ものつくり

ものつくりの文化が日本から、子供達から失われている。『創るセンス工作の思考』(森博嗣著 集英社新書)は私の言いたいことを詳細に伝えてくれている。


50年以上前、秋にもなれば、ゴム動力飛行機の大会は全国至る所で行われていた。どんな田舎に行っても、細長い袋に入った飛行機材料セット(実物大設計図・竹ひご・角材・リブ・プロペラ・アルミ管・雁皮紙・ゴムなど)を手に入れることができ、何割かの小学生は飛行機を組み立てる事ができた。組み立て方、調整の仕方は年長者が教えてくれた。子供の科学、模型とラジオ、ラジオの制作、初歩のラジオ等の子供向け工作月刊誌は、田舎町の本屋で手に入った。また結構規模の大きな模型屋さんがあって、プラモデル、鉄道模型、ラジコン飛行機まで様々な工作材料がぎっしり棚を埋め、休日はいつも満員。安価なプラモデルとそれに組み込む「マブチモーター」くらいは近所の雑貨屋でも手に入った。
私自身、ふとしたきっかけから子供の科学を読み始め、それまでの模型作りから電子工作に移行。上記の雑誌を各号表紙がボロボロになるまで読んだ。さらに勉強したくてNHKラジオ技術教科書2冊に手を伸ばす。小遣いが溜まったら、時間をかけて秋葉原のパーツショップへ出かけた。総武線ガード下のパーツショップ街は、休日には子供から大人まで大混雑。


工作の世界は、子供にとって自分の力を自由に伸ばす絶好の場。誰に強制されるでもなく、自分で構想し自分で作る、完全な自己管理の世界。時間は無制限にある。じっくり時間をかけて完成にたどり着けば良い。(半田鏝切って早く寝ろとずいぶん叱られたが。)できあがった物の評価は、自分の満足感による。他者と比較されたり、序列化されることがあっても(飛行機の滞空時間を競ったりとか)それのみが目的では無い。そして制限なく難度の高い世界へ登って行ける。(最後の問題は小遣い銭!)子供向け科学雑誌は、更に難度の高い大人向け雑誌へ、更に専門書への道を開いてくれた。私自身、小学校高学年から中学生の間電子工作に明け暮れた体験が、その後の人生にどれだけ役に立ったか、はかりしれない。


プログラミングとは段取りの抽象化で、情報処理を必修科目にして共通テストに組み入れたら、日本人の情報処理能力が上がるだろうと考えるのは、それこそ小さい時から受験勉強しかしてこなかった人間の発想。手製の郵便受けを作ろうと思ってその段取りを考えたり、晩飯に酢豚を自炊しようとその構想を練ったりそういう実体験の積み重ねがアルゴリズムに強い人間を生む。


先の森氏の書物にも詳しいが、もの作りが最初から構想通りに完成する事はまずあり得ない。想定外のトラブル群に必ず遭遇する。それをとにかく一つずつ解決しなければ完成に至らない。予め用意された解決法は無く、全く新しい対処法を考えなくてはならない場合がある。どれだけ実害の少ない妥協をするか迫られる場合がある。限定された分野の、予め用意された正解に、できる限り短時間でたどり着くためのトレーニングとは根本的に違う。受験勉強とは全く異なる発想の世界が、あった。少年期にこういう体験を積んだ人々の中から、柔軟で独創的な技術者集団が育ち、科学技術の発展を支えたと思う。


現在、子供の世界での、ものつくりの退潮は驚くほど。私の少年期を振り返ると、ゴム動力飛行機やプラモデルは、程度の差こそあれ小学男子の大半が手を染めた。電子工作を趣味にする子も中学で学年に数人はいた。現在、上記の子供向け工作雑誌は、『子供の科学』以外すべて廃刊。かつてあれだけ繁盛していた故郷の模型屋は小さなプラモデル屋さんとして細々と営業している。ゴム動力飛行機の組み立てセットは、かろうじてネットで手に入るくらい。けっこうな広場に行っても、飛行機を飛ばしている子はいないし、北風が吹いても凧を揚げている子すら殆どいない。


その主要な原因として、森氏はコンピューターゲームの普及を指摘しているがそれだけではないだろう。むしろ、日本全体がものつくりの文化を喪失してゆく、その過程の象徴ではないだろうか。「経済成長」とは、生活のあらゆる領域に商品経済が浸透し、人とものとの関わりの直接性が失われていく過程だった。これについて考えなくてはならないことは他に委ねるとして、一つだけ例を挙げる。
1960年代、テレビやラジオを購入すると、「配線図」がウラに貼り付けてあった。これは今の若い世代には信じがたいことかも知れない。昔のテレビ・ラジオはよく故障したけど、多少電気の知識があれば、自分で修理できた。


これからの激動の時代、ものつくりの創造的な体験は教育にとって大切な課題だと思う。
ある意味で条件は揃っている。インターネットを通じれば、昔模型屋さんに並んでいた素材は今でも十分購入可能。むしろ豊富。電子技術は驚くべき進歩を遂げた。真空管は国内製造中止、関連部品も次々製造中止。しかし一方、ラジコン送受信機など軽量小型化した物が数十分の一まで値下がりしている。更に、コンピューター。スマホでも大学の計算機センターに鎮座していた機械を遙かに凌ぐ。高度なプログラミング言語を簡単に入手できる。コンピューター制御できるモーターが安価で手に入る。子供達が、自立型ロボットを趣味で組み立てられる時代が来た。レゴ・マインドストームなんて夢のようだ。教材にしている学習塾もある。十代で出会わなくてむしろよかった。出会ったらひどいことになったと思う・・
インターネットからは、あらゆる分野のものつくり情報が得られる。飛行機、オーディオ、ロボット・・本当に何でも。ものつくり文化を引き継ぐおじさんは、まだ沢山生き残っている。親から子へ、年長者から年少者への伝承が失われても、インターネットがその代役を務めてくれる。問題はこういうものつくりの世界へ子供達を導く回路をどう設定するかだ。(各種ロボットコンテスト、それに対応するロボコン部などは一つの役割を果たしていると言えるだろう)。


消耗な受験勉強を強制するかわりに、ものつくりに熱中する時間を子供達に与えたい。勿論、ものつくりなんて大嫌いな子、不得手な子もいる。スポーツに、音楽に熱中する子もいる。たいせつなのは子供達に自発的に活動空間を選べる自由で豊富な時間を与えること。何かに熱中する世界をひらいてあげること。
ものつくり体験を積んだ子供達が、無理な受験勉強をせずとも入学できる中堅大学に進学し、いわゆる「難関大学」出身者を凌ぐ優れた技術者・研究者が多数育つ、そのような時代が到来しないだろうか。

議論を教えること

最近の国会で驚いたこと。

菅総理は「GOTOが感染拡大の主要な要因であるという科学的証拠はない。」からGOTOを続けると言う。ここの理屈のおかしさを野党は追及しない。総理は自覚的に詭弁術を用いているのだろうか。それとも本人も、これは論理的に正しい答弁だと思っているのだろうか。

毒が入っていることが疑われる饅頭を、「毒である科学的evidenceはない」から食べる者はいない。「毒ではない」保証を得てはじめて食べる。

このような詭弁が公の場でまかり通ることが増えた。そして詭弁である事を追求し、そのような論述が潰される事も少ない。また、仮に論理的破綻を追求されても発言者が居直る。

民主主義とは、議論が尽くされることである。『正しい推論の規範』と『議論の過ちを論者が認める倫理規範』が共有されなければ、民主主義は成立しない。選挙の負けを負けたものが認めなければ、選挙そのものが成立しないのと同様。

規範に沿った議論をすること。議論の正しさを判定すること。議論に負けたものがその負けを認めること。これらをどこかでしっかり教える必要がある。民主主義を育てるために。国の最高議決機関や、国政の最高責任者がそのお手本にならないとき、どうやってこれを教えたら良いのだろう。前にも書いたけど。

プリンターメーカーの不誠実

 印刷用にキャノンMG6230 を使ってきた。インクがあまりに高いので調べてみると他のメーカーから詰め替えインクが出ている。まず残量を計測するICチップをリセットし、ふさがれている補充穴を用具で開きインク補充するだけ。最初に、リセッターと坑あけ道具の付属した補充インクを買い、次からは補充インクだけ。これで4年間過ごしてきた。カートリッジは最初に付属していたものを使い続けた結果、インク代はおよそ十分の一程度に抑えることができた。

 そのことに腹が立つ。なぜキャノンがやらない。最初からインク補充用にプリンターを設計するのは容易いことだ。カートリッジにインクを補充するにしても、操作しやすいようにカートリッジを設計し、補充終わったら残量計を初期化できるようにすることぐらいやろうと思えばすぐできるはずだが、やらない。その上インクがやたらに高い。(最近大容量タンクを装備したプリンターが多少出回り始めたが、大半は並行輸入品。以前から海外では売っていた!)プリンターを安く売りつけ、高額の「純正」インクで儲けを出している。マニュアルには、純正品以外を使用した場合修理には応じないとの恫喝まで記載されている。

 そこに、今夏エラー番号B200を食らった。「電源を抜いて修理に出せ」とメッセージが出るだけで何の原因も表示されない。調べてみると有名なエラーでcanon error code b200で検索すると、39400件ヒットした。実はこのエラー1年前にも出て今回2回目。前回は、ネット情報をもとに、プリンタヘッドを洗浄し回避することができた。一日水に漬け、一日乾燥させるだけ。今回も同様の処置をしてみたが1回目駄目。2回目もう少し時間をかけてやってみたが駄目。インクで信用できないところこのエラー。プリンタを制御しているCPUのプログラムは、ほぼブラックボックス。適当なところで自爆し買い換えを促す様にできているのではないかと勘ぐりたくなる。 実際修理に出せば1万円以上。プリンタヘッド自分で交換すると7千円、ちなみに純正インクセットは4千円。ところが、昨年9月発売のプリンターMG3630が6千円で買える。そんな馬鹿な話があるか。ここでまた腹が立つ。量販店の店員の話を聞いても、修理に持ち込み費用を聞いて大半の人が新製品に買い換えるという。

 調べてみるとService Mode Tool なるプログラムもネットに公開されていてこれを使うと様々な内部定数をリセットできるらしい。ここまでやる人はほとんどいないだろう。動かなくなった冷蔵庫について、基板を取り出し特定の端子をショートするとリセットできることを知り、直したことがある。廃熱部にほこりがたまって温度が一定の値を超すと止まり、二度と動かなくなるようCPUがプログラムされていた。この仕組み自身は大切なのだけど、使用者が掃除して復旧できても良いではないか。大抵の主婦はサービスマンを呼び、「修理不能だから買い換えなさい」と言われたらそれに従うしかないだろう。

50年前のテレビやラジオの裏面には、配線図が貼り付けてあって、多少電気の知識があれば、その図面を頼りに修理することができた。真空管の時代だ。劣化しやすい電解コンデンサーなどをたどれば大抵直る。高校時代、我が家の白黒テレビを何度か修理した。そうやって10年ほど使い続けることができた。技術が人間に友好的だった時代、メーカーがユーザーに対し多少なり誠実だった時代がなつかしい。

 少数の企業による市場の独占と消費者の都合を無視した利潤の追求、それを可能にする科学技術の高度化・ブラックボックス化。インターネット上には、この陰謀を打ち砕くべくエラー回避の方法を追求したページがたくさん出てくる。がんばってほしい。消費者に不誠実な企業はつぶれるような社会を作らなくては。

国立大学文系学部廃止に何故怒らない

経緯説明と基本的反論は、内田樹氏の投稿 http://blogos.com/article/113789/に大凡尽くされていると思う。支持する。私が問題を感じるのは、当事者が怒らないことだ。国立大学文系学部廃止が如何に愚策であるか、精緻な議論を展開するに最も適任な人々が、今回の廃止論のターゲットになっている。哲学的に、教育学的に、政治学的に、歴史学的に、・・あらゆる観点から反論が続出するはずだ。(だった。?)この種の議論について日本の最高峰が集結した場所を潰そうというのだから、本来ゴルゴ13を暗殺するくらい難しいはずだ。こんな恐ろしい政策を立案するには大変な勇気が要る。

どのような反対運動を展開すれば有効な反撃ができるか、全歴史上から、現在の全世界から反体制運動の情報を集約し分析する事だって、している人が何人もいるはずだ。例えばネットで見てみれば「日本労働社会学会」なる学会だってちゃんとある。『産業・労働に関する社会学の研究者を中心に、その実証的・理論的研究の発展を目指して』いるらしい。あなた方自身の労働が脅かされているのです。今こそ研究の蓄積を実践に生かす時です。労働運動のあるべき姿を私たちに、特に次世代を担う若者に見せてほしい。

弱肉強食の私立大学について以前書いたときにも、同様の疑問を書いた。何故大学人が団結できないのだ。

今、学校が抱える様々な問題の根幹にあるのは、教育について大まかな合意が崩壊してしまったことだ。明治維新後の国家建設、太平洋戦争後の復興と民主国家の建設、教育の役割について幅広い国民的合意が形成されていたはずだ。遠い未来を視野に入れ次世代に託す理想があった。70年代以降日本が豊かさを具体的に享受し始めると同時に、この合意が崩壊し次第に個人主義に取って代わられて現在に至る。丁度その課程で私は教員をしてきた。学校の教育は少なくとも生徒と保護者の合意がなくては成立しない。国民の合意からから理想主義が消えれば、学校で理想主義的教育はできない。遠い未来など考えなくなっている。目先の物質的繁栄。時間軸がどんどん短くなる。今回の文系学部廃止論は、教育とは何かをかんがえる絶好の機会だ。教育とは何か、文科省の垂れ流す新自由主義的教育観に対抗しうる、新たな合意形成を目指そう。

大学文系学部の教員学生の皆さん。自分の営為に自信と誇りがあるなら、大いに怒ってほしい。団結して反撃してほしい。文系学部の必要性を、これまでの全研究成果をかけて語ってほしい。闘うことで、理論は深まる。闘いながら、教育とは何か考え直そう。退官を迎えた団塊世代の先生方、失うものは何もない。昔取った杵柄、大いに暴れては如何。

もし有効な反撃もできないまま文系学部が廃止されていくなら、所詮その程度の文系学部。
潰れてもしょうがないか。

東大・京大、高校別ランキング

 週刊朝日。情けない。何故天下の朝日新聞系列雑誌がこのような事をするか。しかも、新聞広告では特大見出し。朝日は教育問題について偉そうに論じる資格を自ら手放している。マスコミとは元々そのようなものだ、と言われればそれまでだが。
 『どの大学に入学できたか』がその人物の評価として大手を振るうことの愚かしさを、今さら論じるつもりはない。ここで書いておきたいのは、高校が、高校教員がこういう事に大きく縛られてしまうことの問題点である。ランキングを熱心に読むのは、保護者よりも高校教員ではないだろうか。高校受験生は、もっと詳細なデータをいくらでも手に入れられる。別項で書いたベネッセなど、生徒一人一人がどんな偏差値で高校に入り、どれだけの偏差値で高校を卒業し、どのような進路をとったか、詳細なデータを握っているのだから。その気になれば、高校入学者平均偏差値と3年間の偏差値推移を高校別に示すことが出来る。
 『中学生およびその保護者が高校を選ぶとき、その高校の大学合格実績が主要な指標になっている』と言う意識に、高校は集団意識として縛られている。2006年あたりから次々発覚したいわゆる「世界史未履修」はその象徴だろう。後期中等教育の教育目標を捨てても、合格実績の方が大事と考えて運営されている高校がどれだけ多いか、その一端を世間に晒した出来事だった。社会問題になったのは、氷山の一角。類似行為で肝を冷やした学校はまだまだ多数あるはずだ。
 近所の人や子供の友人の保護者等と接して感じる本音、親が高校教育に求めることがらは、はるかに多様だ。勿論進学実績も大きな指標だし、それしか頭にない親もいる。が、それはあくまで保護者の一部にすぎない。
 では何故、高校は、大学合格者実績にこれほど縛られるのか。それは、今の日本社会で高校の教育力を示すものとして共通に了解されているものが、これくらいしかないからだろう。高校教員がそれに縛られ、社会もそれに縛られる。人間形成、自由、友愛などは売りにならない、と多くの高校が信じている。現代社会を理解するための基礎教養であるはずの世界史を、履修したふりをして教えないなどということが、全国各地で起きているのだから。主体性、実行力、努力、忍耐、立身出世の手段や受験勉強の助けになるような「人間教育」は逆に進学実績と共に強くアピールされる。競争社会の勝者を育てます。短く言えばそういう教育理念がインターネット上の高校ホームページには溢れることになる。
 仮に乗用車が、各社ともその最高速度だけを宣伝材料に使い続ければ、車を買う方も、車選びの基準はスピードになってしまうだろう。快適性、安全性、便利性、経済性、保守性、堅牢さ、美しさ・・・など他の価値は忘れられる。ますます各社は最高速度を競う。
少子化が進み、高校はこれから入学生徒急減期を迎える。公立学校の広域学区制は全国に広がった。公立、私立全体での生徒争奪戦の時代だ。受験産業によって、高等学校は地域ごとに序列化され偏差値30から70まで詳細なランキング表がインターネット上に公表されている。高校毎に生徒の学力が輪切りされていく。ランキングが下がり、学習意欲の低い生徒が集まれば、それだけ学級崩壊、学校崩壊の危険性は高まる。授業内容よりも生徒管理に必要なエネルギーが多くなる。しっかり落ち着いて授業を聞いてくれる生徒の前で、授業をしたい。さらに、私学にとっては、生徒を安定的に確保することは経営上の死活問題。こうして高校教員は進学実績向上に走る。そして、ランキングを上げるには進学実績を上げる他ない、との思いに多くの高校が縛られている。それ以外の方法を見いだせなくなっている。
 これはある種のサービス競争だ。授業時間、補習時間、勉強合宿、模擬試験は多い方がよい。太平洋戦争当時の日本と同様、冷静な判断より勇ましい議論が勝つ。こうして高校教員は、自ら際限ない過重労働の道を歩む。
学習の動機付けも、「入試に必要」の一辺倒になり、教える教員も何故高校生に今これを教えているのかわからなくなる。生徒も今何故勉強しているのか、「受験」以外の理由を思いつかない。冗談ではない。世界史未履修事件はまさにそれを教えている。受験科目以外の教科は、評定平均を良くして、推薦入試、AO入試に有利にすることが唯一の動機付けになる。
 全ての高校がそうではない事もわかる。ランキング表の上位に常に顔を出す「名門校」の中には、それこそリベラルアーツの理念に基づく「理想的な?」教育を行っているところがある。「受験に関係ない」こともしっかり教える。米国のプレップスクールのように大学で伸びる生徒を育てる。学校では教養と基礎学力を高め、受験技術は塾・予備校。とりたてて競争しなくても、他の学校が激しく競争すればするほど、自然に「優秀な」生徒が集まる。そういう学校もある。
 一方、4年大学制進学者は高校生の約半分、更に、それなりの受験勉強を必要とする、つまり週刊朝日に名前を出すような「難関」大学は、偏差値55以上と見て正規分布表から概算すれば、全体の約3割。ランキング表に関わるような進路選択をする生徒は、大きく見積もっても全高校生の20パーセント以下だろう。逆に中学卒業程度の学力があれば入れる大学も沢山ある。「受験」が学習動機付けにならない生徒を相手に、熱心な教育活動を行っている高校は数多く存在する。それらの学校にどうやって光が当たるか。
 人間にとって最良の行動は、競争から生まれる。教育の効率を上げるには、競争原理を持ち込めばよい。この偏狭なネオリベラリズム教育観により、英国サッチャー政権・米国ブッシュ政権がとった方針を、数十年の遅れを伴って日本は追従している。学校間で競争を煽られ、教員間で競争を煽られる。学校間の、教員間の横のつながりは分断される。そのお先棒を担ぎ競争を煽るような真似はやめてほしい。
 全国の高校で、大学で、偏差値とは関係なく良質な熱意溢れる教育を行っている所は、いくらでもある。現に、私の子供は週刊朝日ランキングから無縁な大学で、素晴らしい指導教官に出会い大きく成長した。マスコミ本来の役割は、偏差値に象徴される一元化した教育観を相対化し、教育の多様性に読者の目を開かせる所にあるはずだ。週刊誌もまた、過酷な部数競争に晒され、良心などかなぐり捨てて読者の劣情に迎合しなくては売り上げが伸びない、のですか。

タブレット端末への期待

朝日新聞にタブレットコンピュータと教育についての3人の論考が出ていた。(14.8.23)
タブレットはとてつもない機械であることは間違いない。私が思いつくその機能を列挙してみる。
◆電子辞書
ここ数年で、電子辞書はかつての電子手帳と同じ運命をたどるだろう。既に、学校に紙の辞書を持参する生徒は殆どいない。(だろう。全国調査したわけではないから。)電子辞書は広く普及している。価格を維持する高機能型には、数十種類の辞書のほかおまけとして数多くの受験参考書が組み込まれている。一方辞書機能に特化した物はどんどん安価になる。しかし、スマホにかなわない。スマホ買えば、それに安価なアプリを追加するだけで辞書になる。2つ持つのは不合理だから、電子辞書を買わない生徒が増えている。学校は携帯の授業中使用を禁止している。持ち込みを禁止している学校もあるだろう。そこで、スマホに組み込まれた辞書は悩ましい問題になる。
タブレットの普及は、電子辞書の衰退に追い打ちをかけるだろう。紙辞書のように記述の全体を見回すことが可能になり、反電子辞書派も反論ができなくなる。更に、様々な電子辞書の検索機能は紙辞書では実現できないことをやってのける。例えば、同一の語幹、同一の語尾を検索する機能は単語学習を効率化するだろう。その上、テキストとのリンクが可能になり、テキストをタッチすれば辞書ウィンドウがひらいて、意味を調べた上で発音を確認できたりする。
◆電子書籍
既に、使用教科書の全てをタブレットに組み込み、教科書を持ち歩かない学校があると聞く。高等学校3年間で使用する教科書全てを電子データ化してタブレットに組み込むことは、タブレットの機能からすればたやすいことだ。その上に大学受験に必要な参考書や問題集の全ても余裕で組み込める。そして紙ではできない機能を数多く付加できる。図版は大型で美しくできるだろうし、動画付きの教科書だって可能だ。家庭科の教科書には、魚の捌き方が動画で出ていたりすると楽しい。英語のテキストは全て音声をリンクできるだろう。先述のように、テキストは全て辞書とリンク可能だ。更に、同一書籍内部や書籍相互のリンクを設定できるから、例えば数学の教科書は問題集の対応問題にリンクし、問題は模範解答集とリンクできる。問題集の[ヒント]をタッチすると、教科書の対応ページにジャンプするような機能の組み込みも簡単だ。教科書と問題集と模範解答を机の上にならべて勉強するかわりに、机の上にタブレットがあればよい。
高校生向けの推薦図書など殆ど電子化されているから、簡単に手にはいる。国語の教科書に出てきた作家について、他の作品を紹介する。英文に接する機会を増やすために、英文の絵本やファンタジーなどを提供することもたやすい。
◆高機能関数電卓
英国では機能を統一した関数電卓を数学を学ぶ生徒全員に購入させる。教科書も関数電卓で処理する頁があり、試験でも関数電卓を使用する問題がある。タブレットは高機能関数電卓として使用できる。現在のスマホでも無料アプリとして関数電卓がついてくる。iPhoneでは縦にすると普通の電卓だがこれを横にすると関数電卓になる。英国の高校生が購入する関数電卓(メーカーはカシオだった!)と同程度の機能を持ち三角関数や指数対数関数の計算が可能になる。タブレットも同様で高校までで出てくるあらゆる数値計算を処理できる。更にあらゆる関数の描画・グラフ化が可能。かつては、高級関数電卓だけがグラフ描画機能を持っていた。空間図形を描いて、自由に視点を移動させたりすることは、人手では決してできなかったことだ。更に、数式処理ソフトも安価で手にはいる。およそ高校生までに学ぶあらゆる数式処理がタブレットで可能だ。因数分解や展開は当然。解ける代数方程式は全て解く。分数、累乗根、虚数を組み合わせた代数的解を瞬時に示す。教員でも頭を抱える複雑な積分も一瞬。しかもそれが雑誌一冊の大きさで手軽に持ち運べる。タブレットを全員が持っていることを前提としたとき、数学教育は変わらざるを得ないだろう。理系の技術者として仕事をしていても、計算処理はタブレットに任すことができるのだから。
◆小型PC
ワープロ、表計算、画像処理などPCにできることはすべてできる。テキスト入力に専念するときはキーボードを付加すればよい。教育ソフトも同様で、個別学習機器としての機能を果たす。コンピューター室で行っていたことが、普通教室で、自宅で、通学途中の電車の中で可能になる。
◆ネットワーク端末
教室に無線LAN機能を用意すれば、これまでコンピュータ室でしかできなかったPCネットワークを利用した授業や、LL教室で行っていた音声教育などをタブレットは簡単に代行する。問題を解かせてその結果を教員が集計したり、誰かの解答を全員に提示したりできる。アンケート調査もできるしクラス討議の投票も、生徒委員の選挙もできる。ソフトさえあれば。
また、学校では結構たくさんの配布プリントがある。授業の参考プリントから、様々な案内プリントまで、書込用でない物はすべて電子的に配布できるだろう。それも必要な生徒だけ選択的に配布できたりもする。学校は膨大な紙を消費する。多いに節約できるはずだ。更に各種申込や生徒提出書類、この集約は担任にとって結構手間な仕事なのだけれど、かなりの部分電子化できるはずだ。ソフトさえあれば。
既に多くの大学の授業がそうであるように、板書がパワーポイントに変われば、パワーポイントのデータを取得すればノートをとらなくてすむ。黒板の手書き文字を電子化する電子黒板もあって、生徒はノート取りから解放され授業を聞くことに集中できる。?
◆インターネット端末
PC同様インターネットサービスを享受できる。調査して、レポート作成する等PC室でしかできなかった事が教室で、自宅で可能になる。
教育で注目されているのが動画配信。タブレットを全生徒が保有すれば授業を自宅で受けられる。話題の反転授業。授業は宿題として自宅で、学校では発表と討論なのだそうだ。授業も、別に担当の先生でなくてよい。有名大学の先生でもよい。現在教科書を採択すると、教科書のサービスとして、全てのテキストの電子データー、定期試験用問題サンプルの電子データ、更にパワーポイントを用いた授業用の板書データまでついてきたりする。そのうち法定時数分の授業動画が附属する時代が来るかも知れない。全国の生徒が同じ先生の動画で勉強する時代が来るか。既に有名予備校では動画配信授業が一般化している。世界中の多くの大学が講義の動画配信を行っている。全国にたくさんの姉妹校を抱える巨大私立など動画配信同一授業は簡単に実現できるだろう。全国から授業の上手い教員を選び出し、動画配信に専念する体制を作ればよい。また、通信制高校、通信制大学などもタブレットの普及により更に広がるだろう。何時でも何所でも授業が受けられる。
◆デジタルカメラ、ビデオカメラ、音楽演奏、動画再生、メトロノーム、ストップウォッチ
実験、自然観察、フィールドワークの報告などリアルな物が作れそうだ。遠足、研修旅行のリアルタイムレポートも作れる。
体育の時間には模範演技を動画で見せる。跳び箱飛んでる様子を各個人に配布する。音楽鑑賞もタブレットで。実技演奏も収録して各個人に配布。タブレットアプリのメトロノームは高性能で見やすい聞きやすい、電子チューナー(調律器)もタブレットで代用できる。
運動部でも、一流プレーヤーのフォームをスマホやタブレットで学び、自分のプレーをタブレットで撮影確認する事は既に始まっている。野球のスコアブックも画面タッチだけで簡単につけられる時代だ。陸上で複数の選手が周回しているラップを1人で集計したりもできるだろう。
要するに、アプリケーションを組み込むことで様々な機械に変身する機械なのだ。
◆センサーの活用
タブレットやスマホには3軸加速度センサーが組み込まれており、時系列でデータを取り出すアプリもある。上方に放り投げてみるだけで結構面白い。物理では様々な実験ができるはずで、すでに、授業研究としてインターネット上に発表されている。台車にタブレット取り付けて斜面を走らせ、結果を見る。超高層ビルのエレベーターにタブレットもって乗り込み加速度の推移を計測したり、旅客機離陸の際の加速度を測定したり、今まで殆ど不可能だったことができるようになった。機器を付加すれば、速度、温度、PHなど実験データを時系列でとりだし、グラフ化したり計算処理したり、高度なデジタル計測が手軽にできるようになる。
タブレットのセンサー機能を最大限生かしたアプリとして感心したのは、星座早見盤。タブレットを空にかざせばその方向にその日その時見える星座が示される。現在地の緯度経度がわかり、現在の日付時刻がわかり、タブレットが向いている方位と地表に対する角度がわかって初めてできることだ。

思いつくところを列挙してみただけでこれだけ書けるが、まだまだ未知の可能性がある。例えば現在急速に進歩しつつある音声認識技術。既に話しかけに応答するスマホがある。話しかけるだけで機器が操作できれば教育機器としての可能性は随分広がる。でもこれでいいのだろうか。

タブレット普及への懸念

既に、PCの普及で学校には電子メディアが深く浸透している。小学生がインターネットで調べ物をし、プロジェクターを使ってプレゼンするのは当たり前になっている。生徒がPC室に移動して学習するスタイルだ。これまでは、一人一台機器を所有するまでにはならなかった。一部の私立学校でノートPCを全員所有したりしているようだが。タブレットの登場で言われているのは一人一台の所有で、これは、教育に新しい事態を招く。全員の所有を前提にすれば、、宿題の配布、動画配信による予習授業など、電子メディアへの依存を飛躍的に高めることになる。生徒への全員配布は新聞報道にもあるように一部自治体で始まっている。そこで私が感じる懸念について列挙してみる。

◇電子メディアによる教育の壮大な実験
教育の何所までを電子メディアに依存できるか。その目安は未知である。教員が黒板(白板)に手書き文字を書いてみせるのをやめたら、どうなるか。紙の教科書を廃止したら生徒にどういう影響を与えるか。動画配信による授業はどのような結果をもたらすか。子供たちが電子メディアに大きく依存して教育を受けると、結果がどうなるのか、私たちは知らない。やったことがないのだから。
 私自身、仕事でPCを使い始めたのは大学を卒業してからだ。(そのころ「8ビットマイコン」が売り出され、従来大型計算機センターに持ち込むような処理を机上で処理できることに感激した。)従来の媒体で教育を受け体験を積み、その上で電子媒体に移行した。以来35年以上PCを使い、それに深く依存しているけれど、基礎となっているのは、紙・手書き文字・肉声・肉体の世界での体験だ。これが、大きく失われたときどんな結果を招くか想像がつかない。
現時点での我々の文化はそうやって創られてきた。我々の文化は、我々の肉体に規定されて生み出された。その基本である言語がそうであるように。母親の話しかけだけで人間は言語を獲得しうる。それをどこまで電子メディアが代行しうるか。
 我々自身あくまで肉体的な存在であり続ける。食事をし、排泄して生きている。生殖行為により母親の肉体から生まれ、老化して死に至る。ネットワークの中に電子データとして意識が存在するのはSFの世界。テレビ電話では孤独は癒されない。肉体的な他者の直接存在を前にして人間は初めて心を落ち着かせる。
 本来、実験校での様々な試み、研究授業、研究発表を経て、可能性や一般化できる事柄を見極めるべきだろう。これには随分の時間がかかるはずだ。恐らく十年単位の。その猶予があるのだろうか。安易な電子メディアの普及は、日本の教育全体を壮大な実験場にしかねない。失敗し後戻りできなくなったらどうするのだろう。電子メディアでの教育は、同時にそれしか知らない教員を排出し続けるのだから。高校生は4年たつと教員になる。
 急速に電子メディアが浸透したとき、格差の拡大を最も懸念する。文化の本質的肉体性を学校=公教育以外の場で獲得しうる子供とそうでない子供に、現在以上の深刻な格差が生まれるだろう。現状の格差も基本はこのことに由来していると思っている。それが更に拡大するだろう。
そもそも、現在の集団授業を基本とした公教育自身、近代国家の構成員を効率よく生み出すために作り出された歴史の浅いシステムで、その見直しが迫られている時だ。20世紀の教育スタイルを見直し、ゆっくりと21世紀の教育スタイルを模索する。そういう余裕がほしい。

◇インターネット依存
これは、既に議論されている。生徒にタブレットを配布することはインターネットの世界を公認し導き入れる事になる。ネット上のSNS依存が子供たちをどう育てるか。結果の見えない実験は既に始まっている。これについては、多くの発言があるからここでは言わない。
単純に考えても授業中全員タブレットを出してネットワークに接続していたら、全員が授業に集中しているか監視する必要が出てくる。簡単に画面の半分でインターネット見たり、漫画読んだり、メッセージ交換できたりする。監視プログラムを走らせ、余計なアプリ開いていると教員が探知するシステムは可能だろう。でも監視プログラムを誤魔化すアプリだって開発可能なのだ。
 そこで思い出した。大学入試課の先生、中途半端な時間にネット上で合格発表するのやめて下さい。生徒が授業中に奇声を発する事があるのですよ。全国の高校が昼休みをとっている時間、もしくは放課後。理想を言えば、土曜日か日曜日にして下さい。

◇産業界の圧力
これまでもそうだったのだけれど、教育機器の浸透は、教育の内的必然によるものよりも産業界の圧力である場合が多い。教育課程への「情報教育」の組み込みがそうであったように。そして、教育の側からブレーキをかける手段が殆ど無い。誰ができるのだ。

◇ソフトの開発と値段
タブレットは夢のような機械に見える。が、それはその機能を生かすアプリケーションソフトがあってのこと。PCによる教育を行うにあたって私が在職中一番苦労をし挫折を経験したのは、LAN環境でのPCの機能を生かした良質な教育ソフトがないことだった。
そもそもソフトの開発には大変な手間がかかる。よく売れるゲームソフトなどは、優秀なプログラマー数十人が数年かけて作るといわれる。逆にこれくらいの手間暇かけなければ良質のソフトは作れない。開発費用は数十億円にもなる。百万本といった売り上げを期待できるから、この開発費が注入できる。Windwsともなれば、たとえばVistaで開発費用は5年で7500億円というデータが上がっている。一本2万で売っても億単位で世界中で売れるから成り立つことなのだ。(こういう規模でないとOSが開発できないことも、深刻な問題なのだが。)
 需要の少ないソフトはには良質な物が少ない、良質な物は大変高額になる。大量の需要が見込まれなければ良質なソフトは提供されない。コンピュータのソフトは価格の殆ど全てを開発費用が占める大変特殊な工業製品だ。したがって、私たちが良質な教育ソフトを手にするには、高額の費用をきちっと払う覚悟が必要なのだが今の学校にはこの認識がない。
コンピュータには値段がついているから予算化しやすいのだが、これを運用するソフトにはハード以上の値段がかかるのが普通であるという認識は学校社会になかなか育たない。ソフトにどれだけの費用がかかるかについての共通認識がない。問題集1冊千円で生徒に購入させたとき、それによって得られる効果は経験からおよそ想像がつく。しかし、教育ソフト購入して生徒に向かわせたとき何が得られるか、経験が乏しいから想像がつかない。前述のように壮大な実験がこれから始まる所なのだ。費用対効果を何所で誰が算出するのだろう。
 更に、教育の世界は著作権意識が大変乏しい。最近入試問題についてはうるさくなってきたけど、普通教育目的の使用の場合、文学作品に著作権費用は発生しない。(と思われている。私も正確に知らない。)恐らくその発想を勝手に拡大したものだと思うのだけれど、学校には問題集、参考書の違法コピーが溢れている。採用見本として持ってきた問題集を適当にコピーして自分のプリントを作るなどということが、比較的平気で行われている。さらに、ソフトやデータの違法コピーが同じ感覚で行われている。だから、最初から市場が狭い上に、著作権侵害が横行するために教育ソフトは売れない。
教育ソフトの開発には、経験とコンピュータの可能性について洞察力を持った現役の教員とその意向を実現するプログラマーの時間をかけた共同作業が必要なはずだ。小、中、高等学校それぞれ違うだろうし、各教科指導用、一般のシステム構築用、などかなりの種類にのぼるはずだ。これらの提供を一般の企業に委ねたとき、企業の採算が取れてなおかつ各学校や保護者が負担可能な額でソフトが提供される保障はあるだろうか。タブレットは電子書籍+電子辞書以上には使われず、あとはインターネット参照のオモチャを無償提供するに終わるような気もする。

◇教員の仕事
「ソフトは教員が作ればよい。」PCが普及し始めた頃そう思う者は多かったし、自分の興味関心からソフト開発をする教員も多かった。実際、やればかなりのことができる。成績処理システムを自作した学校は結構多かったようだ。(これらの学校では今開発した教員が定年退職を迎え慌てることになる。素人の作るシステムだ。維持管理と更新が本人にしかできない場合が多い。)学校の先生が作られた良質な教育向けフリーソフトも数多く存在する。また、LANが普及すればその維持管理も教員がやろうと思えばやれない仕事ではない。でも、次の例で考えてほしい。
「下駄箱は教員でも作れる」「校舎の雨漏りは教員でも直せる。」実際、私でも技術家庭の実習室にこもれば、結構よい下駄箱を作る自信はある。既成の物より生徒の使いやすい工夫を凝らした下駄箱だって作れるだろう。でも、教員にそんなこと依頼する者はいない。教員の仕事でないからだ。
コンピュータ関連の仕事については、何所までが教員のかかわるべき事で、どこから専門家に委ねるべきなのか、共通認識がない。下駄箱のような。実際の線引きも難しい。思うようにシステムを運用するのに、自分でやった方が早くて安い場合だっていくらもある。このことが、コンピュータに関して知識のある一部の教員に過重な負担をかける。場合によってはかなり極端な負担となっているのだが、周囲からはなかなかそれが見えない。また、困難な生徒指導から逃れるようにして、進んでコンピュータ関連の仕事に打ち込む教員が現れることもある。このことも、ソフトウエアのコストに関する認識を遅らせる要因の一つになっている。
このような現状で、タブレット端末が普及したとき、一部の教員に更にひどい負担をかけることになりはしないか危惧する。
 いくらできると言っても所詮素人。学校教員の作るソフトは、日曜大工で作る犬小屋程度と思った方がよい。(よくできた立派な犬小屋だってあるのだけれど。)長年安心して住める家は、プロにしか建てられない。

私は、教育の一部にコンピュータを用いることに賛成である。プロジェクター使って図表を生徒に示すことは随分してきた。手書きではとても追いつかない、関数の振る舞いを表現できる。また、ある種の学習ソフトが、学習の遅れた生徒の基礎トレーニングに大変有効であることもわかっている。機械の前なら間違えても恥ずかしくない。先述のようにタブレットがこれまでにない可能性を開くこともわかる。いかし、所詮道具だ。教育の、文化の肉体性を再認識し、機械の限界を見極め補助道具として賢く使用できたらと願う。

ベネッセコーポレーション

 2014年7月個人情報の流出でマスコミが騒ぎ立てた。ベネッセコーポレーションの持つ個人情報二千万件が、あるシステムエンジニアによって持ち出され、業者に転売され実際に使われた。世間では「流出」「個人情報の保護」について様々に語られてきたが、一つの企業が日本人の1/6の個人情報を握っていることそのものの恐ろしさを指摘した話をあまり聞かない。法律を犯してはいないから。しかし。
 全人口の1/6だが、若年層だけ見たらどうだろう。20才までの日本人については、一年あたり百十万人前後だから、20才までの人口の総計はおよそ二千二百万人ほどだ。流出した個人情報は主としてベネッセの商売の対象となる若年層のものであろうから、少なく見積もってもベネッセは日本人の若年層大半の、氏名・年令・住所を把握している。
 更に高校教員から見ると。2014年度、全国約5400校の高校のうち4665校がベネッセにセンター試験自己採点データを提供。2013年度9月のベネッセ主催の模擬試験受験者は40.4万人、2013年度大学入学者は61.4万人。また、任意ではあるが、生徒の受験結果の報告が求められ、ベネッセを利用している大半の高等学校がベネッセにデータを提供している。これらの数は全国模試を実施している業者の中で最大、母集団が大きいから相対的にデータは正確さを増し、更に受験者が集まる。予算規模も大きくなるから、問題も事後の解説も質が高くなる。大規模量販店と同じ事。規模が大きくなればなる程強くなり更に規模が大きくなる。
 ベネッセの模擬試験では所属学校と氏名の他に生年月日の登録が必要で、これをもって過去のデータとの結合をする。(同じ学校で同姓同名かつ生年月日が同じ生徒は確率的に大変少ない。)このデータをインターネットを通じ学校に提供する。これは高校教員に大変便利なシステムで、模擬試験を受け続ければ、個人の得点・偏差値の推移が即座に把握できる。大学の合格可能性を示せる。受かる大学を検索できる。インターネットに接続したPCを横に置いて、教員は生徒と進路指導個人面談をする。これらのサービスを電話モデムを使った「パソコン通信」の時代から行っており、模擬試験業者の中で最も早くそのシステムも最も使いやすかった。
高校毎の担当者が定められ、年に何度も学校を訪れ、とりわけ進路指導担当者としっかり人間関係を作る。電話連絡一つで学校に飛んでくる、丁寧なサービスを提供してくれる。
ベネッセはこうして、全国で大学進学指導をする大半の高校生の学力を数十年集め蓄積している。私も40年程前に受験し、電算機を使った結果表を受け取った。そのころ電子データの提供は無かったが、ベネッセ自身のデータベースはこの時代から稼働していたはずだ。
 考えてみれば、これはベネッセが全国の高校の学力とその経年変化を大半把握していることを示す。この学校は入学生の学力は低いが3年間でよく生徒を伸ばす、この学校は実績はあるが高校時代に生徒の学力をあまり伸ばしていない、10年前には底辺校だったが最近卒業生の学力が急激に上がった、とか簡単に分析できるだけのデータを持っている。同時に、全国大学入学者の学力とその推移を詳細に把握している。当該の大学の先生以上に正確に。
 毎年大学受験シーズンを前にベネッセ主催高校進路指導担当者対象の進路説明会が、地域別に何度か開催され、高校進路指導担当者はどの学校もほぼ確実に参加する。そこで各大学学部入試種別毎の詳細なデーター冊子が手渡され説明が加えられる。勿論ネット上でも公開され、前述のように生徒の偏差値とドッキングして検索可能である。この(同一の)情報をもとに各高等学校では大学進学指導をする。
 全国どこでもイオンモールがある。ベネッセの大学進学競争に対する影響力は、小売業におけるイオンモールどころの騒ぎではない。殆ど一元支配。
 ベネッセが大学を潰すのは簡単だ。「××大学はお勧めできません」と説明会で発言するだけで受験生は激減する。「○○大学△学部はねらい目」といえば受験生が集まりレベルアップする。大学の先生が、より評価される大学教育目指して日々重ねている営みも、ベネッセのひとことで消し飛んでしまうのだ。
 高校入試への影響力は、現在大学入試程強力ではないが、同じ事は必ず起こるだろう。小中学校の事はあまり詳しくないが、ベネッセのホームページでは、「全国小学一年生の3.1人に1人が進研ゼミを受講」とある。これだけの受講者がいれば、潤沢な予算を使って優れた教材開発もできよう。そしてますます受講者を増やす。

 ベネッセは日本の学校教育を支配する。私の職場では、ベネッセを「影の文科省」と呼んでいた。

『増補 教育の世紀』 苅谷剛彦(ちくま学芸文庫)を読む

 『階層化日本と教育危機』は面白い書物だった。十数年前、生徒達の変容の話題として、成績が正規分布から外れていくことがしきりに言われていた。小学校では地域によって、はっきり2つ山が出来る学校があると言われていた。調査と統計分析によって、そういう噂や憶測に鮮明な根拠を与えてくれたのが、苅谷氏の書物だった。家庭から子供が与えられる教育の格差が、そのまま学校教育での成績や意欲の格差につながっている。教育の機会平等を実現するには、こういう家庭教育の格差を政策的に解消する必要がある。これが苅谷氏の基本的主張である。
 文庫化された「教育の世紀」(ちくま学芸文庫)を期待を持って読んだ。主要には19世紀後半から20世紀前半にかけての米国教育思想のまとめであり、その点では面白かったのだが読後感がすっきりしない。なぜすっきりしないか考えた事をここに書く事にしたい。特に、この本の最終章は日本の教育批判に当てられ、そこでは前述の苅谷氏の主張が繰り返されるのだが、どうも実際学校で働く教師の実感から疎遠なのだ。
まず、興味深かった点から書くと、米国ではちゃんと議論していることがわかった。米国は封建時代を持たず、「人為的」に作られた特殊な近代国家である。国家を形成するにあたり、鮮明な建国理念を持っている。この理念を参照する事によって議論を進める事が出来る国だ。
30年ほど前、米国からのアフリカ系留学生に英会話を習った事がある。彼は米国の人種差別について厳しい批判を持っていたが、同時に建国理念のすばらしさについて誇らしげに熱を込めて語る。これは我々日本人にちょっと想像の付かない事で多いに驚かされた。
教育制度もまたこの国家建設の理念を参照しながら整備されていく。その過程を見せてもらったのは収益だった。
 逆にすっきりしない点で、まず気付くのは、語られている事が、教育学者の学説、政治家の主張、子供を学校に送る保護差の希望、学校で働く教員の主張、実現した教育制度の理念、こういったそれぞれ位相のちがう言説が同一平面で取り扱われている事だ。教育学会で主流となる考え方が、必ずしも制度的に実現するとは限らない。教員労働組合の主張が全教員の主張と重なりはしない。こういう点が峻別されていない事が、彼の本をわかりにくくしている。実際の日本の教育に関して彼の主張が実効性を欠く根本原因であると思う。
20世紀前半までの米国の教育と政治、大衆運動との関係はよく知らない。だからこそ、ひとつの教育理念を制度的に実現するにあたって、学者の思想、行政の政策と国民の運動、教員の取り組み、これらをきちっと区別して述べてほしかった。
さらに、日本の教育との対比で言うと、日本は1500年以上の歴史を持つ国で、特に封建制末期江戸時代には大衆に普及した優れた教育制度を既に持っていた。一方侵略の外圧から形成された明治政府、敗戦後連合国から与えられた民主主義と、近代国家建設に関しての鮮明な理念を欠いたまま成り立っている国である。国民誰でもが承認する基本理念を現実にわれわれはもっているだろうか。一学生が他国に留学しても熱く語れるような理念を。広く言えば国の近代化は一般には歴史的成り行きで、自覚的な国家建設をした米国がその中では極めて特殊なのだろう。
こういう歴史的背景の違いがあって、日本では教育理念、教育思想が深化しない。と言うか共通の了解を形成しづらいのではないか。米国と対比するなら、明治の始め教育制度がどのように整備されたか、どのような議論が、どのレベルでなされたのか知りたいところだ。
特に現行の日本の教育について、苅谷氏の批判が甘いのは、学会の主張と、文科省の主張、教員組合の主張などが単純に並列して論じられているからだ。戦後日本は、保守勢力と、労働組合を中心にした革新勢力のせめぎ合いで建設されてきた。基本は保守勢力の寄り切り。しかし労働運動を沈静化する必要からも、戦後直後は労働組合の主張も随分制度作りに生かされているはずだ。そのダイナミズムの中で教育の歴史を語らないと訳がわからなくなってしまう。1960年代初頭に80パーセントを超えた日教組の組織率は、分裂を経て現在30%を切って減少中である。
今、「学力」が政治の話題となり、学力向上、公立学校から有名国立大学への進学を可能にする教育政策が保護者から支持を得て展開されている。「学力が低いのは労働組合の所為だ」と文部科学省大臣が公然と発言する時代である。「学力向上」が票集めの道具になっている。これに対して、「革新政党」労働組合は国民を納得させられるような批判を全く行えていないままずるずると後退するのみである。苅谷氏の発言は、この状況とかみ合わせて読み取る事がどうしてもできないのだ。
 最後に、「学力」「教員の指導力」の規定が甘い。同じく近年文庫化された「学力と階層」(朝日文庫)の5章で教員の資質について論じた部分がある。教員養成系大学の入試偏差値と東大文Ⅰの入試偏差値を比べて、教員の資質低下を心配している。30年以上多くの教員の資質を見てきたが、出身大学の偏差値と教員としての資質の間に強い相関はない。断言できる。むしろその相関は弱まる傾向にある。教員の持つべき最重要な資質は生徒の心の動きに対する感応力であり、次に臨機応変な創造力であろうと思っている。学習指導の中身は本人に前記2つの資質さえあれば、教員を始めたときからで充分間に合う部分が殆どだ。その点では内田樹氏の「誰でも師たり得る」節に賛同する。教員養成系大学の入試偏差値から考えられる苅谷氏の教師像、学力観に多いに疑問を感ずるのだが。

教育に合理性を

 内田樹先生は、私がその発言を最も注目する評論家だ。多くの事を学んだし、ここに私が書いている事の大半は、彼の文章によっていると言ってもよい。しかし彼が繰り返し述べている教育に関するこの発言だけは納得できない。一言で言うなら、教育を神秘的に語りたくない。教育に関わることの大半は、分析的に合理的に語らなくてはならない。技術として洗練されなければならないと思う。
 まず、一つ目。教育の「効率」は実際計測されている。模擬試験の結果を「学力」というなら、業者が全国規模で実施する模擬試験の結果は細かくデータ化されており様々な加工が可能だ。予備校では受講生をどの講師が担当したかをリンクし、各講師が生徒の偏差値を平均してどれだけあげるかを数値化している。これに生徒からのアンケートの結果などを加味して給与が査定される。これがが年収にして数千万の差を生む場合がある。
 「影の文科省」ベネッセは少なくとも全国30%以上の高校生についてその模擬試験の結果を生徒個別に把握しており、全国の高校がそれぞれどのような学力集団を入学させ、卒業させたかをデータとして握っている。ベネッセは高校毎に生徒氏名を生年月日で分類し識別している。センター試験受験者の大半はベネッセに自己採点結果を送る。その結果とそれまでの模擬試験の結果をつなぎ合わせればよいのだ。彼らは高校の「教育力」を知っている。伸ばしたのか、伸びる生徒を集めただけなのか、詳しく見ればきりはないが。(ベネッセコーポレーションが持つ教育への影響力はあまり表に出てこないが、強烈なものだ。ちょっとした発言で大学一校潰すだけの力がある。が、これは別の話題。)この大学受験用の模擬試験、最終結果であるセンター試験のデータのもと、高等学校は学校間競争を煽られ続けている。
 教員評価制度は既になし崩し的に持ち込まれ、全国一斉学力テストの実施は拡大されつつある。今後、予備校が行っているような査定が、初等教育にまで持ち込まれる可能性は十分にある。有効な批判のないまま事態は文科省の思い通りどんどん進行している。学力テストの結果のもとで、地域間、学校間、教師間で競争が煽られる。これに歯止めをかけるため、何をしたらよいか。全国一斉テストでは、単なる学力以上に応用力問題解決力を問う設問が工夫され、分野別得点傾向まで集計され公表される。巧妙である。「こんなテストほどほどできてればいいじゃないか。大切な事は他にある。」と全国の子を持つ保護者を納得させるのは大変な事だ。
 次に、気にかかること。教育は、人間形成、思想形成に関わるものから純粋に技術的なものまで多様な側面がある。そして教育のある種の分野では、確かな知識や緻密な分析、精巧な教育技術が必要とされる。 内田氏がよく語る「誰でも教師になれる」はかなり特殊な状況でしか成り立たない。猫踏んじゃったしか弾けない人にハンマークラビアソナタを教わろうとは思わない。高尾山しか登った事のない人に冬の北アルプス登山を指導してもらいたくない。音楽の力に気付くきっかけを与えてくれるかも知れない、山の魅力に引き込まれるかも知れない。でも求めているのはたしかな技術の効率のよい伝授だ。
 中学高校時代私は英語が嫌いだったから、露骨に英語の楽しさを伝えようとする教師が大嫌いだった。私が望むのは、できるだけ短時間に効率よく英語を教えてほしい、また短時間に効率よく英語を習得できる技法を伝えてほしい。それだけだった。
 ドイツの芸術大学では、芸術家となるためのコースと芸術教師になるためのコースが完全に分離していると聞いた事がある。そんな当たり前の事が日本では行われていない。全国の数学教員のうち、教育学部数学教育学科出身のものがどれだけいるだろう。
教育を技術として洗練させてきたのは学校教育よりは、その結果で経済的利益を得る学習塾・予備校だ。先のように徹底したデータ管理で効率を追求してきた。その結果は侮れない。本当に効率を求めれば、学習対象の本質的分析と、学習心理学の探究に行き着くからだ。別の場所でも述べた『ドラゴン桜』はその方法論の集大成で、読んで納得できるところは大変多い。また、予備校の中には「SEG」などのように大学数学を見据えた本格的な教育を行いながら抜群の「難関校」合格率を誇るものも現れている。
 予備校で「カリスマ」と呼ばれる講師には国語の講師が多い。言語能力の涵養は学習指導の中で最も難しい。勉強すれば出来るようになる生徒と、いくら勉強しても伸びない生徒に二分解してしまう。方法論について最も光の当たらない分野、もしくは方法論の提示が最も難しい分野だと思う。だからこそこの分野で幾分か技術的洗練を積んだ講師は「カリスマ」と呼ばれる。
 三十余年高等学校で数学を教えてきた。数学は国語にくらべれば遥かに教えやすい。それでも各分野、各項目で教え方の工夫は無限にある。教室で生徒と50分セッションをする。その方法の工夫、技術的洗練もまたつきる事がない。生徒に数学学習方法を教える。方法そのものの検討、学習技法を伝える伝え方も考え出せばきりのない事だ。生徒の自発的学習に向けてエネルギーを集中させ点火する、これも教育技術だ。
 こう言った事を、大学の数学科では教えてくれない。自分自身が受けた授業を思い出しながら手探りで、周囲の教員と議論しながら少しずつ工夫を重ねる以外無かった。幸いそういう環境で過ごす事ができた。できなければ、「教わったようにしか教えられない」。だから教育現場はなかなか変わらない。
 別項で述べたが、英語の初等教育への導入など、教育技術への無反省の典型だ。それに振り回される子供たちは不運としか言いようがない。
日本は格差社会である。ある種の家庭に育った子供は、中等教育で与えられる課題をどう効率的に吸収したらよいか、既に知っている。能力の問題としてではなく、文化として身につけている。その中には学ぶ意欲そのものさえ含まれる(苅谷剛彦)。この格差は、民間教育機関への数百万円の投資と数千時間の消費をもってしても埋める事が難しい。この部分こそ、最も光をあて分析的に語るべき事ではないか。教育技術を洗練していけば、学習時間の単なる量的増大が無駄であり、むしろ逆効果である事、特に教員が生徒を拘束し上から伝授する時間を増やす事のばかばかしさが広く認知されるはずだ。
項をわけて論じなくてはいけないが、我が国には「能力の平等」という強力な建前がある。その中で唯一、努力する能力は評価の対象として公的に認知されている。努力の量で評価したとき皆安心してそれを認める。学習でもスポーツでも芸術でも努力を求める。自己犠牲的努力が美化される。教わる側も教える側も努力の量的拡大に走り出すと止まらない。近年の「お受験」「お稽古」「部活」の過熱。これによって子供たちが失う時間がどれだけ無駄か。
 物事を達成するに必要なものは
 遺伝的に身についている素質
後天的に獲得した資質 (この2つを峻別する事は難しいが、でも両方ある)
方法の合理性
努力量
これらの要素の積として物事の達成がある。こういう当たり前の事が教育の世界ではなかなか認知されない。

 教える事、学ぶ事を偶然にゆだねたり、神秘化したくない。可能な限り分析的に語り続けることが、学問の解放、格差社会の解消につながる。精神主義を排し、教育に合理性を。