ドッグショー

 運動部の試合に保護者が顔を出すようになったのはいつ頃からだろう。 公式野球などの元々親が熱心だった部活動はある。上達すればプロスポーツにつながる野球、サッカーなどには昔から熱心な親がいた。それが、かつて殆ど来なかった種類の運動にまで保護者の応援が広がりまたその数が増え続けている。会場によっては、自家用車で保護者が応援に来ないよう予め注意のプリントを回さなくてはならないことがある。これがまた熱心な応援をする。室内競技で、妨げになるストロボ撮影が問題になる。その応援の口汚さのため競技によっては、わざわざ保護者の「野次」に規則を設け注意をしなければならない場合まであると聞く。
 ご縁でピアノの発表会を見に行って驚いた。小学生の女の子が綺麗に髪の毛をセットしプロの演奏会のようなステージ衣装で登場する。ペダルに補助を付けなくてはならないような子が大変難しい曲を弾く。友人の子供がバレエを習っていて、一回の発表会でかかる費用が十万円を超えると聞いて驚いた。
ビジネスマンの雑誌「プレジデント」が子供の教育に関する記事を載せるようになり、現在は「プレジデントファミリー」なる教育雑誌を刊行するようになった。父親まで!と驚愕するのはもう古いことなのかも知れない。
子供の私立中学に通う割合は上昇傾向を続ける。2011年東京で二十六%、全国平均で八%。通塾率も九十年代に急上昇し、2013年小学生全国平均四十六%、東京で五十九%、中学校では全国平均五十六%、最も高い奈良県で七十三%。(「ベネッセ教育総合研究所」「都道府県別統計とランキングで見る県民性」より)
 子供の教育に強い関心を寄せる親は増えた。(勿論これは傾向であって、ゆったりと子育てする親もいれば、全く無関心な親も当然いるのだが。)しかし、これらの保護者の行動はどこまで合理的経済行動だろうか。学習面だけ取り上げれば、「良い」就職をし子供に高額の所得を得させる事を望んでいるとも考えられる。しかし、今や大学全入時代。小学校から塾に通って到達できる大学の「ランク」を上げることで得られる経済効果はどれほどもものか。どこまでの保護者が合理的計算をしているだろう。医者・弁護士になれれば確かに所得は保障される。だがなれる人数はごく僅か。医学部の定員は全国総計しても九千人同世代人口の一%以下。大変リスキーな博打である。まして、経済的に安定したプロの音楽家や舞踏家など同世代でごく僅かしかいないことは誰でも知っている。それを目指して途方もないお金をかけることは、経済的には全く引き合わない。音楽系の高校や大学に通うものは、高級外車が買えるような値段の楽器を普通に持っていると聞いたことがある。子供の教育に熱を上げる保護者の振る舞いは合理的経済行動では説明できない。
音楽大学生が異様に高価な楽器を持っているのは、東アジアに特徴的に見られることで、西欧ではあまりないことらしい。大学受験の過熱もどうもそれに近い。東アジアの米作地帯が持つ文化、儒教文化地帯の近代化には共通で理解できることがたくさんあるのではないかと思うが、これはこの文の主題からは少し外れる。
 また、子供への愛情でもなさそうだ。人生の土台を作るかけがえのない幼年期を、塾通い・お稽古・スポーツトレーニングで埋めるのはあまりに残酷な振る舞いではないか。
 これらの親は子供をペットの様に扱っている。有名大学への進学、有名企業への就職、スポーツ大会での活躍、これらは子供の品評会と理解すると一番わかりやすい。犬をドッグショーに出品するのと似た感覚で子供を育てている。植物で言えば、盆栽を育てるように育てる。だからこぢんまりした子が育つ。ペットだから、期待にこたえられなくなると簡単に放棄する。一応飯は食わせてもらっているが、精神的には放棄された子供は多い。親が学校に求めるものは、子供の品評会でのランクを上げる事なのだ。
 最近の「熱心な」親をこんな風に見ている。

中年の生きづらさ-ドッグショー(2)

 かって母親は忙しかった。私の幼年期、一九五〇年代後半、いわゆる家電は殆どなかった。母は朝早起きして、火口一つの石油コンロで順に米を炊き汁を作り父の弁当を作る。冬は火鉢の火を起こしそこで湯を沸かす。皆が起きたら、布団をたたんで押し入れへ、そうしないと生活空間がない。朝食が済めば冷たい水道で食器洗い。風呂の残り湯使ってたらいで洗濯、手で絞り物干し竿へ干す。箒とハタキで屋内掃除。屋外の清掃と庭の手入れ。家は狭かったが庭は田舎で広かった。冷蔵庫ないから殆ど毎日買い物。服の繕い、制作。夕方、再び米を炊き夕食準備。その合間に石炭くべて風呂を沸かす。母親は丸一日働いていた。父の側から見ても、その働きは、仕事をするためにどうしても必要な事だった。夫婦共に丸一日働いて、ようやく生活が成り立っていた。だから、独身サラリーマンは実家に住むか、もしくは賄い付きの下宿で暮らしていた。
 思い返してみると、今の専業主婦がどれだけ楽な生活をしているかがわかる。更に、今や主婦の働きがなくても、仕事をして生活を継続できる時代だ。こうして中年女性が宙に浮く。
 さらに、今の中年は「女性の社会進出」、雇用機会均等法(八六年制定)の時代を生きてきた。この時代、「生き甲斐」とか「自己実現」などという言葉が盛んに使われるようになった。『人生の目的は「自己実現」にある』との考え方が何か当たり前のように受け入れられた時代だ。
「自己実現」など幻想にすぎない事は内田樹氏などが指摘するとおりだと思う。しかしこの言葉がある種のリアリティーを感じさせながら普及していった事の意味はかんがえてみる価値がありそうだ。
実際に一部を除けば今の中年女性は、労働市場を拡げ、その下層に組み込まれた以上に社会進出することができないでいる。しかし自己実現の幻想は振り払うことができない。その結果、子供が自己実現の代理人としてターゲットになる。
先に触れた、雑誌「プレジデント」の記事で見るように、父親の中にもまた子供に自分の「自己実現」を投影しようとする者がいる。昔からいたのだろうけど、その度合いが広がり強くなっている。せっかくの休日にわざわざ子供の部活動を見に来る父親が結構いる。保護者面談にやって来て、要望やクレームをまくし立てる父親も増えた。夫婦揃ってやって来る。もしくは母親を抑えて父親がやって来る。かつても父親と面談することがあったがたいていは、「母親が進路のことはわからないと言うので来ましたが、本人のことなので本人と先生にお任せします」 的な感じが殆どだったが今は違う。父親もまた宙に浮いている。中年の生きづらい時代なのだろう。保護者と接していると、教育を商品として扱う事への怒りなどより、母親の抱える持って行きようのない哀しさにこちらが疲れてしまう。
最近私の知り合いが結婚した。高偏差値で知られる有名大学の出身なのだが、て同じ大学の出身者を伴侶に選んだ。理由を聞いてみたら
「賢い子供を育てたいから」
と、ごく普通にこう言われて本当に絶句してしまった。後で何人かの私の同世代にこの話をしてみてわかったのだが、これが結構当たり前のことらしい。これから家族を形成しようとする若者でさえこの発想である。子供受難の時代だ。
教育を巡る問題、生徒の成長を巡る問題のかなりの部分が、この保護者の期待過剰、子供への自己投影とその反動としての育児放棄にあるのではないか。教育についてかんがえるよりもまず、中年の生き方をかんがえた方が早道のような気がしている。
 それほど勉強が大切だと思うのなら、自分が勉強したらよい。暇な時間と子供の塾費用の一部を使って大学に聴講に行く。図書館通って本を読む。そんなに音楽好きなのなら自分でピアノ習えばいい。昼の空いた時間に懸命に練習する。子供の発表会に行くより、プロのコンサート行った方がずっといい音楽に出会える。毎日つまらないワイドショー見るより音楽CD聞けばよい。スポーツが好きなら、自分でやればいい。これが、子供への過剰な期待を排し、自己実現の実感をつかむ最善の方法だと思う。同時に、子供にとってもこれがよい。親の縛りから幾分かでも解放され、子供はのびのびと育つ。さらに、今日大学で習ったことを楽しそうに食卓で語る母親がいたら、子供は勉強することを当たり前だと思うようになる。趣味に生きれば良いと言うのではない。子育てとは独立し、むしろ子育てがその一部に組み込まれるような自分の人生をどう歩むかだ。実際保護者がこのような生き方をされている家庭の子は、自然と「良い」結果を残すものだ。
 言うのは簡単だが、これがなかなか実現できないところがむつかしい。

家族

テレビもラジオも電話もない明治時代、日本人はどんな家庭生活をおくっていたのだろう。更に百年遡って、電気もない、新聞もない、学校もない、父親の出勤もない時代の農村で(日本人の大半は農民漁民だった)家族はどうだったのだろう。歴史的に見ればこのような生活が、二十世紀に入ってからのサラリーマンの生活より少なくとも数百倍は長いはずだ。
1980年代だが、人類学フィールドワークの報告を読んだ事がある。ブッシュマンは実によくしゃべり、よく笑うそうだ。動物一頭倒せば、食べ尽くすまで他にすることが無い。文明の進歩と人間の談笑時間は逆比例の関係にあるのではないかと報告書は述べていた。ジャレド・ダイヤモンド氏も同様のことを書いている。ニューギニア高地人は夜になれば火を囲んで談笑して過ごす。他の項で書いたけれど、それが伝承と教育の場にもなる。
日本人だって、つい最近まで(百五十年くらい前まで)もっと親密な共同生活をおくっていたのではないかと考えるのが自然だろう。私たちの文化は、そういう生活を前提にして基本的枠組みを形成している。
今、どの部屋も照明があって当たり前。子供は個室を持ち、テレビは家庭に複数台あって当たり前、電話は個人所有、インターネットも個々にアクセス可能。家に帰ってくる時間もばらばら。空間と時間を家族の構成員が共有することは、量と質の両面で随分後退してしまった
家族とは何か議論するできる力は私にない。性生活、親族と家族、議論は拡散する。簡単に、人間が共同生活を必要とし、同じ住居に暮らすその最小単位を家族と呼ぶなら、その現実的な存立基盤は時代の進行と共に大きく変わった。人が家族を形成する必要は徐々に失われている。一人でシマウマを狩ることはできない。農耕も一人でできるものでない。北の極限で暮らすイヌイットにとって伴侶の喪失は自分の死をまねく切実な問題だそうだ。
高度経済成長まで、サラリーマンの一人暮らしも不可能だった。全て外食で済ます程の給料は出なかったし、今のような外食産業はなかった。全自動洗濯機と乾燥機もなかった。電気掃除機もなかった。サラリーマンは結婚するまで実家で暮らすか、賄い付きの下宿か寮で過ごすのが普通だった。結婚することは男は社会人として生きていくために必須であった。女性はその補助として家庭を運営する。これも、朝から晩まで働きづめの労働だった。
それが、今では全く様相を変えた。都市で終身雇用を得れば、結婚するよりずっと経済的に恵まれた生活ができる。お金さえあれば全て不自由なくまかなえる。育児も一人親でも可能。家族を形成する切迫がない。
結婚しない若者が増える。離婚が増える。<婚姻率と離婚率の長期的推移>離婚しないまでも、現在の家庭生活を維持することが絶対条件でなくなり、リセット可能なものに見えたとき、構えは随分変わってくるだろう。維持しようと思うからこそ、反省し、妥協し、我慢する。互いに。そういう回路が働かなくなる。
担任をしていて、一人親家庭の数は急速に増えていることが実感としてわかる。かつてクラスに一人か二人入るかどうか位だった一人親家庭が、近年場合によっては二割を越す場合がある。問題行動などのため生徒の家庭生活により踏み込むことになると、離婚はしていないのだけれど別居状態、また別居もしていないのだが殆ど父親が帰宅しない家庭などもわかってくる。実質的な一人親家庭は更に多い。
文化には強い慣性が働いていてこのように急速に変わることがない。そのねじれが、様々な問題を生む。人間は他者からの承認を得て生きる。「あなたは居てもらうと困るから消えてくれ」と全く違う立場の人何人かから立て続けに言われたら、本当に死にたくなる。人類がその誕生以来続けてきた共同生活が生んだ、人間の文化の根幹だ。(母親から離れれば生涯単独行動で過ごす白熊はどんな自己認識を持っているのだろう。)家族がその相互承認システムの基本単位であったはずだ。それが経済生活の面から揺らいでいる。
他項で書いたが、教育もまたその多くの部分を家族が担ってきた。言語、運動の基礎、基本的生活知識、生活習慣などから、社会倫理まで。教育の基本単位は家族だ。学校で問題行動を起こした生徒がいれば、学校教員は家族に連絡し解決を家族に委ねる。学級担任が生徒と関わるのは1年、家族は一生。一生涯にわたる絆があってこそ教えられる事がある。
子供たちはその存在を全面肯定してくれる、そして全面的に依存できる保護者を必要としている。保護者が見守るからこそ、微妙な思春期に自己形成ができる。安定した家族は子供たちの成長を容易にする。それは、長く教員をして数多くの家族と接し痛切に感じる事だ。
自分の子供だから可愛い。生きていてくれることそのものに感謝する。そういう子育てができない親が増えている。これも他項で書いたことだが、子供が社会的実績を上げて初めて子供を認める。自分の社会承認願望を子供に投影する。子供が健全な自己肯定感を得られない。大人が生き方を見失い家族が崩壊を始めている兆し。
近代的な家族の形は、資本主義の発展に伴い大量に生み出された給与生活者のために作られたものなのだろう。江戸時代の農民はもっと緩やかな家族生活をしていた、らしい。給料を運んでくるお父さんが一方的に偉くなったのは、明治に入ってからだろう。同時にそれまで人口の一割程度しか居なかった武家の倫理が一般に拡大された。
先に産業革命を通過し資本主義社会を形成した西欧には、資本主義社会の家族形態についてそれなりの成熟過程、文化的蓄積があるように思われる。農村共同体から切断された近代家族をどう形成するか、資本主義社会を生きる人間をどう教育するかの知恵。急速に西欧の経済形態を移植した日本にはそれに対応した成熟過程がない。そのせいで、ネオリベラリズムの世界、自由競争と消費単位の個人への還元の時代に、日本の「家族」は崩壊が早いのではないかという気がする。
生徒の家庭を見ても、私の周囲を見ても家庭のトラブルは多い。子供たちよりも、私たち中年の男女が生きる方向を迷い、あえいでいる。次の世代のために、私たちはどんな社会をつくるべきなのか。「街場の共同体論」(内田樹)何度目かの読み返しをしながら。

保護者が自営業

 30余年の教員生活で気付いたことの一つだが、保護者が小売店や農業、町工場といった自営業を営んでいる生徒は、人間的に安定している場合が多い。もしくは精神的成熟が早く大人として信頼でき、教員から見ても魅力的な生徒が多い。特に親子関係が安定している。友人関係の起点となる場合が多く、家がたまり場になる。保護者が他の生徒の面倒までよく見てくれる。 どうもそういう気がする。 印象深い生徒を思い出すと、親が自営業であったことに思い当たる。勿論これは傾向であって、親が自営で未熟な子もいたし、典型的なサラリーマン家庭の生徒の中にだって素敵な生徒はいくらでもいるのだけれど。
 例えば、両親で商店街の小さな小売店を営んでいたある生徒の場合、周囲の生徒たちが、「あんな親子関係になりたい」とうらやましがるような円満な家庭で、実際多くの生徒がお世話になった。本人、よく遊ぶけどしっかり勉強もして上位の成績を維持し続けた。校則違反もやんちゃなこともするが、教員を怒らす一歩手前をわきまえている。学校生活のけじめが出来ていて、学校ではちゃんと生徒であり続ける。外ではいろいろやっていたみたいだけど。将来やりたいこともはっきり決まっていて、自分でいろいろな大学の中身を調べ、本人の実力からすれば「楽勝」の大学にさっさと進学していった。学力からは見れば、私学ならトップレベルの学校に楽々合格できたはずだった。まわりの教員からは、勿体ないからもっと「有名な」大学を受験して学校の宣伝に一役買ってほしい、と願う声は多かったけれど、本人にそんな気は全くない。そして、保護者にもそんな気はない。子供のやりたいことをやらせたい、それだけだった。
 こんな子がもう少し多ければ、教員は随分やりがいのある仕事になる。子供たちに本当に伝えたいことに専念出来る。それこそ後期中等教育の独自性を十分に発揮できる。
自営業の家庭はサラリーマン家庭にはないいくつかの特徴を持っている。まず、地域共同体と密接に関わり、その中で生きている事だ。サラリーマンの場合、隣が何をしているかわからないアパートに住んでいたって生活できる。子育てを巡って初めて地域性を意識するようになる。サラリーマン家庭の町内会は子供でつながっているだけだ。自営業の場合そうはいかない。地域に密着してしか自営業そのものが成り立たない。農業の場合は様々な共同作業が必須だ。小売店はたいてい商店街の一員として店が成り立っている。商店街全体の趨勢が各店舗の売り上げを決定する大きな要因になる。お客もまた特定の地域の人が大半。多くが顔見知りのはずだ。更に時間的にも何世代も前から現在の地域に定住し時間的にも地域と密着していて、そこには共同体の論理が比較的強く残存している。だから子供たちの溜まり場になる。子供が十人押しかけても喜んで飯食わせてくれる。卒業してから聞けばアルコールの味をここでおぼえた生徒もいる。
サラリーマンは大きな組織の中で会社で上から与えられた仕事をこなしているわけだが、自営業を営む保護者は自分で全てを判断し、自分の責任で行動している。この世の中うまく行かないこともたくさんあるだろうし、経済的に苦しいことの方が多いだろう。でも全て自分の判断だ。保護者面談で接しても生命力があり生き生きとした人が多い。たとえて言うなら、毎日机に座って授業で先生の話を受け身的に聞いているより、文化祭の準備をしている方が子供が生き生きしているのと同じか。そんな甘いものではないと怒られそうだが、自営業は毎日が「文化祭」。
 更に、自営業の場合母親にも父親と対等の役割分担がまわってくる。これは、両親共稼ぎのサラリーマンとも違う。自営業としての仕事と家庭の家事との境界線は曖昧で、その仕事の総量を夫婦で分担している。母親が実質的な営業判断の大半を握っていると推定される場合も多い。大体女性の方が社会的コミュニケーション能力は格段に優れている。地域の共同性は女性によってつながれている場合が多いのだ。母親が自分の生き甲斐をしっかり感じていて人間的に安定している。これを自立しているといったらいいのだろうか。いわゆるジェンダーに関する問題はここには目立たない。商店街のおばちゃんは元気だ。
 こういう家庭でなら子供は健全に育つ。親は自分が生きることに一生懸命でその仕事にそれなりの誇りを持っているから、子供に過剰な期待をかけたり、自分の満たされない人生=コンプレックスを投影して、人生の代行を強要したりしない。実際そういう親が多かった。期待過剰や、その裏返しの育児放棄がない。また、子供が地域で育つ。社会的な経験が豊富で、人間関係力も優れる。また古典的な社会性、農村共同体の倫理を身につけた生徒も多い。
 別の文章で、この農村共同体の論理が衰退しつつあることが、この30年の大きな変化だと書いたが、言い換えるとこれは、自営業衰退の歴史なのだと思う。
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』がヒットするのも単なるノスタルジーではないだろう。自営業は魅力的なのだ。共同体の論理は現代の企業の論理とはまた別の形で人間を縛る。かわりにそこに人間が生きる場がある。
巨大なショッピングモールが全国至る所にあらわれ、弱小小売店食いつぶされる。大型家電量販店が全国の電気店を統合してしまう。小規模農家は次々と廃業していく。これでTPPが成立発効したらどうなるのだろう。
 自営業、地域商店街、農業集落、経済効率が悪くても守る価値はある。人間は経済効率で生きているのではないのだから。人間はお金で生きているのではないのだから。効率が悪くても貧乏でも「文化祭」的社会だったら楽しくしあわせに暮らせるはずだ。
 少なくとも、「自営業者から学ぶ健全な子育ての秘訣」みたいな本を誰か書いてくれないかな。