り、結果はニュース報道されるのか。試合が進むとテレビ中継が入る。甲子園ともなれば全てのテレビニュースが結果を報道し、全試合中継する局が、NHK・テレビ朝日2局もある。新聞紙面もプロ野球もしくはそれ以上の紙面を割く。この過剰な報道に、教育的配慮のかけらも感じられない。この過剰さが、多くの問題を生む。対象は高等学校の生徒、15才から18才の未成年、(その上男子だけ)彼らの名前が新聞を賑わし、テレビカメラに晒される。多感な高校生をどれだけ刺激するのかわかっているだろうか。そして、保護者をどれだけおかしくするか。高等学校は教育機関である。その名前が繰り返し新聞に登場し、テレビで連呼される。高等学校、特に私立校にとって、これは経済効果お金の問題になり、学校運営をおかしくする。新設私立高校が効率の良い宣伝方法として、硬式野球部を利用していることを皆知っている。甲子園出場請負監督が、全国を渡り歩いていることを知っている。甲子園出場したい学校は、全国から選手を集めている。甲子園に行きたい中学生は全国の「強豪校」から目をかけてもらうため必死だ。少年野球監督と高校野球監督の間に人脈ができあがり、太い人脈を持った監督の下に優秀な中学生が集まる。これが健全なスポーツか。
私の勤務校で野球が比較的強かった頃、硬式野球部の生徒が授業中変なことをしている。問い糾すと、サインのデザインを考えその練習しているのだという。高校野球はこういう生徒を作る。野球の強い学校は、バトントワリングも盛んだ。女子生徒が数多く参加する。テレビに映るチャンスがあるのだから。吹奏楽は悲惨だ。コンクールと日程が重なる。広い野球場で楽器を鳴らすとコンサートホール用の音が壊れる。柔道の応援にブラスバンドはつかないが、なぜか野球の応援にブラスバンドはかり出される。これは考えてみればそれ程当たり前のことでない。
不公平だ。報道が硬式野球だけに偏っている。インターハイは毎年8月開催される。およそ30種類の競技種目がある。硬式野球のようなインターハイ以外の全国大会も更に10近くある。部活動過熱の問題、インターハイ自体にも言いたいことは山とあるが、おいておく。これらの競技の報道に関する公平さを配慮している者がいない。新聞紙面の面積でも、インターハイ報道全体よりも高校野球の方が広い。全国決勝戦ですらフルタイムで中継される競技がどれだけあるだろうか。新聞報道で紙面の面積は公平か。「なぎなた」をやっている高校生と「硬式野球」やっている高校生では確かに人数が違うだろう。せめて、競技人口に比例した紙面配分ぐらい心がけてもよくないだろうか。少なくとも、それに近づける努力をしているだろうか。全国大会に出場すること、そして優勝することは大変だ。マイナーな競技は数校で試合して勝てば全国行ける競技も確かにある。しかし、硬式野球と同様のエネルギーをさいてトレーニングに励む高校生は、硬式野球選手総数の十倍以上いる。さらに、文化部を含めた高校生部活動全体を視野に入れたらどうなるか。
全ての高校生体育競技に関して硬式野球と同じだけの報道をすると、8月前半のテレビ番組は全て高校生スポーツの中継で埋まり、新聞は30面以上高校生スポーツに当てることになりそうだ。昨日の新聞で地方版で2面、全国版で2面高校野球が占めていたのだから。
これらのことに無自覚なマスコミが、教育問題に関して偉そうな報道をしていることに腹が立つ。詰め込み教育、競争を煽る教育、いじめを隠蔽する教育、高校野球を過剰報道するマスコミにこれら教育の現状を批判する資格はない。
これらの過剰な騒ぎが高等学校野球部にどんな影響を与えるか。
練習時間。甲子園出場レベルのチームが年間どれくらい練習しているか。始業前の朝練習。放課後の練習。恐らくたいていはその後個人練習。私の所属していた学校からの推測でしか言えないが、ハイシーズンには一日平均7時間以上野球の練習をしている高校生は全国いくらでもいるはずだ。オフシーズンには量は減るとしても完全休息日は年間十日あるだろうか。さらに、年数回の合宿は欠かせないし、他に強くなるためには練習試合が欠かせない。それも全国の強豪校を相手に練習を重ねる。年に何度も地方遠征を行い、一度移動したらまとめて何校かその地方のなるべく強い学校と練習試合をする。一年に何回も修学旅行と同程度の旅行をし時間と金を使っている。これは、野球に限ったことではないのだけれど。
お金。甲子園出場目指して本気で取り組んでいる野球部で、選手1人あたりどれくらいのお金を負担しているか。かつての勤務校で、私立高校の学費と同程度の額を野球部に使うと保護者から聞いたことがある。用具も馬鹿にならない。ボールも練習時間が長ければ大量に消費する。練習設備も更新したい。専用グラウンド、雨天練習場、ピッチングマシン、・・・・。これも不思議なことだが、テレビ局はおよそ高校スポーツからかけ離れた豪華な設備を、学校紹介で写して平気である。全員寮生活の学校もある。24時間365日野球のために管理された生活をおくる。お金が続かなくて硬式野球やめた生徒を知っている。
甲子園など行ったらどうなるか。スタンドを埋め尽くす応援団は、阪神の試合とは違って、学校が準備しお願いして来ていただく応援団である。数千人の応援団を兵庫県まで派遣する。一台に50人で観光バス50台以上。甲子園出場が決まって寄付を募ってもそんなに急に集まるものでない。地方によって学校によって事情は違うだろうけど。出場選手の親が自腹を切ってバスをチャーターしたりする。交通費だけではない。応援に来ていただいた方の食費。日程や勝敗によっては宿泊費も。応援はテレビに映る。派手な応援をさも素晴らしいことであるかのようにアナウンサーが語る。高校生のスポーツからかけ離れた異様な姿であるにもかかわらず。みすぼらしいことはできない。甲子園出場選手の保護者が百万以上のお金をつぎ込んだ話を実際に聞いた。子供が甲子園で勝ち進んだため応援費用がかさみ、家が破産してしまったという噂も聞いたことがある。
全ての競技スポーツは原理的に結果至上主義であり、序列化の承認であり、競争である。当たり前だ。更に言うなら、点数化し序列化する全ての行為、「××コンクール」今流行の「○○甲子園」、にしてもそうだ。子供たちに、全ての行為に順序づけが可能なことを教え、他人を打ち負かす事の価値を教え、そのために自己犠牲的に努力することを教える。競争・順序付け・選抜は、現代社会で避けて通ることができない。全ての職業をくじ引きで選ぶわけにはいかないのだから。その社会の中で、学校教育は来るべき社会を目指し理想を語り実現しようとする場であってほしい。理想主義が尊ばれる場である。ここでも競争・順序付け・選抜は、避けることはできない。その負の側面をしっかり見つめさせ、競争が何を損なうのかを同時に教える必要がある。その現場に圧倒的な力を持って、競争原理礼賛・結果至上主義が持ちもまれる。天下の朝日新聞に自覚はあるのか。自ら高校野球のゆがみについて連載記事でも書いてみたらどうだ。
教育をこれだけぶち壊しておいて、「青少年の健全育成」とか「郷土意識の高揚」とか理屈をつけないでほしい。高校野球の報道は儲かると、せめて正直に語れ。
ブログを作ったついでの鬱憤晴らしでした。
中年の生きづらさ-ドッグショー(2)
かって母親は忙しかった。私の幼年期、一九五〇年代後半、いわゆる家電は殆どなかった。母は朝早起きして、火口一つの石油コンロで順に米を炊き汁を作り父の弁当を作る。冬は火鉢の火を起こしそこで湯を沸かす。皆が起きたら、布団をたたんで押し入れへ、そうしないと生活空間がない。朝食が済めば冷たい水道で食器洗い。風呂の残り湯使ってたらいで洗濯、手で絞り物干し竿へ干す。箒とハタキで屋内掃除。屋外の清掃と庭の手入れ。家は狭かったが庭は田舎で広かった。冷蔵庫ないから殆ど毎日買い物。服の繕い、制作。夕方、再び米を炊き夕食準備。その合間に石炭くべて風呂を沸かす。母親は丸一日働いていた。父の側から見ても、その働きは、仕事をするためにどうしても必要な事だった。夫婦共に丸一日働いて、ようやく生活が成り立っていた。だから、独身サラリーマンは実家に住むか、もしくは賄い付きの下宿で暮らしていた。
思い返してみると、今の専業主婦がどれだけ楽な生活をしているかがわかる。更に、今や主婦の働きがなくても、仕事をして生活を継続できる時代だ。こうして中年女性が宙に浮く。
さらに、今の中年は「女性の社会進出」、雇用機会均等法(八六年制定)の時代を生きてきた。この時代、「生き甲斐」とか「自己実現」などという言葉が盛んに使われるようになった。『人生の目的は「自己実現」にある』との考え方が何か当たり前のように受け入れられた時代だ。
「自己実現」など幻想にすぎない事は内田樹氏などが指摘するとおりだと思う。しかしこの言葉がある種のリアリティーを感じさせながら普及していった事の意味はかんがえてみる価値がありそうだ。
実際に一部を除けば今の中年女性は、労働市場を拡げ、その下層に組み込まれた以上に社会進出することができないでいる。しかし自己実現の幻想は振り払うことができない。その結果、子供が自己実現の代理人としてターゲットになる。
先に触れた、雑誌「プレジデント」の記事で見るように、父親の中にもまた子供に自分の「自己実現」を投影しようとする者がいる。昔からいたのだろうけど、その度合いが広がり強くなっている。せっかくの休日にわざわざ子供の部活動を見に来る父親が結構いる。保護者面談にやって来て、要望やクレームをまくし立てる父親も増えた。夫婦揃ってやって来る。もしくは母親を抑えて父親がやって来る。かつても父親と面談することがあったがたいていは、「母親が進路のことはわからないと言うので来ましたが、本人のことなので本人と先生にお任せします」 的な感じが殆どだったが今は違う。父親もまた宙に浮いている。中年の生きづらい時代なのだろう。保護者と接していると、教育を商品として扱う事への怒りなどより、母親の抱える持って行きようのない哀しさにこちらが疲れてしまう。
最近私の知り合いが結婚した。高偏差値で知られる有名大学の出身なのだが、て同じ大学の出身者を伴侶に選んだ。理由を聞いてみたら
「賢い子供を育てたいから」
と、ごく普通にこう言われて本当に絶句してしまった。後で何人かの私の同世代にこの話をしてみてわかったのだが、これが結構当たり前のことらしい。これから家族を形成しようとする若者でさえこの発想である。子供受難の時代だ。
教育を巡る問題、生徒の成長を巡る問題のかなりの部分が、この保護者の期待過剰、子供への自己投影とその反動としての育児放棄にあるのではないか。教育についてかんがえるよりもまず、中年の生き方をかんがえた方が早道のような気がしている。
それほど勉強が大切だと思うのなら、自分が勉強したらよい。暇な時間と子供の塾費用の一部を使って大学に聴講に行く。図書館通って本を読む。そんなに音楽好きなのなら自分でピアノ習えばいい。昼の空いた時間に懸命に練習する。子供の発表会に行くより、プロのコンサート行った方がずっといい音楽に出会える。毎日つまらないワイドショー見るより音楽CD聞けばよい。スポーツが好きなら、自分でやればいい。これが、子供への過剰な期待を排し、自己実現の実感をつかむ最善の方法だと思う。同時に、子供にとってもこれがよい。親の縛りから幾分かでも解放され、子供はのびのびと育つ。さらに、今日大学で習ったことを楽しそうに食卓で語る母親がいたら、子供は勉強することを当たり前だと思うようになる。趣味に生きれば良いと言うのではない。子育てとは独立し、むしろ子育てがその一部に組み込まれるような自分の人生をどう歩むかだ。実際保護者がこのような生き方をされている家庭の子は、自然と「良い」結果を残すものだ。
言うのは簡単だが、これがなかなか実現できないところがむつかしい。
家族
テレビもラジオも電話もない明治時代、日本人はどんな家庭生活をおくっていたのだろう。更に百年遡って、電気もない、新聞もない、学校もない、父親の出勤もない時代の農村で(日本人の大半は農民漁民だった)家族はどうだったのだろう。歴史的に見ればこのような生活が、二十世紀に入ってからのサラリーマンの生活より少なくとも数百倍は長いはずだ。
1980年代だが、人類学フィールドワークの報告を読んだ事がある。ブッシュマンは実によくしゃべり、よく笑うそうだ。動物一頭倒せば、食べ尽くすまで他にすることが無い。文明の進歩と人間の談笑時間は逆比例の関係にあるのではないかと報告書は述べていた。ジャレド・ダイヤモンド氏も同様のことを書いている。ニューギニア高地人は夜になれば火を囲んで談笑して過ごす。他の項で書いたけれど、それが伝承と教育の場にもなる。
日本人だって、つい最近まで(百五十年くらい前まで)もっと親密な共同生活をおくっていたのではないかと考えるのが自然だろう。私たちの文化は、そういう生活を前提にして基本的枠組みを形成している。
今、どの部屋も照明があって当たり前。子供は個室を持ち、テレビは家庭に複数台あって当たり前、電話は個人所有、インターネットも個々にアクセス可能。家に帰ってくる時間もばらばら。空間と時間を家族の構成員が共有することは、量と質の両面で随分後退してしまった
家族とは何か議論するできる力は私にない。性生活、親族と家族、議論は拡散する。簡単に、人間が共同生活を必要とし、同じ住居に暮らすその最小単位を家族と呼ぶなら、その現実的な存立基盤は時代の進行と共に大きく変わった。人が家族を形成する必要は徐々に失われている。一人でシマウマを狩ることはできない。農耕も一人でできるものでない。北の極限で暮らすイヌイットにとって伴侶の喪失は自分の死をまねく切実な問題だそうだ。
高度経済成長まで、サラリーマンの一人暮らしも不可能だった。全て外食で済ます程の給料は出なかったし、今のような外食産業はなかった。全自動洗濯機と乾燥機もなかった。電気掃除機もなかった。サラリーマンは結婚するまで実家で暮らすか、賄い付きの下宿か寮で過ごすのが普通だった。結婚することは男は社会人として生きていくために必須であった。女性はその補助として家庭を運営する。これも、朝から晩まで働きづめの労働だった。
それが、今では全く様相を変えた。都市で終身雇用を得れば、結婚するよりずっと経済的に恵まれた生活ができる。お金さえあれば全て不自由なくまかなえる。育児も一人親でも可能。家族を形成する切迫がない。
結婚しない若者が増える。離婚が増える。<婚姻率と離婚率の長期的推移>離婚しないまでも、現在の家庭生活を維持することが絶対条件でなくなり、リセット可能なものに見えたとき、構えは随分変わってくるだろう。維持しようと思うからこそ、反省し、妥協し、我慢する。互いに。そういう回路が働かなくなる。
担任をしていて、一人親家庭の数は急速に増えていることが実感としてわかる。かつてクラスに一人か二人入るかどうか位だった一人親家庭が、近年場合によっては二割を越す場合がある。問題行動などのため生徒の家庭生活により踏み込むことになると、離婚はしていないのだけれど別居状態、また別居もしていないのだが殆ど父親が帰宅しない家庭などもわかってくる。実質的な一人親家庭は更に多い。
文化には強い慣性が働いていてこのように急速に変わることがない。そのねじれが、様々な問題を生む。人間は他者からの承認を得て生きる。「あなたは居てもらうと困るから消えてくれ」と全く違う立場の人何人かから立て続けに言われたら、本当に死にたくなる。人類がその誕生以来続けてきた共同生活が生んだ、人間の文化の根幹だ。(母親から離れれば生涯単独行動で過ごす白熊はどんな自己認識を持っているのだろう。)家族がその相互承認システムの基本単位であったはずだ。それが経済生活の面から揺らいでいる。
他項で書いたが、教育もまたその多くの部分を家族が担ってきた。言語、運動の基礎、基本的生活知識、生活習慣などから、社会倫理まで。教育の基本単位は家族だ。学校で問題行動を起こした生徒がいれば、学校教員は家族に連絡し解決を家族に委ねる。学級担任が生徒と関わるのは1年、家族は一生。一生涯にわたる絆があってこそ教えられる事がある。
子供たちはその存在を全面肯定してくれる、そして全面的に依存できる保護者を必要としている。保護者が見守るからこそ、微妙な思春期に自己形成ができる。安定した家族は子供たちの成長を容易にする。それは、長く教員をして数多くの家族と接し痛切に感じる事だ。
自分の子供だから可愛い。生きていてくれることそのものに感謝する。そういう子育てができない親が増えている。これも他項で書いたことだが、子供が社会的実績を上げて初めて子供を認める。自分の社会承認願望を子供に投影する。子供が健全な自己肯定感を得られない。大人が生き方を見失い家族が崩壊を始めている兆し。
近代的な家族の形は、資本主義の発展に伴い大量に生み出された給与生活者のために作られたものなのだろう。江戸時代の農民はもっと緩やかな家族生活をしていた、らしい。給料を運んでくるお父さんが一方的に偉くなったのは、明治に入ってからだろう。同時にそれまで人口の一割程度しか居なかった武家の倫理が一般に拡大された。
先に産業革命を通過し資本主義社会を形成した西欧には、資本主義社会の家族形態についてそれなりの成熟過程、文化的蓄積があるように思われる。農村共同体から切断された近代家族をどう形成するか、資本主義社会を生きる人間をどう教育するかの知恵。急速に西欧の経済形態を移植した日本にはそれに対応した成熟過程がない。そのせいで、ネオリベラリズムの世界、自由競争と消費単位の個人への還元の時代に、日本の「家族」は崩壊が早いのではないかという気がする。
生徒の家庭を見ても、私の周囲を見ても家庭のトラブルは多い。子供たちよりも、私たち中年の男女が生きる方向を迷い、あえいでいる。次の世代のために、私たちはどんな社会をつくるべきなのか。「街場の共同体論」(内田樹)何度目かの読み返しをしながら。
保護者が自営業
30余年の教員生活で気付いたことの一つだが、保護者が小売店や農業、町工場といった自営業を営んでいる生徒は、人間的に安定している場合が多い。もしくは精神的成熟が早く大人として信頼でき、教員から見ても魅力的な生徒が多い。特に親子関係が安定している。友人関係の起点となる場合が多く、家がたまり場になる。保護者が他の生徒の面倒までよく見てくれる。 どうもそういう気がする。 印象深い生徒を思い出すと、親が自営業であったことに思い当たる。勿論これは傾向であって、親が自営で未熟な子もいたし、典型的なサラリーマン家庭の生徒の中にだって素敵な生徒はいくらでもいるのだけれど。
例えば、両親で商店街の小さな小売店を営んでいたある生徒の場合、周囲の生徒たちが、「あんな親子関係になりたい」とうらやましがるような円満な家庭で、実際多くの生徒がお世話になった。本人、よく遊ぶけどしっかり勉強もして上位の成績を維持し続けた。校則違反もやんちゃなこともするが、教員を怒らす一歩手前をわきまえている。学校生活のけじめが出来ていて、学校ではちゃんと生徒であり続ける。外ではいろいろやっていたみたいだけど。将来やりたいこともはっきり決まっていて、自分でいろいろな大学の中身を調べ、本人の実力からすれば「楽勝」の大学にさっさと進学していった。学力からは見れば、私学ならトップレベルの学校に楽々合格できたはずだった。まわりの教員からは、勿体ないからもっと「有名な」大学を受験して学校の宣伝に一役買ってほしい、と願う声は多かったけれど、本人にそんな気は全くない。そして、保護者にもそんな気はない。子供のやりたいことをやらせたい、それだけだった。
こんな子がもう少し多ければ、教員は随分やりがいのある仕事になる。子供たちに本当に伝えたいことに専念出来る。それこそ後期中等教育の独自性を十分に発揮できる。
自営業の家庭はサラリーマン家庭にはないいくつかの特徴を持っている。まず、地域共同体と密接に関わり、その中で生きている事だ。サラリーマンの場合、隣が何をしているかわからないアパートに住んでいたって生活できる。子育てを巡って初めて地域性を意識するようになる。サラリーマン家庭の町内会は子供でつながっているだけだ。自営業の場合そうはいかない。地域に密着してしか自営業そのものが成り立たない。農業の場合は様々な共同作業が必須だ。小売店はたいてい商店街の一員として店が成り立っている。商店街全体の趨勢が各店舗の売り上げを決定する大きな要因になる。お客もまた特定の地域の人が大半。多くが顔見知りのはずだ。更に時間的にも何世代も前から現在の地域に定住し時間的にも地域と密着していて、そこには共同体の論理が比較的強く残存している。だから子供たちの溜まり場になる。子供が十人押しかけても喜んで飯食わせてくれる。卒業してから聞けばアルコールの味をここでおぼえた生徒もいる。
サラリーマンは大きな組織の中で会社で上から与えられた仕事をこなしているわけだが、自営業を営む保護者は自分で全てを判断し、自分の責任で行動している。この世の中うまく行かないこともたくさんあるだろうし、経済的に苦しいことの方が多いだろう。でも全て自分の判断だ。保護者面談で接しても生命力があり生き生きとした人が多い。たとえて言うなら、毎日机に座って授業で先生の話を受け身的に聞いているより、文化祭の準備をしている方が子供が生き生きしているのと同じか。そんな甘いものではないと怒られそうだが、自営業は毎日が「文化祭」。
更に、自営業の場合母親にも父親と対等の役割分担がまわってくる。これは、両親共稼ぎのサラリーマンとも違う。自営業としての仕事と家庭の家事との境界線は曖昧で、その仕事の総量を夫婦で分担している。母親が実質的な営業判断の大半を握っていると推定される場合も多い。大体女性の方が社会的コミュニケーション能力は格段に優れている。地域の共同性は女性によってつながれている場合が多いのだ。母親が自分の生き甲斐をしっかり感じていて人間的に安定している。これを自立しているといったらいいのだろうか。いわゆるジェンダーに関する問題はここには目立たない。商店街のおばちゃんは元気だ。
こういう家庭でなら子供は健全に育つ。親は自分が生きることに一生懸命でその仕事にそれなりの誇りを持っているから、子供に過剰な期待をかけたり、自分の満たされない人生=コンプレックスを投影して、人生の代行を強要したりしない。実際そういう親が多かった。期待過剰や、その裏返しの育児放棄がない。また、子供が地域で育つ。社会的な経験が豊富で、人間関係力も優れる。また古典的な社会性、農村共同体の倫理を身につけた生徒も多い。
別の文章で、この農村共同体の論理が衰退しつつあることが、この30年の大きな変化だと書いたが、言い換えるとこれは、自営業衰退の歴史なのだと思う。
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』がヒットするのも単なるノスタルジーではないだろう。自営業は魅力的なのだ。共同体の論理は現代の企業の論理とはまた別の形で人間を縛る。かわりにそこに人間が生きる場がある。
巨大なショッピングモールが全国至る所にあらわれ、弱小小売店食いつぶされる。大型家電量販店が全国の電気店を統合してしまう。小規模農家は次々と廃業していく。これでTPPが成立発効したらどうなるのだろう。
自営業、地域商店街、農業集落、経済効率が悪くても守る価値はある。人間は経済効率で生きているのではないのだから。人間はお金で生きているのではないのだから。効率が悪くても貧乏でも「文化祭」的社会だったら楽しくしあわせに暮らせるはずだ。
少なくとも、「自営業者から学ぶ健全な子育ての秘訣」みたいな本を誰か書いてくれないかな。
「公」を内面化しない「個」
諏訪哲二氏「学校のモンスター」からの引用
現在は子供たちは学校へ入るとき、すでに「個」の意識(ないしは感覚)を強く持っている。学校より先に、テレビなどの情報メディアやお金(市場経済)が、子どもたちを消費主体としての個人に仕立て上げている。子どもたちにとって「等価交換」は、完全に身についているのだ。P103
いまや学校に求めるものは卒業後の「交換価値」をどれだけ上げられるか、という経済的メリットなのである。P104
学校より先に商品経済の情報メディアが子どもたちの「個」を形成している。「個」の利益や主体性をまず大事にするという「私的な個」の意識である。P104
これらの言説は、私の現場感覚に全く合わない。現在の高校生が、経済的合理性に基づいて行動しているとは全く思えないからだ。別の場所にも書いたように、子供や親が彼が描いているような「個」であったら、学校運営は本当に楽なはずだからだ。学校の規則をこれら「個」の利益を優先する子どもたちに合わせて整理し、この学校で最も経済的メリットのある過ごし方はどんなものか提示すればよい。
子どもたちは様々な問題行動を起こす。その要因の多くは家族関係、特に親子関係のねじれによるものだ。子供は家族のありように深く規定されている。自分を人間的に支えその存在を無条件に肯定してくれる他者を必要としている。親子関係に端を発する問題行動はむしろ時を追って増加しているようにも思える。家族が、商品経済の中での合理的生活形態にすぎないなら、互いに距離を置いたクールな関係が自然に成立し、心の奥底を突き動かす強烈な心理的トラブルが起きるはずもない。家族は「等価交換」の世界ではないし、これからもそうだろう。
なぜ子どもたちはSNSに没入するのだろう。かつてポケベルが流通し始めた時代、公衆電話の前には長蛇の列ができ、ひどいときは電話のボタンが壊れた。以来20年。今、フェイスブック、ライン・・・。子どもたちは常につながりを、仲間を求めている。消費主体としての個にばらばらに分解しているのではない。コミュニティーの形成が下手になったのである。いじめについては別の項で書くが、近年の限度を超えて暴走するいじめも、子どもたちが仲間を求めてその作り方を知らないからだと思っている。
近年文化祭の指導がしやすくなったと感じているが他の教員方はどうだろうか。放置しても生徒だけで何とかするような主体的活動力は確かに落ちた。細かな手入れが必要である。一方、ていねいに集団形成の仕方、役割分担、リーダーやサブリーダーの動き方を教え込むと、こちらが驚くほど「よく燃える」。私が高校生だったころ、幼稚で見向きもしなかったような事に熱中する。また、様々な文化系部活動が結構隆盛である。吹奏楽は部員が集まりすぎて悲鳴を上げている学校が少なからずある。軽音も大人気だ。少しずれるかも知れないが、YOSAKOIソーラン祭に全国から数万人の参加者が集まる、百万人を越す見物客がいる。子どもたちは、こちらが恥ずかしくなるほど簡単に「涙」「感動」を口にする。
かつて生徒たちは学校外に自分たちの世界を持っていた。「今だから言うけど」と卒業後に語ってくれる世界は、飲酒・喫煙・性・単車・・教師が知ればすぐ処罰対象になるようなことを含みながら自由でおおらかだった。子どもたちが集まれば飯を食わせ、時には酒を振る舞い、少々のことは大目に見ながら限度を超さないよう優しく見守る「おばちゃん」的保護者がたくさんいた。それを語っているかつての生徒は、一方でちゃんと高校生していたし(実に良い生徒だった)、今立派な社会人だ。彼らにとって、学校で生活と、校外の「裏社会」の二重生活で高校時代が成り立っていた。わざわざ文化祭などやらなくても校外の方が面白かった。それでも一通りのことは勝手にやっていましたけど。今生徒が文化祭や部活動に燃えるのは、こういう校外のコミュニティーが失われた為ではないだろうか。子どもたちは共に「感動する」仲間を求めている。昔よりも熱烈に。ただ、場を失い、方法を失い、能力を失ったのだ。
また、偏差値の高い学校に何が何でも入ろうとする強い上昇志向は全体としては薄れる傾向にある、と見ているがどうだろう。刈谷氏の指摘のとおり学習意欲は二極分解し学力は正規分布にならない時代である。その上位層にしても、子どもたちは大人よりずっと醒めている。学校が躍起になって補習時間を増やしたり、親が子供を塾に行かすのは、生徒の意欲が高まったからではない。逆に自分から進んで勉強しないから教師は生徒を補習に縛り付け、親は子供を塾に行かす。
学校の補習で、以前より高度なことをやっているかというとそうではない。(そうでない学校があるかも知れないが。)かつての高校生が自分でこなしていたことを補習でやっているだけだ。生徒の「絶対学力」は落ちている。とは、予備校関係者が第二次ベビーブームの山が去ったあとよく口にしてきた事だ。大学入試問題は明らかに易しくなりつつあるし、東大生の入学後の定点観測でも学力低下が報告されている。生徒の自己管理能力が低下しているのが一つの原因だが(これも自己の最大利益を追求する消費主体には相応しくないことだ)、そもそもそれ程「有名な」学校に行きたいと生徒は思っていないし「立身出世」を志していない。その先に待っていることを今の子どもたちはよく知っていて、大人の扇動に簡単には乗らないのだ。
今の子どもたちが 『「等価交換」が、完全に身についている』個体であるとは私にはとても思えない。単に社会性が欠落し、自己管理能力が落ち、視野が狭くなったため、残った衝動的な自我が目立っているに過ぎない。生物は自己の利益、欲望や衝動の満足度を最大化するように行動する。これは、生物としての人間にとって当たり前のことなのだ。倫理、道徳、法等の規範は、短期的な欲望の充足よりも共同体の利益を優先することなど、長期的な視野で行動した方がより高い利益を得る事ことができるを教えるものだ。今子どもたちが消費社会の「個」であるように見えるのは、かつて存在した倫理規範が崩壊してしまった事の言い換えに過ぎない。
保護者が大凡学校教育を投資の対象だと思っているのは事実である。これは今に始まったことではない。ただ、現代社会の中で学校や先生ががそんなに偉いものではなくなり、クレームの付けやすい場所であることに社会が気付いただけだ。しかし一方で、現在の保護者が全体が、学校経営者や国会議員が思い込んでいるほど子供の学歴獲得に熱心だとも思われない。むしろかつてより、平穏な学校生活と普通の就職を望む親の割合は増えているように感じるのだがどうだろう。むしろ怖いのは、受験教育を無理矢理看板にしようとする学校経営者、自らの得票源にしようとする政党の動きだ。これら、保護者の動向、学校運営者や政治家の動、子どもたちの意識にはそれぞれずれがあり、決して一括して語れはしないものである。
もう一つ、諏訪氏の言説で気になることがある。再度引用する。
したが って、これからの学校で育成すべきなのは、生きることの価値にかかわる、あるいはよりよく生きることを目指す垂直的、かつ、「公共的な個」(公を内面化した「私」)であろう。P104
『 公を内面化した「私」』の方が『よりよく生きる』ことにつながるのはどうしてだ。これはそれ程当たり前のことではない。古今の哲学者がその根拠を求めて苦闘してきたことだ。その根拠を当たり前の前提として物事を語っても、今の子どもたちには通じない。自ら縛られている、農村共同体の規範、儒教倫理が対象化できていないため、それを失った今の子どもたちが見えなくなっている。
共同性を求める志向は今の子どもたちにも強く存在するし、農村共同体の規範はその残滓を残している。そういう「公」を求めるエネルギーが行き場を失い「国家」収斂されるととんでもないことになることを私たちはよく知っている。「ヘイトスピ-チ」「ネット右翼」等に見られる排外主義の兆候は三十年前にはあり得なかった事だ。また、世界全体を「公」として捉える事ができないと、私たちは子孫に生存環境を与えることができない所まで来ている。
「公」とは何か、個人とどう関わるのか現代社会の言葉で、子どもたちを説得できる言葉で語れる様にすることが、我々大人の側に課せられた緊急課題である。
項を改めて書こうと思うが、社会に未だに存在する農耕社会倫理の残滓は、下手をするとファシズムの温床になる危険がある一方、新しい社会の土台にもなりうるはずだ。様々なコミュニティーブームや内田樹氏が言うように、昭和を美化して語る事もそれにあたろう。使える柱と土台を残してビフォーアフターすればよいのである。
江戸時代ブーム
最近ちょっと江戸時代ブームだ。これはこの二十年の停滞社会を反映したものだろう。江戸時代は、停滞を前提に設計された社会だ。徳川幕府が未来永劫に続くことを唯一の目標として考え抜かれている。そして本当に海外との交易を殆ど絶ち、三千万人が持続して生活できる自立した社会を作り上げ二百年以上維持した。単に権力機構を整備するに止まらず、民衆がそもそも減少したり革命に走るような恐れのない、一定の安定した生活を農民に保障し、再生産可能な資源管理機構まで整備されています。そして人口の何割かが死亡するような内戦、疫病の流行、飢饉などのない安定した社会を続けることが出来た。様々な書物が報告しているように、これは権力側からの社会制度整備に止まらず、民衆のレベルからも様々な社会文化の発展が見られ、細部に至るまで合理的な(エコロジカルな)社会生活が作られていった。この狭い土地で、交易なしに、7割の森林面積を維持しながら3千万の人間が暮らすことができた。その根底をなすものが村落共同体の機構で(これは他の所で触れようと思うが)文化として強く深く日本に根付き、開国後の日本をまた支えたと思われる。教育は当時の世界の最高水準に達し、識字率の高まりと共に、出版文化が生まれ多くの書物が民衆にまで流通する社会が作られた。開国以後日本を訪れた西洋人はこれを見て驚嘆した。世界史的外的要因がなければ恐らくもっと存続したでしょう。これは世界史的にも稀なすごいことだ。
恐らく、開国後の明治政府は政権を正当化するため江戸時代に相当負のバイアスをかけ歴史教育を行ってきた。そしてその傾向は戦後もそのまま受け継がれた。しかし、明治維新と明治時代を築き日本をこれも世界史的にも例を見ない速さで近代国家に押し上げたのは、江戸の教養を身につけた人々である。戦後民主主義の担い手が、戦前の教育を受けた人間であったように。明治時代に作られた江戸幕府観への反動として、今の江戸ブームがあるなのではないかという気がします。江戸時代を無条件に賛美する傾向もまたどうかと思うし、私たちが江戸時代の生活に戻ることも出来ない。しかし、私たちがこのような歴史を背景とした文化を持っていることを誇るべきだし、これからの停滞社会・持続可能社会を考える上で大変貴重な経験であることは間違いないだろう。
ゆとり教育の役割
文部科学省は1990年代から教育課程を改変し、学習内容及び授業時数の削減し、学校週五日制の導入をすすめてきた。更に2002年から施行された学習指導要領では、完全週五日制、総合的な学習、絶対評価導入、いわゆる『ゆとり教育』が実現した。これは2011年新学習指導要領で一応終焉するのだが、これはいったい何だったのだろう。一つ注目すべきは、日本教職員組合は早くから学習内容及び授業時数の削減を提言し、このゆとり教育は日教組も賛同する、表向き国民揃って賛同する教育改革だった。
この時期注目すべき提言がある。「21世紀日本の構想」懇談会最終報告書、座長 河合隼雄(2000年1月13日小渕内閣総理大臣に向け提出)。この第5章 「日本人の未来」は教育についての提言である。全部で9500字ほどの文章だが、注目すべき点だけピックアップしたい。
Ⅰ.はじめに
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市場は惰性的慣習、情実に基づく閉鎖的な集団、及びその集団による評価を打破するという意味において、人間に利益をもたらす。それは絶えず地域を超え、因襲的な共同体を超えて普遍的な公正を目指すという点で、他に代え難い利点を持っている。
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市場と拮抗して教育制度の根幹を支え、民間諸機関の活動を援助し、調整する役割は国家にのみ期待される。教育のあるべき姿を考えるさいにも、それを決定する力として、市場と国家という文明の二大要因の緊張関係を前提としなければならない。
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Ⅱ.教育のもつ二面性
第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。
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同時に教育は一人ひとりの国民にとっては自己実現のための方途であり、社会の統一と秩序のためというよりは、むしろ個人の多様な生き方を追求するための方法でもある。この第二の側面においては、国家の役割はあくまでも自由な個人に対する支援にとどまり、近代国家が提供するさまざまなサービスの一つに属すると考えるべきであろう。この側面における教育については、国家は決して強制権を持つべきではないし、また持つことは不可能である。
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何よりも急がれるのは、これまで漫然と混同されてきた2つの教育を絶え間ない注意と努力によって截然と分け、区別を意識化していく政策を立てることである。
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Ⅳ.改革のための提言
現在の義務教育の教科内容を5分の3にまで圧縮し、義務教育週3日制を目指すことを提案する。
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3日の教科内容を十全に消化し得た生徒は、それぞれの関心に従ってより高度の専門的な学業、芸術、スポーツなどの教養、あるいは専門的な職業教育の基礎に向かってもよい。この部分は民間の既成の教育機関、あるいはこれから生まれる教育集団、さらには従来の学校が自らの教室を開放して行う教育の場にゆだねられる。
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Ⅴ.最後に
義務教育修了後の教育は、現在の高校をも含めて一層の自由化と多様化と、そして相互競争にゆだねるべきであろう。
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法と制度を厳正に維持し、社会の秩序と安全を保証し、世界化する市場に適切な補正を加える国家の重要性は自明であり、生徒に対してそれを敬愛することを教えるのは義務教育の範囲の中にある。
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子どもと親、若者と年長者がより多くその選択をめぐって語りあうことが期待される。競争する教育機関はそれぞれ学ぶことの魅力、教育内容の意義についてより強く社会に訴えることが期待される。
今この文章を読むと、そうだったのかと納得させられる。90年代後半からやたらに周囲が騒がしくなってきた。補習授業、勉強合宿、模擬試験などが増え高等学校間の競争が加速する。世間では、「自己実現」「自己責任」などそれまであまり聞いた事のない言葉がはやり始める。
この提言で言われているのは、教育への市場原理の導入と国家の統治行為としての教育の両立である。『ゆとり』とは学校教育の後退により、教育への市場原理導入、競争原理の促進、産業資本の流入促進するものであった。我々現場教員の感覚で言えば、『ゆとり』の結果として塾通いが増え受験産業が潤ったように理解されてきたが、そうではなかったのだ。最初から意図されて行われてきたと見るべきなのだろう。
国家の役割後退、市場原理拡大が新自由主義=グローバリズムの基本原理であり、まさにその路線に沿って『ゆとり』が進められてきたと今になれば思う。2011年以降の新指導要領ではゆとり路線は後退したように見える。学力低下批判を受け、教科書は厚くなり授業時間は増加した。しかし、一端進められた教育への民間企業参入の流れは止まらず、一方で競争原理として教員間競争、学校間競争が新たに制度として整えられつつある。(「教育再生会議」最終報告書 2010年1月31日)『ゆとり』はこの流れの露払いをしっかり行ってくれた。
日教組はこの流れを阻止できなかったどころか、『ゆとり』に賛同の意を表し推 進の役割すら担う事になった。理想論の陰に隠れた、競争原理導入、エリート教育の意図を見抜き批判する事が出来なかった。詰め込みを批判し落ちこぼれを批判しながら、当時の文部省に対置しうる教育理念と具体的な教育政策を持たなかった。日教組だけじゃない。米国にブッシュ政権、続いて日本に小泉政権が誕生し新自由主義的政策が世の中を荒らしていく前夜に、警鐘をならす事が出来た知識人がどれだけいただろうか。現場の教員は何をすべきだったのだろうか。