児童虐待に思う-孤立する家族

 児童虐待のニュースが相次ぎ、行政とりわけ児童相談所の不手際がマスコミで話題になっている。しかし、問題の根本がそのような所にない事は、皆承知しているはず。児童虐待は、育児の失敗の極端な場合であり、「失敗してしまったらどうするか」(もちろん緊急の課題としてこれも大切だが)、ばかり論ずるのではなく「どうすれば上手く子育てできるのか」をもっと考えるべきではないか。
育児は文化である。人間の子供を育てるには大変手間がかかる。まず、生物的な成長を支える。これだけで大変だ。同時に、人間社会で共に生きるための訓練を重ねなくてはならない。歩く、走るといった運動能力、排泄、食事、着衣、等の日常生活の訓練の他、言語の習得、感情の制御、他者の理解と社会性の獲得・・膨大な量のしつけを誕生から数年の間に行うことになる。我々の日常を振り返ってみても、その生活の大半は、学校に行く前に家庭で身に付けた事で成立している。朝起きて、寝具を片付け、服を着て、洗顔、食事、排泄、会話 等々。
 育児は、子供が生まれたら自然にできるものではない。生まれて一年にも満たないハムスターが、かいがいしく子育てするのを見て驚嘆したことがあるが、人間はハムスターではない。人類は数万年にわたり出産子育てを繰り返し、その経験が文化として蓄積され伝承されてきた。この育児に関する文化を参照することで子育てが成立している。
子育て文化は、あまり意識されることがない。家族、親戚、地域を通じて空気のように自然に伝承されてきたから。今、この伝承が希薄になりつつある事が、問題の根幹ではないかと思う。
 さて、育児の担当者は誰だろうか。両親が専らその責任を負う様な育児方法は、我々の伝承の中にはない。江戸時代まで、人口の九割以上は農民で、農村では、その共同体の中で育児がされてきた。子供は、その共同体の財産であり、共同体の構成員全体が守り育ててきたと。村落にはいろいろな年代の子供がいて、育児の経験は連続的に集団によって受け継がれてきた。育児はその共同体の存続に関わる大切な行為だったはずだ。(あまり美化しすぎるのも問題で、間引きだって行われていた。)専ら両親が育児を担当する事は、明治時代以降徐々に普及した、極めて近代的な経験の浅い事柄ではないだろうか。
 そもそも家族制度は、地域社会の最小単位として成立してきたもので、単独で存在するようにできていない。家族を巡る様々な現代的「病」の大半は、家族の孤立によって生まれてきた。夫婦関係でも、それが二人だけの閉じられた関係であるなら、不安定になって当たり前。育児は喜びにあふれたものである一方で、精神的負荷の大きい行為だ。子育てにしても、夫婦関係にしても、それがうまくいかず負のスパイラルに陥ったとき、家族が閉じられていたら脱出のきっかけがない。
 うまくいかないときに経験を語り助言をしてくれる第三者集団があって育児が成立する。両親からから近所のおばちゃんまで立場も世代も異なる様々な人に囲まれて、家族が健全性を保つことができる。(私のつれあいも、スーパーに買い物に行くと誰かに出会い話し込んでなかなか帰ってこない。これが大切な行為である事に後から気付いた。女性の「井戸端会議」は文化である。地域を緊密にし、家族を支える。)
 他の項でも書いたが、学校教員に対する負担の増加は、子供が、従来学校外で習得してきたものが、学校の仕事に移されてきた事による部分が大きい。いわゆる「社会性」に関する事柄は本来、家と地域で教えられてきたことだ。私が学校教員をしていた三十数年でもその変化はずいぶん感じ取ることができた。やんちゃな生徒は今も昔もいる。だが私が就職当時の子供は、それなりの行動規範を身に付けていて、こちらがそれを理解し筋を通せば、生徒と折り合う妥協点を見出すことは比較的容易だった。大凡、農村部の出身者、都市でも住民のつながりが密接な下町的地域の出身者は、人間的成熟が早く、自己評価も高い。そういう生徒の割合が徐々に減少していった。
 『シャルリとは誰か?』でフランスの右傾化を論じたエマニュエル・トッドは、キリスト教会へ通う人口の変化率統計分析の鍵として用いた。これを地域社会の崩壊速度とみて、これと右傾化傾向に強い相関があることを示している。コミュニティーの崩壊は日本だけの問題ではない。
政治制度の転換は一気に行われるが、そこに暮らす人々の実体的な暮らしはゆっくりとしか変化しないし、その文化には更に強い慣性力が働いている。これらの生む捻れは時間の経過と共に表面化する。結局このことについて、このHPで繰り返し述べることになった。
 児童虐待に話を戻せば、当面の施策としては、育児中の家族が孤立しないための工夫が必要なのではないか。虐待が起きてからその後始末を児童相談所に委ねるのでは遅い。田舎の人口が減少し、都会でも古い商店街は超大型ショッピングセンターに食い荒らされ、地域のコミュニティーはますます解体していくだろう。児童相談所は忙しくなるばかりだ。
 新自由主義の時代、多様な中間共同体をどうしたら形成できるか。私たちの課題であり、その試みは始まっている。

安倍晋三の教育に与える影響-政治に倫理性を

・ 競争相手が窮地にある時は、最大限これを利用しろ。
・ 自分に都合の悪いことは、しらを切る。
・ 議論は、論点をずらし決して負けを認めない。

国政に携わる人々のふるまいが若者に与える影響は、おおきいはずだ。教育は学校のみで行われるものではない。子供たちの生活する社会全体が常に彼らを教育している。この機能が充実している社会を良い社会と言う。まして国の最高意志決定機関である。決定され実行される政策の中身もたいせつだが、その決定過程は、国民にひとつの行動規範として受け取られることになる。安倍晋三は、多くのことを子供たちに教えた。

 かつて『敵に塩を送る』ことが美談として語り継がれて来た国だった。公正さを求める倫理規範は強く根付き、この国の繁栄を根底で支えてきた。安部氏の好きな「美しい国」のうつくしさはこういう所にある。何も日本だけ話ではない。審判の誤審を認めPKを外すシーンを集めた動画『10 Fair Play Penalty moments in Football』は、公開から1年で視聴回数約2千万回。社会は、法律だけによって支えられているわけではない。それを超えた倫理規範が生きているからこそ社会は円滑に機能する。現代社会は、中世以前の社会がその維持のために作り上げてきた倫理規範を前提として成り立っている。民主主義実現の過程で、この規範は書き換えられて来たが、決して廃棄されたわけではなかった。

(日本でこの過程がどうであったか、これが日本の現在を理解する根本問題だと思うが、その大風呂敷はここでは広げられない。)

 学校制度も、その例である。生徒と親が学校を学校として認めるから学校が成り立つ。その規範が崩壊過程にあることが、今学校が抱える最大の問題点だ。パン屋を和菓子屋に変えてまで道徳教育を充実させたい現政権が、自己利益の追求のためにはなりふり構わない。おかしな話だ。子供たちが学校で安倍晋三のように振る舞っていたら、子供たちが学校を自己利益の追求の場としか考えなくなったら、学校は瞬時に崩壊してしまう。教員の失敗に乗じて騒ぎ出す。校則違反をしてもしらを切り通す。授業や学級運営において、この様な生徒を少数派に追い込むこと、集団としての規範意識を作り上げることが、学校教員の最初の仕事なのだ。

もう一つ。現在の文科省は「国際化」教育に熱心である。小学校からの英語教育をますます広げようとしている。(パン屋を和菓子屋にする事とずいぶん矛盾していると思う。充実した日本語教育の方がよほど大切だと思うのだが、それは別項で述べた。)

『グローバル社会にあって様々な人々と協働できる人材,とりわけ国際交渉など国際舞台で先導的に活躍できる人材を養成する。』-第2期教育振興基本計画(平成25年6月14日閣議決定)成果目標5

 国の最高意志決定機関におけるその政策決定過程は、子供たちにとって「議論をすること」の最も洗練された手本になるはずだ。議論には議論の規範がある。民主主義を支える根幹のルールだ。その中には、負けを負けと認める事も含まれる。ストライクを3つ見逃したのにバッターボックスを去らないプレーヤーがいたら、野球は成立しない。『国際交渉など国際舞台で先導的に活躍』するためには、英語を学ぶことよりもまず「議論をすること」とその規範を学ぶ必要がある。そしてなによりこれが民主主義を育てる基本だ。まず国会が議論の規範とこれを守る倫理性を示すべきだ。安倍晋三の「共謀罪」「森友学園」「加計学園」を巡る答弁は、手本となり得たか。

教育に対する悪影響として書いたが、本来民主主義政治の運営は倫理的でなくてはならない。あらゆる可能性を尽くしあらゆる立場をふまえた最善の政策決定をし、それを実行するために。専制政治を廃し国民の民主的意志決定を守るために。

 安部政権の終焉を望む。憲法の解散権が悪用された総選挙を前に。

トランプ大統領の登場から教育の役割をかんがえる

トランプ大統領が登場したとき、橋下徹氏が「知識人の敗北」と述べていた。では、あなたは何者ですかと問いたくなるのはさておき、基本的に正しいと思う。トランプ氏の問題点を云々するよりも、何故「リベラル」が負けたのかをかんがえる方が生産的だろう。


 トランプ氏の政策は自国中産階級の目先の利益を最優先に掲げるものだ。米国において「リベラル」は、この政策を批判しきれなかった。もちろん批判はあった。でも、民衆の心に届くような政策を提示できなかった。もしくは民衆を納得させるだけの論理を展開できなかった。欧州においても、流入する大量の難民と頻発するテロを前にして、極右勢力が台頭、多文化主義は退潮を続ける。日本では憲法改訂を目指す安部政権が国会で圧倒的多数派を占める。なぜ右派が台頭するか新聞でも色々議論されているが、それよりも何故リベラルが無力なのかかんがえるべきだと思うのだ。


 リベラリズムは、単なる理想主義では無い。第二次世界大戦の犠牲者は六千万~八千万人(wikipedia)。二度とこのような惨劇を起こさないための知恵であるはずだ。内部に紛争を抱えた共同体は繁栄しない。大抵滅びる。共同体が共同体として生き延びるために蓄積された経験知の一つとして平等主義がある。二十世紀以降人間の交流(経済)は世界規模になり、地球全体が一つの共同体となる時代が来た。リベラリズムは限られた市場と資源を巡る破滅的な争奪戦を回避するための実践的知になるべきだ。知識人の役割はここにある。狭い地域の利益、時間的に短期の利益の追求と、広範囲のそして時間的に長期の利益との矛盾を示すこと。視野の広い実践的な提言をすることが知識人の役割だと思う。知識人は、単に日常生活を営んでいては見えない遠方を探査し民衆に報告してくれる探検家のようなもの。道に迷って藪に紛れ込んだとき、どちらに進んだら進路が開けるのかを調査する偵察隊のようなものだ。ちょっと良さそうな道が現れたけれども、この道は少し先に進むと深い谷の危険な道に続いているかもしれない。山道を歩いているとこのような場面に遭遇することがある。原子力がその例だ。使用済み核燃料の処理、安全管理、老朽化した核施設の処分などの費用や事故が起きたときの危険性等をいい加減に見積もれば、大変に安いコストでエネルギーを得ることができる。安易に原子力依存を進めた結果どれだけのものを失ったか。我々はどれだけ遠くを見ていたのだろう。また、見えたものを皆で共有できていたか。進むべき道はどこにあるのか。


 知識人はその役割を十分に果たしているだろうか。この道の先に崖が待っている。では、どちらに進むのか。進むべき道を示してきただろうか。安保に関する反対運動で、対米従属の外交方針に反対する、では日本はこの現実世界でどのような外交方針をとるべきなのか。単なる反対ではなく、進むべき道を積極的に示さなければ結局負け続けるのではないかと危惧する。世界大恐慌による不況に直面し、それまで多数派を維持してきたドイツ社会民主党はナチスに政権を奪われる。同じような道をまた世界は歩むのだろうか。


 「知」とはそもそも単なる日常生活からは見えない遠くを見つめる力、物事を深く見る力のはずだ。空間的時間的に視野を広げる力。部族単位の共同体で殆ど閉じていた時代には口頭伝承の蓄積だけで足りていた。その規模の拡大と共に共同体を維持する機構は複雑化し維持のために必要な知も増大する。そこで文字が生まれ文字を扱うことを専業とする集団が生まれる。制度的な文字を扱う訓練の場として学校教育が生まれる。学校教育の役割の一つは、普段の生活からは見えない遠くを見せること、遠くを見つめる力、深く本質を見つめる力を養うことにある。遠くとは、空間的遠方だけでなく、時間的な遠方、未来と、忘れられた、もしくは知られなかった過去にさかのぼることも遠くである。日常生活に必要な知恵の多くは、学校外で吸収できる。言葉を話し服を着てご飯の食べる、他者の気持ちを理解し共同生活を営む、そのために必要な膨大な知識の大半を我々は学校外で学んでいる。江戸以前の日本社会は教育の全てが日常生活の中にあった。もちろん、文字から情報を得ること、数値の複雑な処理する能力を養うことなど、日常生活からでは得られない現代社会への適応能力養成も学校教育の課題だけれども、学校の役割はそれだけではないはずだ。高偏差値の上級学校への進学、より高収入の安定した就職に教育の目標が特化して行くのは恐ろしいことである。


 大学の研究費予算査定が絶望的な情況にあることは多数報告されている。探検隊は探検した先から何を持って帰ってくるか、わかっていないから探検に出るのだ。手ぶらで帰還することだってある。その方が多いかもしれない。探検とは本来そう言うものだと思っていた。短期的な結果の予想できるものにしか研究費が下りなくては、遠くを見ることはできないではないか。何の役に立つかわからないことを調べ、何の役に立つか今はわからないことを教える。これが本来の研究と教育のあるべき姿だろう。


 経済が閉塞すれば視野は狭まる。どんな理想よりも、明日の食料が大切だから。友愛よりも自分が生きることが大切だから。このような時代だからこそ、遠くを見つめ進むべき道を提示する知識人の役割に期待し、遠くを見せる学校教育の役割を大事にしたい

相模原殺傷事件に思う

 極度に不快な事件である。こんな事件が現実の世界で起きたことが信じられない。「ヘイトスピーチ」の登場も衝撃だったが、事態はここまで進んでしまったのかと改めて思う。1970年代、「差別は悪である」という規範は一応日本社会を覆っていて、差別は残っていたとしてもそれは隠然と行われ、今の時代のように堂々とその正当性が主張されることはなかったと思う。今回の事件、そしてヘイトスピーチでも感じられるのは「反差別は「建前」で、皆本音では差別しているだろう。私は勇気を持って正直に差別的言動をしてみせる」 という屈折したヒロイズム。

 人間の即自感情の肯定。少なくとも戦後の日本社会にまがりなりにも存在した「反差別」の規範が崩壊しつつある。この事件については実行者の病歴やドラッグとの関係が言われ、保安処分の強化の口実にされようとしている。(実行犯は自分もまたこのようにして差別と排除の対象に追い込まれていくことを想像できただろうか。)しかし、戦後これほどまで露骨な差別事件はなかった。一つのきざしとしてこの事件をとらえると、背筋が凍る。更に言えば、村落共同体の倫理として歴史的に積み重ねられてきた共生の規範が根こそぎ失われつつあるのではないかとさえ思われる。

 皆が個人の利益追求から勝手な振る舞いを始めたら、中世の村落などすぐつぶれてしまう。更にさかのぼれば、余剰生産物を持たない原始共同体にとっては共に生きることは理念などではなく死活問題だったはずだ。人類が富を得て、争いが始まる。そんなことをしていると不幸を招く事を人類は長い歴史的経験から学び、生活規範に組み込み宗教や思想に結晶させてきたのではなかったか。市場原理と競争原理の全面肯定、経済成長第一主義、これらは個人の欲望を無反省に認めることにつながる。理想が「建前」に矮小化されされ、その「建前」すら失われつつある時代を迎えているようだ。これはまるで原始共同体以前まで我々の文化を後退させることにつながるのではなかろうか。

 世界規模で見ると、地球は飽和状態である。世界中の人間が日本人と同じ生活を始めたら、瞬く間に資源は失われ地球環境は破局を迎える。グローバルな意味では人類の状況は原始共同体の抱える状況に近い。同時に資本蓄積は進行し、巨大資本は小国の資産全体を遙かに上回る規模に成長した。素人である私の勝手な思い込みかもしれないが、新自由主義は、世界経済の飽和状態が生んだもののように思われる。分かち合うより奪い合え!(更に、力のある私たちが奪い取っても当然でしょうと。)資源争奪戦は、中東では1990年代から始まっている。状況を放置すれば、資源争奪は激化する一方となるだろう。これを終わらせ、戦争を回避するためだけにも、我々がこれから平和に生きていくための具体的な行動が必要だ。言い換えれば、地球規模で平等思想を立て直すこと。そして具体性のある実践プログラムを提示する努力が求められている。

『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (E.トッド)』
は革命以来のフランスの平等主義がいかに脆弱なものであるか、簡単に排外主義に転化するかを語る興味深い書物だ。(文章は読みづらい。もっと上手な日本語訳ができると思うのだが。)これを読んで改めて平等について考えさせられた。どのような範囲で平等を語るのか。人種、国籍を超えて平等を語れるのか。また、どのような状態を平等と言うのか。政治的権利か、経済状態か。仮に、全世界の人類の平等を理想としたとき、所得の平等は実現しうるだろうか。平等を実現するために「先進国」の国民が生活水準の大幅後退を容認するだろうか。現にヨーロッパで起きている移民問題、排外主義は、そのことの難しさを示してはいないか。

『戦後政治を終わらせる(白井 聡)』
 反知性主義を「知的なもの、知的ぶったものや人に対する反感」と定義している。反感を呼ぶ責任の半分は、日本における「知的なもの」そのものにある。日本におけるリベラル知識人の知的怠慢がここにきて露呈したと見るべきだろう。同書にはこんな指摘もある。オランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァンウォルフレンの発言を引用している。

社会党は、現実路線を取ることができず、空理空論ばかり唱えるから駄目になってしまった。(P88)
社会党や大江健三郎さんは日本の保守政治を批判してきたけれども、言っていることはまるで非現実的で、GHQの言っていたこととほとんど変わらない・・・(P89)

昨年度の「集団的自衛権」を巡る動きにしても、スローガンは「平和憲法を守れ」「戦争法案反対」。安部政権の中国敵視政策を具体的に批判し、どのような外交戦略が可能なのかを示すような言説はごくわずかであったように思う。中国敵視政策に対抗するスローガンは「日中友好」しかあり得ないではないか。(日本人がみな安倍晋三と同じ事を考えているわけではないのと同様、中国人がみな習近平と同じ事を考えているわけではない。)「憲法を守れ」と言うが、憲法一条から八条までをどうするのか。当面棚上げなのか。
私たちは平等の内実について考察せず、言ってみれば理想郷や天国を語るようにあこがれとしての平等を口にしていた。江戸時代までの村落共同体の倫理に、西欧の平等主義を接ぎ木して分かったような気になっていた。日本の経済成長が止まり経済格差が広がれば、理想としての平等はリアリティーを失い、その脆弱性が一挙に露呈する。
 反知性主義を巡っては別項でも書いたが、今の情況を招いた責任の少なくとも半分、は戦後リベラルを自認する政党、学者、知識人、マスコミ、それらのもとで動いてきた学生運動の担い手、特に「団塊の世代」にある。そう思う方が実践的ですよね。批判するより自らを変えていく方が可能性がある。

『自閉症の脳を読み解く(テンプル・グランデン)』
 人間の脳機能がきわめて多様であることをMRIなど最新の医療技術の成果をもとに解説。そして多様性を基盤に置いた教育の必要性を訴えている。戦後教育は「能力・資質の均等」暗黙の前提に進められた。平等主義はこの前提の上に成立していた。「やればできる」は今でも教員の常套句だ。しかし我々の資質は、田んぼで育つ稲のように均質ではない。そのことは子供たちが一番よく知っている。平等理念の底の浅さを、言葉にならなくても体感している。このような平等主義は、「教育の成果は個人の努力の結果でありその個人に還元されて当然」とする競争原理に簡単に絡め取られる。
人間の多様性を前提とした強固な平等主義の確立が、教育の直面している課題であろう。そしてその理念に基づいた機構の再編。平等がきれい事でなくなるために。優生思想と本気で対決しながら多様性の承認と平等を実現することは大変に難しい。項を改め少しずつ考えていきたい。

 資源の争奪を回避し70億人の人間が平和に暮らしかつそれが持続できるために、多様な人間がその多様性を生かしながらも平等に暮らせる社会を実現するために、私たちは莫大な課題をかかえている。「革命」が一挙に解決すると信ずるような知的怠慢を避けよう。できることから一歩ずつ前に進むことができたらと思う。そのような実践の積み重ねが、いつかは大きな社会変革を生むことになるかもしれない。

格差社会論と Noblesse oblige

 小泉政権後、格差社会なる言葉が定着した。それまであまり使われなかった言葉だと思う。一言で言えば新自由主義の当然予想されるべき帰結。以来様々な論説が飛び交い、社会のあらゆる分野について事細かに論じられてきた。これに私ごときが付け加える余地はないだろう。
 ただ一つ、私が常に不満に思うことがある。それはこの問題に限り、誰もが国内問題として論じることだ。国際的視野を欠いた貧困解消運動が、最終的にどういう形で収斂していくか苦い経験をして70年。格差の問題に限り敢えて国際的視野から目を塞ぎ、国内問題として論じるのは、別項で書いた「反知性」的な行為ではないだろうか。
 一人あたり国民所得が日本より低い国が圧倒的多数であり、識字率が50パーセントに満たない国も数多く存在する。それを踏まえて、国内の格差を論じる事が難しいのは確かだ。「日本人は贅沢している。もっと恵まれない人々が海外にはいるのだから我慢しろ」と言われておしまいの所がある。でも、そこに踏み込まなければ、格差を論じた事にならないと思うのだ。
 自由競争の全面肯定は、
  『競争で得た社会的地位や経済的利益は、
   当事者が独占しかつ競争のために再利用して良い』
という行動規範・倫理規範の肯定である。この規範を否定しない限り、格差について論じることは出来ない。そこで、日本の現在の国際的地位をかんがえてみればよい。国際的な格差を肯定しなければ、今の日本経済は成立しない。世界中の国が日本と同じ割合で資源エネルギーを消費したら、地球環境はあと何年維持できるか。 
 話は変わる
Noblesse oblige
the idea that people who have high social rank or wealth should be helpful and generous to people of lower rank or to people who are poor(Merriam-Webster Dictionary)
新自由主義的競争から脱却するための一つのキーワードだろうとかんがえ、在職中から生徒へ語りかけてきた言葉である。どのような社会にも職業分担はある。これは避けられない。社会主義国にも「共産党幹部」もいれば肉体労働者もいる。社会を多少なり健全に運営するために貴族社会で生まれた言葉であると聞く。悪くいえば封建制度の矛盾を隠蔽するためのごまかし。だが、ネオリベラリズムに対抗する一つの規範として、新たに考え直すべき時が来たと思う。
(アニメ「東のエデン」で使われていた?らしい。)
特に高等教育の中で、Noblesse oblige を教えかんがえさせること、高等教育がそのような規範を共有することが必要な時代が来ていると思う。大学は、しっかりとエリート教育をすべきだ。
 その上で、冨に恵まれた日本は国際社会でどう振る舞うべきかかんがえたい。資源争奪戦争を回避するために。

アメリカ文化

『復興文化論』(福嶋亮大)は示唆に富む面白い書物であった。日本古典、中国古典の読み込み量が、西欧文化と現代日本の書物を読み込んだ量(これが従来の「教養」だった)に加算されている。論旨よりも、文芸批評として刺激的。今後が楽しみ。その一節、現代の項に、アメリカ文化は自然否定の文化でディズニーはその象徴であり手塚治虫はそれを日本で引き継いだ、といったことが述べられている。
成る程と納得した次第。アメリカ文化は植民地の文化だ。アメリカ先住民を抹殺し、力ずくで「開拓」をした。アメリカ先住民の抹殺(具体的には5%に減少:http://ja.wikipedia.org/wiki/)は同時に先住民の文化の否定。アメリカ文化は近代文明の力で無理矢理自然をねじ伏せた(つもりになっている)文化だ。その土地に住む共同体の文化は自然との共生についての経験と知識によって成り立っている。それに失敗した文化は滅びる。そして、数千年の歴史を持つ文化は必ずその基礎として自然との共生を土台とする共同体の記憶を持っている。神話はその一つ。アメリカ文化は神話を持たない文化だ。
例えばアメリカの農業は過剰な潅漑により深刻な打撃を受けているらしい。アメリカ文化に「発展」はあっても「持続」はない。二百年何とかなってきたけれど、この先千年持続可能である保障は何所にもない。恐らく無理だ。
アメリカ文化は、原始共同体の記憶を持たない文化であり、自然との共生を否定した文化である。他項で書いたけれど、原始共同体での女性の地位を記憶として持たないアメリカ文化は極端な女性差別文化でもある。ウーマンリブはアメリカから起きた運動である。グローバリズムとは、この安直なアメリカ文化の世界的敷衍のことだ。
イスラム社会との対立は、このアメリカ文化への反感が生み出しているのではないかと思う。イスラム文化はそれこそ五千年以上の歴史を持ち、中世約千年間にわたり世界をほぼ制圧し続けた。こういう重厚な文明がアメリカ文化と親和性を持たないのは理解できる。聞きかじりでしかないが、イスラムの教えの中には、アメリカ流の個人主義を正反対にしたことが多く書かれているという(例えば「マルカムX自伝」)。そして今、ヨーロッパの若者を「イスラム国」が惹きつけてしまう。
グローバリズムへの有効な批判として、イスラムしかないのか。考え込んでしまう。さらに、日本は何故大した抵抗もなくアメリカ文化を受け入れ広大な米軍基地の存在を許してきたか。「奥様は魔女」の家庭生活に憧れて僕たちは育った。
イスラムのテロリストによる残虐な事件を見ながら。

『みんなで一緒に「貧しく」なろう』【齋藤貴男】 14年12月総選挙を前に

自民党優勢の世論調査結果。自民党は「アベノミクス」。当面の経済拡大最優先。これに対し、野党は方法論と冨の再分配について批判するばかりで、経済拡大そのものに疑問を呈する発言は殆ど聞かれない。共産党だって、庶民にもっと冨をよこせと言うに終始している。これでは自民党がまた勝つ。官僚組織と資本家、農業生産者が支持する政党である。経済政策が最も具体的で現実的。実効性がある。自民党の用意した土俵で勝負になるわけがない。
高度経済成長の時代、「もう少し分け前よこせ」との言い分には実効性があった。分け前出せたから。実際庶民も豊かになった。自民党の政策は強固で、かつ目の前で実現して行った。だからこそ批判勢力は批判だけしていればよかった。批判にも現実性があり、ある程度の軌道修正もされてきた。自民党も野党の主張を計算に入れて政策立案してきた。だから、野党も一定の支持を集めることができたし、朝日新聞の書くことにも意味があった。不況と停滞の時代、同じ事繰り返していたら批判勢力から衰退していくのは当たり前だ。
バブルの崩壊、特に90年代後半から、高校生が「左翼」に対する興味を急速に喪失して行ったような感触がある。逆に知的に背伸びをする生徒が「右翼」に興味を示すようになる。そういう流れが当時はよく理解できなかったのだけれども、今時代を見返してみると、「左翼」が支持を失うことと、自民党の政策が実効性を失っていくことは並行して起こって来たように思う。もっと視野を広げれば、資本主義経済の要、米国が、ベトナム戦争終結以降迷走を続けてきた。その後を犬のようにたどり、時に無理難題を押しつけられてきた日本。
停滞の時代、「アベノミクス」だってうまくはいっていない。しかし、飽和状態を迎えた資本主義社会で経済拡大を考えれば、打つ手は新自由主義的政策以外の選択肢が見えない。英国のサッチャー政権米国のレーガン政権誕生以来、資本主義全体がそう動いてきた。経済拡大を前提にする限り、自民党以上の具体的政策は野党に立案できないだろう。
私たちは、有限な空間に有限な資源を抱えて生きている。単純に考えても生産と消費の活動を無限に拡大できるわけがない。科学技術がその壁をある程度越えてくれるだろう期待はある。実際ある程度のことは可能かも知れない。だが、未来の技術を担保に経済拡大を志向するとどうなるか、私たちは強烈に学習する機会を持った。
中国の国民が日本と同水準の国民所得を得ようとすれば、中国の国民総生産は日本の10倍を超さなくてはいけない。世界中の人間が、今の日本並みの暮らしを求めたらどうなるか。限られたこの地球で、資源の争奪戦が起こって当たり前。集団的自衛権に象徴される自民党の外交政策も、「経済の拡大=資源の争奪」の観点からすれば当然の帰結だろう。世界中の国が豊かさを求め経済拡大を続ければ、日本も強力な軍隊を持ち資源確保に向かうことになるだろう。それが唯一現実的な政策だから。
私たちは、見かけの物質的繁栄に見切りをつけるときを迎えている。しかし、環境保護に向けて様々な主張が現れる時代になっても、はっきり経済縮小を主張する言説にはなかなか出会わない。原子力発電所に反対する。それはよいだろう。ではどれだけの規模で消費エネルギーを想定したらよいのか。エネルギー消費を縮小し、経済を後退させよとは殆ど誰も言わない。特に政治家は言わない。
庶民を馬鹿にしないでくれ。我々は金儲けばかり考えているわけではない。若者は競争社会に半ば見切りをつけようとしている。イオンモールが全国の商店街をなぎ倒すのを苦々しく見ている。オリンピック騒ぎにうんざりしている。飛行機より高い運賃払って、「リニア」に誰が乗るか。都会では乗用車を持たない人間が増える。BSで繰り返し放送されるイタリアの農村。近隣の国々とだって、悲惨な戦争するより仲良く資源を分け合う方がよいに決まっている。
1990年代から新自由主義批判を始めた齋藤貴男氏を尊敬する。別ページで述べたように政府の教育政策に対する批判は未だに有効。いや時を経て彼の正しさが認知されることになった。『みんなで一緒に「貧しく」なろう』は2006年の対談集。
美しくしあわせな社会をめざし、ゆっくりと仕組みを作り替えながら撤退しよう。

貧乏しよう。
そういう政治家に一票入れたいのだけれど。

停滞の時代に

 世界の人口は七十億人。この人々が平等な暮らしを始めたら、つまり世界中の人々が同じようにエネルギーや資源を消費したらどうなるか。私たちはこの問題を普段忘れている。もしくは意識的に目を背けている。少なくとも今の日本人と同様の生活水準で七十億人が地球上で持続可能な生活を送ることは、今の私たちの科学技術を持ってしては不可能なことは様々に指摘されている。(その代表例がJared Diamond 「文明崩壊」) 中国は急速な経済成長を続けている。今の世の中、技術は模倣可能で発展途上国はどんどん先進国に追いつき、世界の資源消費量はこれから爆発的に増大していくはず。手をこまねいていれば、そう遠くない将来何らかの絶望的な破局が待ちかまえていることは明らかだ。我々の世代は人類を破局に導いた世代として、(もし小規模でも人類が生き延びれば)記録されることになる。
驚くことに、経済成長こそが善であるような政治が未だにまかり通っているが、今の政治家は今の日本の繁栄があと何年可能だと思っているのか。(詳しいことは本稿の目的ではありませんが、莫大な赤字を抱えた国家予算一つ見ても、何年後のこと考えているのか首をかしげたくなります。)あと何年これまでのような規模の成長と繁栄が可能だと考えているのだろう。それを支える資源がこの地球上のどこにあると思っているのか。『最終戦争で人類の大半が滅亡し、残ったごく少数の人間が、持続可能な社会の建設を始める』といった漫画やSFで作られた世界は今や非現実ではなくなりつつある。
 今考えられている解決策は、ざっと考えて次の三つくらいではないだろうか。
1)格差を是認し、平等社会の実現を阻止する
2)これまでも様々な困難を解決してきた科学技術の進歩に期待して栄華を貪る
3)平等社会の実現と持続可能性が両立するポイントを探り、先進国は資源消費量の抑制し経済の後退を本気で検討する。
1)は論外、2)は根拠のない願望だとすれば、3)について本気で考えなくてはならないときを迎えていると思うのですが如何だろうか。
 戦後、学びの課題は復興と豊かさの追求だった。右翼も左翼も冨の分配方法について意見を異にするだけで、求めていたのは基本的に物質的な繁栄だった。マルクスの唱えたことは生産と冨の分配のより合理的方法だったはず。物質的な繁栄、経済活動の成長拡大を前提にした社会建設が日本人全体の目標であり、教育の基本動機でした。経済成長が平等な社会実現の理念と矛盾無く結びついていたし、実感としてそれを確かめることが出来た。この理念について1970年頃から様々な異議申し立ては行われてきたが、教育界は教育の理念を基本から再検討することを怠ってきたと言わざるを得ない。バブル経済の崩壊以降この二十年社会は明らかに停滞局面をむかえ、高度経済成長の時代には意識されなかった多くの問題が表面化してきた。格差社会という言葉は、それまでほとんど聞かれなかった。貧富の差は経済成長と共に解消すると皆が信じてきたし、実際そうでした。日本人のほとんどが車がありエアコンのある生活が出来るようになったのですから。ところが停滞局面にはいると、定量の冨を前にした自由競争の結果格差が生まれ更にそれが再生産される社会が生まれる。その間死者が数千、数万に及ぶ大震災、原子力発電所の「事故」で(公害で)広大な土地を失う経験をした。この停滞の二十年私たち日本人はどう過ごしてきたのか、新しい生き方をどれだけ考えてきたのか深く反省すべだろう。「成長の夢」がばらまかれ、今その何度目かにあたっている。停滞社会、後退経済を肯定しそこにプラスの価値を見いすような生き方を本気で考えたいと思う。
大規模な資本集中無くして生産不可能な機械=パソコンにこんなこと書くのは随分矛盾した話ですね。

江戸時代ブーム

 最近ちょっと江戸時代ブームだ。これはこの二十年の停滞社会を反映したものだろう。江戸時代は、停滞を前提に設計された社会だ。徳川幕府が未来永劫に続くことを唯一の目標として考え抜かれている。そして本当に海外との交易を殆ど絶ち、三千万人が持続して生活できる自立した社会を作り上げ二百年以上維持した。単に権力機構を整備するに止まらず、民衆がそもそも減少したり革命に走るような恐れのない、一定の安定した生活を農民に保障し、再生産可能な資源管理機構まで整備されています。そして人口の何割かが死亡するような内戦、疫病の流行、飢饉などのない安定した社会を続けることが出来た。様々な書物が報告しているように、これは権力側からの社会制度整備に止まらず、民衆のレベルからも様々な社会文化の発展が見られ、細部に至るまで合理的な(エコロジカルな)社会生活が作られていった。この狭い土地で、交易なしに、7割の森林面積を維持しながら3千万の人間が暮らすことができた。その根底をなすものが村落共同体の機構で(これは他の所で触れようと思うが)文化として強く深く日本に根付き、開国後の日本をまた支えたと思われる。教育は当時の世界の最高水準に達し、識字率の高まりと共に、出版文化が生まれ多くの書物が民衆にまで流通する社会が作られた。開国以後日本を訪れた西洋人はこれを見て驚嘆した。世界史的外的要因がなければ恐らくもっと存続したでしょう。これは世界史的にも稀なすごいことだ。
恐らく、開国後の明治政府は政権を正当化するため江戸時代に相当負のバイアスをかけ歴史教育を行ってきた。そしてその傾向は戦後もそのまま受け継がれた。しかし、明治維新と明治時代を築き日本をこれも世界史的にも例を見ない速さで近代国家に押し上げたのは、江戸の教養を身につけた人々である。戦後民主主義の担い手が、戦前の教育を受けた人間であったように。明治時代に作られた江戸幕府観への反動として、今の江戸ブームがあるなのではないかという気がします。江戸時代を無条件に賛美する傾向もまたどうかと思うし、私たちが江戸時代の生活に戻ることも出来ない。しかし、私たちがこのような歴史を背景とした文化を持っていることを誇るべきだし、これからの停滞社会・持続可能社会を考える上で大変貴重な経験であることは間違いないだろう。

嫌中憎韓

 近頃書店で隣国の悪口を書き立てた本がコーナーを作るようになった。多数の本が平積みで売られている。タイトルも宣伝用の「帯」も随分汚らしい事が書いてある。大体、他国の悪口を言えばきりがないのであって、米国について悪口をならべれば材料はもっとたくさんある。実際新書版にはアメリカ批判の本が随分出ているのだが、「反米コーナー」ができたり、「それでもこの国とつきあいますか」のような情緒的な帯は掛かったりしない。今のブームはそれから考えても異様だ。マスコミを通じてしかまだお目にかかっていないが「ヘイトスピーチ」の内容も同じく。極端な差別的表現が平然と大都市の街頭宣伝で行われる。この書物のブームを新聞が特集していて、『嫌中憎韓』と言うのだそうだ。妙な既視感にとらわれて考えてみると、小説「1Q84」の連想。これが私たちの住んでいた社会だったか。異世界に紛れ込んでしまった様な感覚。
高等学校では、(個人的な体験になるが)90年代後半から、読書量も多く多少なり政治思想に関心を寄せる理知的な生徒の中に、「右翼」的な発言をする生徒が現れ始めた様に思う。教員として人間的にも充分信頼できクラスでの人望もある生徒が、じっくり話してみると、かなり「右翼」的政治思想を抱えている。彼らが共通に語るのは、従来の「左翼的」言動は大変脆弱で、それに比べて「右翼」的言動に力を感じるのだそうだ。それまでは、およそものを考える生徒はどちらかと言えば「左翼」の側からの反体制的視点をとろうとしていた。もちろんそこには、「ベルリンの壁」に象徴される世界規模での社会主義国家の崩壊、日本での社会主義政党の凋落などが大きな社会背景としてあるのは間違いない。でもそれで説明を終えては前に進めない。
 現在のような排外的言動が大衆的規模で現れると感じる様になったのは、インターネット掲示板でのいわゆる「ネットウヨ」の登場からのように思う。それまででも右翼政治団体はあって、街頭宣伝車が走り、日教組大会を妨害していたりした。しかし支持者拡大にはある限度があってある意味で安心して眺めていられた。その支持者の拡大が、2000年代違った様相を見せる。 「本音と建前」と言う言葉がある。この言葉に沿って考えれば、インターネットは「本音」でものを言う場を解放した。元来日本の文化の中に、「勇気をもって」「本音」を語る人間を礼賛する風潮がある。その傾向がどんどん助長されている。そして日本の若者が「本音」で語ると、差別、拝外。ある先輩が、「本音と建前」を「現実と理想」の文脈と取り違えていると指摘していた。維新の会代表は、そのために国際的に袋叩きにあった。「本音と建前」は国際的には全く通用しない日本の地方文化のようだ。理想をあくまで理想として語り続ける事が、外交と政治の国際基準だ。そして理想は「建前」ではない。
戦後の民主主義教育は、日本にどれだけの事を植え付ける事ができたのだろう。民主主義は「建前」にすぎず日本人の「本音」にはなり得ていないのだろうか。自由民主党という政党の存在に西欧人は首をかしげるという。自由主義、民主主義についてどれだけの人間がしっかり語れるだろうか。その違いを鮮明に表現できるだろうか。いや、我々は、自由主義、民主主義と言う言葉をどう使っているのだろうか。戦後民主主義は、占領国によって一方的に与えられた。長い苦難の末に一歩一歩闘いとるような過程を踏んでいない。そのため、「自由主義」、「民主主義」は深く考え込むことなくは無定義述語のように安易に使われてきた。相手を批判する道具としてこの言葉を使う事はあっても、その中身について腰を据えて考える事がどれだけあっただろうか。その付け払いが迫られている気がしてならない。
生徒に学級討論をさせる。たとえば文化祭の取り組みについて。議長はまずアイディアを求める。何件かの案が板書され一段落すると、多数決をとって、最大票を獲得した意見が採用されておしまい。後期中等教育完成の高校3年生でもこんな風であった。私が
「それは民主主義でないだろう」
コメントを入れると、生徒はきょとんとする。
「民主主義とは、他人の意見をよく聞き、議論を尽くす事だ。できれば全員一致になるまで討議を続ける事が望ましい。」
と言うと、
「そんな事はじめて聞いた」
と返ってくる。私たちは学校教育を通じて民主主義を教える事ができているのか。教員が民主主義を知っているのか。実践しているのか。学校運営は民主的で、教員会議は健全な討論の場になっているか。こう書くとブラックジョークの様だ。更に言うなら、この国の最高議決機関、国民の1/100000以下のメンバーで構成されたスパーエリート集団の議論の様子は民主的か。自分の主張を一方的に語り、他人の主張は野次と怒号で消してしまう。それを手本に子どもたちは育つ。
 民主主義の基本理念である、あらゆる個の平等な尊重を、学校教育で教える場は殆どない。逆に、学校での生徒の行為は、数値化され序列化されている。進路先の偏差値、学校の成績、クラス内順位、あらゆるスポーツに順位がつき、文系クラブにもコンクールがある。その「成果」だけが重視され、目的と結果はすり替えられそのこと自体が忘れ去られている。他者は自分の相対的な位置を決定するための道具になる。社会に出れば最後には貨幣という絶対的数値基準が存在する。現行政府が、短期的な経済繁栄と排外的外交を政策をセットとして掲げるのは偶然でない。お金を儲けて、他人を見下して暮らす。それが「本音」なのだ。序列化すれば、上を見ても下を見てもきりがないから、序列化の中で自己を定めようとすれば、必ず「自分より下」を同定する作業が始まる。学校は、毎日丹念に差別と排外主義を教え込んできた。いじめを助長してきた。
私たちは、理想を語る事のたいせつさを忘れてはならない。いくら現実離れしていてもそれは決して「建前」ではないのだ。民主主義をどう教育するか、その前に教える側がどう理解し実践するかしっかり考えたい。
 と、「理想論」を語ってみたくなった。