プリンターメーカーの不誠実

 印刷用にキャノンMG6230 を使ってきた。インクがあまりに高いので調べてみると他のメーカーから詰め替えインクが出ている。まず残量を計測するICチップをリセットし、ふさがれている補充穴を用具で開きインク補充するだけ。最初に、リセッターと坑あけ道具の付属した補充インクを買い、次からは補充インクだけ。これで4年間過ごしてきた。カートリッジは最初に付属していたものを使い続けた結果、インク代はおよそ十分の一程度に抑えることができた。

 そのことに腹が立つ。なぜキャノンがやらない。最初からインク補充用にプリンターを設計するのは容易いことだ。カートリッジにインクを補充するにしても、操作しやすいようにカートリッジを設計し、補充終わったら残量計を初期化できるようにすることぐらいやろうと思えばすぐできるはずだが、やらない。その上インクがやたらに高い。(最近大容量タンクを装備したプリンターが多少出回り始めたが、大半は並行輸入品。以前から海外では売っていた!)プリンターを安く売りつけ、高額の「純正」インクで儲けを出している。マニュアルには、純正品以外を使用した場合修理には応じないとの恫喝まで記載されている。

 そこに、今夏エラー番号B200を食らった。「電源を抜いて修理に出せ」とメッセージが出るだけで何の原因も表示されない。調べてみると有名なエラーでcanon error code b200で検索すると、39400件ヒットした。実はこのエラー1年前にも出て今回2回目。前回は、ネット情報をもとに、プリンタヘッドを洗浄し回避することができた。一日水に漬け、一日乾燥させるだけ。今回も同様の処置をしてみたが1回目駄目。2回目もう少し時間をかけてやってみたが駄目。インクで信用できないところこのエラー。プリンタを制御しているCPUのプログラムは、ほぼブラックボックス。適当なところで自爆し買い換えを促す様にできているのではないかと勘ぐりたくなる。 実際修理に出せば1万円以上。プリンタヘッド自分で交換すると7千円、ちなみに純正インクセットは4千円。ところが、昨年9月発売のプリンターMG3630が6千円で買える。そんな馬鹿な話があるか。ここでまた腹が立つ。量販店の店員の話を聞いても、修理に持ち込み費用を聞いて大半の人が新製品に買い換えるという。

 調べてみるとService Mode Tool なるプログラムもネットに公開されていてこれを使うと様々な内部定数をリセットできるらしい。ここまでやる人はほとんどいないだろう。動かなくなった冷蔵庫について、基板を取り出し特定の端子をショートするとリセットできることを知り、直したことがある。廃熱部にほこりがたまって温度が一定の値を超すと止まり、二度と動かなくなるようCPUがプログラムされていた。この仕組み自身は大切なのだけど、使用者が掃除して復旧できても良いではないか。大抵の主婦はサービスマンを呼び、「修理不能だから買い換えなさい」と言われたらそれに従うしかないだろう。

50年前のテレビやラジオの裏面には、配線図が貼り付けてあって、多少電気の知識があれば、その図面を頼りに修理することができた。真空管の時代だ。劣化しやすい電解コンデンサーなどをたどれば大抵直る。高校時代、我が家の白黒テレビを何度か修理した。そうやって10年ほど使い続けることができた。技術が人間に友好的だった時代、メーカーがユーザーに対し多少なり誠実だった時代がなつかしい。

 少数の企業による市場の独占と消費者の都合を無視した利潤の追求、それを可能にする科学技術の高度化・ブラックボックス化。インターネット上には、この陰謀を打ち砕くべくエラー回避の方法を追求したページがたくさん出てくる。がんばってほしい。消費者に不誠実な企業はつぶれるような社会を作らなくては。

タブレット端末への期待

朝日新聞にタブレットコンピュータと教育についての3人の論考が出ていた。(14.8.23)
タブレットはとてつもない機械であることは間違いない。私が思いつくその機能を列挙してみる。
◆電子辞書
ここ数年で、電子辞書はかつての電子手帳と同じ運命をたどるだろう。既に、学校に紙の辞書を持参する生徒は殆どいない。(だろう。全国調査したわけではないから。)電子辞書は広く普及している。価格を維持する高機能型には、数十種類の辞書のほかおまけとして数多くの受験参考書が組み込まれている。一方辞書機能に特化した物はどんどん安価になる。しかし、スマホにかなわない。スマホ買えば、それに安価なアプリを追加するだけで辞書になる。2つ持つのは不合理だから、電子辞書を買わない生徒が増えている。学校は携帯の授業中使用を禁止している。持ち込みを禁止している学校もあるだろう。そこで、スマホに組み込まれた辞書は悩ましい問題になる。
タブレットの普及は、電子辞書の衰退に追い打ちをかけるだろう。紙辞書のように記述の全体を見回すことが可能になり、反電子辞書派も反論ができなくなる。更に、様々な電子辞書の検索機能は紙辞書では実現できないことをやってのける。例えば、同一の語幹、同一の語尾を検索する機能は単語学習を効率化するだろう。その上、テキストとのリンクが可能になり、テキストをタッチすれば辞書ウィンドウがひらいて、意味を調べた上で発音を確認できたりする。
◆電子書籍
既に、使用教科書の全てをタブレットに組み込み、教科書を持ち歩かない学校があると聞く。高等学校3年間で使用する教科書全てを電子データ化してタブレットに組み込むことは、タブレットの機能からすればたやすいことだ。その上に大学受験に必要な参考書や問題集の全ても余裕で組み込める。そして紙ではできない機能を数多く付加できる。図版は大型で美しくできるだろうし、動画付きの教科書だって可能だ。家庭科の教科書には、魚の捌き方が動画で出ていたりすると楽しい。英語のテキストは全て音声をリンクできるだろう。先述のように、テキストは全て辞書とリンク可能だ。更に、同一書籍内部や書籍相互のリンクを設定できるから、例えば数学の教科書は問題集の対応問題にリンクし、問題は模範解答集とリンクできる。問題集の[ヒント]をタッチすると、教科書の対応ページにジャンプするような機能の組み込みも簡単だ。教科書と問題集と模範解答を机の上にならべて勉強するかわりに、机の上にタブレットがあればよい。
高校生向けの推薦図書など殆ど電子化されているから、簡単に手にはいる。国語の教科書に出てきた作家について、他の作品を紹介する。英文に接する機会を増やすために、英文の絵本やファンタジーなどを提供することもたやすい。
◆高機能関数電卓
英国では機能を統一した関数電卓を数学を学ぶ生徒全員に購入させる。教科書も関数電卓で処理する頁があり、試験でも関数電卓を使用する問題がある。タブレットは高機能関数電卓として使用できる。現在のスマホでも無料アプリとして関数電卓がついてくる。iPhoneでは縦にすると普通の電卓だがこれを横にすると関数電卓になる。英国の高校生が購入する関数電卓(メーカーはカシオだった!)と同程度の機能を持ち三角関数や指数対数関数の計算が可能になる。タブレットも同様で高校までで出てくるあらゆる数値計算を処理できる。更にあらゆる関数の描画・グラフ化が可能。かつては、高級関数電卓だけがグラフ描画機能を持っていた。空間図形を描いて、自由に視点を移動させたりすることは、人手では決してできなかったことだ。更に、数式処理ソフトも安価で手にはいる。およそ高校生までに学ぶあらゆる数式処理がタブレットで可能だ。因数分解や展開は当然。解ける代数方程式は全て解く。分数、累乗根、虚数を組み合わせた代数的解を瞬時に示す。教員でも頭を抱える複雑な積分も一瞬。しかもそれが雑誌一冊の大きさで手軽に持ち運べる。タブレットを全員が持っていることを前提としたとき、数学教育は変わらざるを得ないだろう。理系の技術者として仕事をしていても、計算処理はタブレットに任すことができるのだから。
◆小型PC
ワープロ、表計算、画像処理などPCにできることはすべてできる。テキスト入力に専念するときはキーボードを付加すればよい。教育ソフトも同様で、個別学習機器としての機能を果たす。コンピューター室で行っていたことが、普通教室で、自宅で、通学途中の電車の中で可能になる。
◆ネットワーク端末
教室に無線LAN機能を用意すれば、これまでコンピュータ室でしかできなかったPCネットワークを利用した授業や、LL教室で行っていた音声教育などをタブレットは簡単に代行する。問題を解かせてその結果を教員が集計したり、誰かの解答を全員に提示したりできる。アンケート調査もできるしクラス討議の投票も、生徒委員の選挙もできる。ソフトさえあれば。
また、学校では結構たくさんの配布プリントがある。授業の参考プリントから、様々な案内プリントまで、書込用でない物はすべて電子的に配布できるだろう。それも必要な生徒だけ選択的に配布できたりもする。学校は膨大な紙を消費する。多いに節約できるはずだ。更に各種申込や生徒提出書類、この集約は担任にとって結構手間な仕事なのだけれど、かなりの部分電子化できるはずだ。ソフトさえあれば。
既に多くの大学の授業がそうであるように、板書がパワーポイントに変われば、パワーポイントのデータを取得すればノートをとらなくてすむ。黒板の手書き文字を電子化する電子黒板もあって、生徒はノート取りから解放され授業を聞くことに集中できる。?
◆インターネット端末
PC同様インターネットサービスを享受できる。調査して、レポート作成する等PC室でしかできなかった事が教室で、自宅で可能になる。
教育で注目されているのが動画配信。タブレットを全生徒が保有すれば授業を自宅で受けられる。話題の反転授業。授業は宿題として自宅で、学校では発表と討論なのだそうだ。授業も、別に担当の先生でなくてよい。有名大学の先生でもよい。現在教科書を採択すると、教科書のサービスとして、全てのテキストの電子データー、定期試験用問題サンプルの電子データ、更にパワーポイントを用いた授業用の板書データまでついてきたりする。そのうち法定時数分の授業動画が附属する時代が来るかも知れない。全国の生徒が同じ先生の動画で勉強する時代が来るか。既に有名予備校では動画配信授業が一般化している。世界中の多くの大学が講義の動画配信を行っている。全国にたくさんの姉妹校を抱える巨大私立など動画配信同一授業は簡単に実現できるだろう。全国から授業の上手い教員を選び出し、動画配信に専念する体制を作ればよい。また、通信制高校、通信制大学などもタブレットの普及により更に広がるだろう。何時でも何所でも授業が受けられる。
◆デジタルカメラ、ビデオカメラ、音楽演奏、動画再生、メトロノーム、ストップウォッチ
実験、自然観察、フィールドワークの報告などリアルな物が作れそうだ。遠足、研修旅行のリアルタイムレポートも作れる。
体育の時間には模範演技を動画で見せる。跳び箱飛んでる様子を各個人に配布する。音楽鑑賞もタブレットで。実技演奏も収録して各個人に配布。タブレットアプリのメトロノームは高性能で見やすい聞きやすい、電子チューナー(調律器)もタブレットで代用できる。
運動部でも、一流プレーヤーのフォームをスマホやタブレットで学び、自分のプレーをタブレットで撮影確認する事は既に始まっている。野球のスコアブックも画面タッチだけで簡単につけられる時代だ。陸上で複数の選手が周回しているラップを1人で集計したりもできるだろう。
要するに、アプリケーションを組み込むことで様々な機械に変身する機械なのだ。
◆センサーの活用
タブレットやスマホには3軸加速度センサーが組み込まれており、時系列でデータを取り出すアプリもある。上方に放り投げてみるだけで結構面白い。物理では様々な実験ができるはずで、すでに、授業研究としてインターネット上に発表されている。台車にタブレット取り付けて斜面を走らせ、結果を見る。超高層ビルのエレベーターにタブレットもって乗り込み加速度の推移を計測したり、旅客機離陸の際の加速度を測定したり、今まで殆ど不可能だったことができるようになった。機器を付加すれば、速度、温度、PHなど実験データを時系列でとりだし、グラフ化したり計算処理したり、高度なデジタル計測が手軽にできるようになる。
タブレットのセンサー機能を最大限生かしたアプリとして感心したのは、星座早見盤。タブレットを空にかざせばその方向にその日その時見える星座が示される。現在地の緯度経度がわかり、現在の日付時刻がわかり、タブレットが向いている方位と地表に対する角度がわかって初めてできることだ。

思いつくところを列挙してみただけでこれだけ書けるが、まだまだ未知の可能性がある。例えば現在急速に進歩しつつある音声認識技術。既に話しかけに応答するスマホがある。話しかけるだけで機器が操作できれば教育機器としての可能性は随分広がる。でもこれでいいのだろうか。

タブレット普及への懸念

既に、PCの普及で学校には電子メディアが深く浸透している。小学生がインターネットで調べ物をし、プロジェクターを使ってプレゼンするのは当たり前になっている。生徒がPC室に移動して学習するスタイルだ。これまでは、一人一台機器を所有するまでにはならなかった。一部の私立学校でノートPCを全員所有したりしているようだが。タブレットの登場で言われているのは一人一台の所有で、これは、教育に新しい事態を招く。全員の所有を前提にすれば、、宿題の配布、動画配信による予習授業など、電子メディアへの依存を飛躍的に高めることになる。生徒への全員配布は新聞報道にもあるように一部自治体で始まっている。そこで私が感じる懸念について列挙してみる。

◇電子メディアによる教育の壮大な実験
教育の何所までを電子メディアに依存できるか。その目安は未知である。教員が黒板(白板)に手書き文字を書いてみせるのをやめたら、どうなるか。紙の教科書を廃止したら生徒にどういう影響を与えるか。動画配信による授業はどのような結果をもたらすか。子供たちが電子メディアに大きく依存して教育を受けると、結果がどうなるのか、私たちは知らない。やったことがないのだから。
 私自身、仕事でPCを使い始めたのは大学を卒業してからだ。(そのころ「8ビットマイコン」が売り出され、従来大型計算機センターに持ち込むような処理を机上で処理できることに感激した。)従来の媒体で教育を受け体験を積み、その上で電子媒体に移行した。以来35年以上PCを使い、それに深く依存しているけれど、基礎となっているのは、紙・手書き文字・肉声・肉体の世界での体験だ。これが、大きく失われたときどんな結果を招くか想像がつかない。
現時点での我々の文化はそうやって創られてきた。我々の文化は、我々の肉体に規定されて生み出された。その基本である言語がそうであるように。母親の話しかけだけで人間は言語を獲得しうる。それをどこまで電子メディアが代行しうるか。
 我々自身あくまで肉体的な存在であり続ける。食事をし、排泄して生きている。生殖行為により母親の肉体から生まれ、老化して死に至る。ネットワークの中に電子データとして意識が存在するのはSFの世界。テレビ電話では孤独は癒されない。肉体的な他者の直接存在を前にして人間は初めて心を落ち着かせる。
 本来、実験校での様々な試み、研究授業、研究発表を経て、可能性や一般化できる事柄を見極めるべきだろう。これには随分の時間がかかるはずだ。恐らく十年単位の。その猶予があるのだろうか。安易な電子メディアの普及は、日本の教育全体を壮大な実験場にしかねない。失敗し後戻りできなくなったらどうするのだろう。電子メディアでの教育は、同時にそれしか知らない教員を排出し続けるのだから。高校生は4年たつと教員になる。
 急速に電子メディアが浸透したとき、格差の拡大を最も懸念する。文化の本質的肉体性を学校=公教育以外の場で獲得しうる子供とそうでない子供に、現在以上の深刻な格差が生まれるだろう。現状の格差も基本はこのことに由来していると思っている。それが更に拡大するだろう。
そもそも、現在の集団授業を基本とした公教育自身、近代国家の構成員を効率よく生み出すために作り出された歴史の浅いシステムで、その見直しが迫られている時だ。20世紀の教育スタイルを見直し、ゆっくりと21世紀の教育スタイルを模索する。そういう余裕がほしい。

◇インターネット依存
これは、既に議論されている。生徒にタブレットを配布することはインターネットの世界を公認し導き入れる事になる。ネット上のSNS依存が子供たちをどう育てるか。結果の見えない実験は既に始まっている。これについては、多くの発言があるからここでは言わない。
単純に考えても授業中全員タブレットを出してネットワークに接続していたら、全員が授業に集中しているか監視する必要が出てくる。簡単に画面の半分でインターネット見たり、漫画読んだり、メッセージ交換できたりする。監視プログラムを走らせ、余計なアプリ開いていると教員が探知するシステムは可能だろう。でも監視プログラムを誤魔化すアプリだって開発可能なのだ。
 そこで思い出した。大学入試課の先生、中途半端な時間にネット上で合格発表するのやめて下さい。生徒が授業中に奇声を発する事があるのですよ。全国の高校が昼休みをとっている時間、もしくは放課後。理想を言えば、土曜日か日曜日にして下さい。

◇産業界の圧力
これまでもそうだったのだけれど、教育機器の浸透は、教育の内的必然によるものよりも産業界の圧力である場合が多い。教育課程への「情報教育」の組み込みがそうであったように。そして、教育の側からブレーキをかける手段が殆ど無い。誰ができるのだ。

◇ソフトの開発と値段
タブレットは夢のような機械に見える。が、それはその機能を生かすアプリケーションソフトがあってのこと。PCによる教育を行うにあたって私が在職中一番苦労をし挫折を経験したのは、LAN環境でのPCの機能を生かした良質な教育ソフトがないことだった。
そもそもソフトの開発には大変な手間がかかる。よく売れるゲームソフトなどは、優秀なプログラマー数十人が数年かけて作るといわれる。逆にこれくらいの手間暇かけなければ良質のソフトは作れない。開発費用は数十億円にもなる。百万本といった売り上げを期待できるから、この開発費が注入できる。Windwsともなれば、たとえばVistaで開発費用は5年で7500億円というデータが上がっている。一本2万で売っても億単位で世界中で売れるから成り立つことなのだ。(こういう規模でないとOSが開発できないことも、深刻な問題なのだが。)
 需要の少ないソフトはには良質な物が少ない、良質な物は大変高額になる。大量の需要が見込まれなければ良質なソフトは提供されない。コンピュータのソフトは価格の殆ど全てを開発費用が占める大変特殊な工業製品だ。したがって、私たちが良質な教育ソフトを手にするには、高額の費用をきちっと払う覚悟が必要なのだが今の学校にはこの認識がない。
コンピュータには値段がついているから予算化しやすいのだが、これを運用するソフトにはハード以上の値段がかかるのが普通であるという認識は学校社会になかなか育たない。ソフトにどれだけの費用がかかるかについての共通認識がない。問題集1冊千円で生徒に購入させたとき、それによって得られる効果は経験からおよそ想像がつく。しかし、教育ソフト購入して生徒に向かわせたとき何が得られるか、経験が乏しいから想像がつかない。前述のように壮大な実験がこれから始まる所なのだ。費用対効果を何所で誰が算出するのだろう。
 更に、教育の世界は著作権意識が大変乏しい。最近入試問題についてはうるさくなってきたけど、普通教育目的の使用の場合、文学作品に著作権費用は発生しない。(と思われている。私も正確に知らない。)恐らくその発想を勝手に拡大したものだと思うのだけれど、学校には問題集、参考書の違法コピーが溢れている。採用見本として持ってきた問題集を適当にコピーして自分のプリントを作るなどということが、比較的平気で行われている。さらに、ソフトやデータの違法コピーが同じ感覚で行われている。だから、最初から市場が狭い上に、著作権侵害が横行するために教育ソフトは売れない。
教育ソフトの開発には、経験とコンピュータの可能性について洞察力を持った現役の教員とその意向を実現するプログラマーの時間をかけた共同作業が必要なはずだ。小、中、高等学校それぞれ違うだろうし、各教科指導用、一般のシステム構築用、などかなりの種類にのぼるはずだ。これらの提供を一般の企業に委ねたとき、企業の採算が取れてなおかつ各学校や保護者が負担可能な額でソフトが提供される保障はあるだろうか。タブレットは電子書籍+電子辞書以上には使われず、あとはインターネット参照のオモチャを無償提供するに終わるような気もする。

◇教員の仕事
「ソフトは教員が作ればよい。」PCが普及し始めた頃そう思う者は多かったし、自分の興味関心からソフト開発をする教員も多かった。実際、やればかなりのことができる。成績処理システムを自作した学校は結構多かったようだ。(これらの学校では今開発した教員が定年退職を迎え慌てることになる。素人の作るシステムだ。維持管理と更新が本人にしかできない場合が多い。)学校の先生が作られた良質な教育向けフリーソフトも数多く存在する。また、LANが普及すればその維持管理も教員がやろうと思えばやれない仕事ではない。でも、次の例で考えてほしい。
「下駄箱は教員でも作れる」「校舎の雨漏りは教員でも直せる。」実際、私でも技術家庭の実習室にこもれば、結構よい下駄箱を作る自信はある。既成の物より生徒の使いやすい工夫を凝らした下駄箱だって作れるだろう。でも、教員にそんなこと依頼する者はいない。教員の仕事でないからだ。
コンピュータ関連の仕事については、何所までが教員のかかわるべき事で、どこから専門家に委ねるべきなのか、共通認識がない。下駄箱のような。実際の線引きも難しい。思うようにシステムを運用するのに、自分でやった方が早くて安い場合だっていくらもある。このことが、コンピュータに関して知識のある一部の教員に過重な負担をかける。場合によってはかなり極端な負担となっているのだが、周囲からはなかなかそれが見えない。また、困難な生徒指導から逃れるようにして、進んでコンピュータ関連の仕事に打ち込む教員が現れることもある。このことも、ソフトウエアのコストに関する認識を遅らせる要因の一つになっている。
このような現状で、タブレット端末が普及したとき、一部の教員に更にひどい負担をかけることになりはしないか危惧する。
 いくらできると言っても所詮素人。学校教員の作るソフトは、日曜大工で作る犬小屋程度と思った方がよい。(よくできた立派な犬小屋だってあるのだけれど。)長年安心して住める家は、プロにしか建てられない。

私は、教育の一部にコンピュータを用いることに賛成である。プロジェクター使って図表を生徒に示すことは随分してきた。手書きではとても追いつかない、関数の振る舞いを表現できる。また、ある種の学習ソフトが、学習の遅れた生徒の基礎トレーニングに大変有効であることもわかっている。機械の前なら間違えても恥ずかしくない。先述のようにタブレットがこれまでにない可能性を開くこともわかる。いかし、所詮道具だ。教育の、文化の肉体性を再認識し、機械の限界を見極め補助道具として賢く使用できたらと願う。