教え合う授業1

 生徒同士が教え合う時間を授業に取り入れること。これを就職当時から30年以上にわたって試みてきた。きっかけは先輩教員の示唆によるものだ。この先輩は大学院でヴィゴツキーの心理学を学び、その知識をもとに生徒同士が相談する授業を私よりも更に何年も前から実践していた。
 その先輩の示唆を私が理解したところをまとめると次のようなものだ。(私自身ヴィゴツキーを勉強しようとして果たしていない。)教師が用いる言語やテキストで用いられている言語と、子供たち同士が用いている言語には水準の違いがある。子供たちの理解は、教師の水準で語られた言葉を子供たちの言語水準に翻訳することで成り立つ。数学が得意な子は(私の教科についての話だ)翻訳が上手だ。また、その時たまたまうまく翻訳できた子もいるだろう。そういう生徒がいれば、生徒同士の会話を促すことによって、理解は集団の中に広がっていく。
 およそこういう観点から、生徒同士の教え合いを授業の中に取り組む工夫を始めた。確かに、うまく行ったときの効果は抜群だった。生徒が数学の時間を楽しむようになり、活力が生まれる。今まで授業で取り残されていた生徒が、積極的に学習を始める。更にそのクラスの人間関係が親密になる。クラスの平均点があがり、特に平均以下の散らばりが小さくなる。
なぜ効果が上がるか。先の「理論」をもとに私なりに経験し考えたことをまとめてみる。
 ・生徒同士なら質問しやすい。これは当たり前です。そのため、座席の移動も自由とし、聞きやすい生徒の所に行って良いことにする。
・教えるにしても質問するにしても、生徒は、学んでいる内容を言語化しなくてはならない。自分の言葉で語らなくてはならない。このことが学習内容の定着にとって大変重要なポイントになる。そして生徒同士の会話の中で、自分の言語として学習内容を取り込むことが可能になる。特に、教えることを通じ生徒は自分の理解を一度対象化することになる。クラスの中で教え役にまわる生徒が実は一番学力が伸びる。わからない生徒には「教えることで学力が伸びるのだから、遠慮なくできる子のところに教わりに行きなさい。教える子の成績アップも助けられる」と促し、できる子には「教えることを押し売りしなさい。むりやり教わり役をつくりなさい」と勧める。
 ・能動的に授業に取り組める。静かに問題を解いていたり授業を聞いているのは、何もしないまたは全く違うことを夢想しているのと外見上見分けが付かない。板書をノートしていても単にコピーしているだけの子は随分いる。しかし、みんなが話し合っていると能動的に取り組んでいることがお互いに確認できる。お互いの能動性を引き出すことにつながる。
・数学の理解の仕方には様々なタイプがあり、そのタイプを生徒自身が意図的に選択できるようになる。たとえば、分数の割り算は逆数のかけ算になることを教えるとする。(これは小学校の話ですけれど)これを理解するにもきちっと順番に論を進めないと納得しない生徒がいる一方で、考えるとややこしいから操作としてそのまま受け入れる子がいる。教え合いを続けていくと生徒自身が、自分にあった理解のスタイルでグループができあがっていく。あの子の所に行くとごちゃごちゃうるさいから、すっきりやり方だけ教えてくれるあの子と勉強しよう。あの子の教え方はいい加減で理由を説明してくれないから、考え深いあの子に教わろう。こうしてグループができあがっていく。私自身は、解説の段階でどこまでの水準で理論的な理解をしたら最も得策か必ず明示する。それが数学の授業で最も大切な教員の仕事の一つだ。三角関数で倍角公式が一般の加法定理の特殊例にすぎないことは充分強調する。それでも、倍角公式をまず丸覚えする生徒もいて、それはそれで許容していく。
 ・誰でも他人から感謝されれば嬉しい。他人を喜ばすことで幸福を感じられる。こういう道徳観を我々は少なくとも深層心理にしっかり確保している。人類の歴史数万年の共同生活の記憶だと思う。本能と呼んでもいいのかも知れない。この感覚を教え合うことで呼び覚まし、育てることができる。
 私が二十年以上かけて、たどり着いた授業の形について書いておこうと思う。私の場合、授業の殆ど全てを教え合いに当てることはしていない。『学び合い』と称し生徒に委ねる方法が提唱されているが、それについての感想は、後で述べる。授業の前半は導入と解説に当てる。授業の中盤を問題演習の時間とし、生徒同士の話し合い教え合いをゆるす。その間に生徒に黒板でやらせたりする。最後にまた教師がまとめる。こういうオーソドックスなものだ。
 生徒同士の教え合いにあたり、ルールを定める。
  ・私が黒板の前を離れたら、(教壇を降りたら)生徒同士で話し合いを認める。
  ・その時間は、座席を離れ立ち歩いてもよい。
  ・但し、数学以外の世間話を始める生徒がいたら、話し合いは即刻中止する。
  ・私が教壇に戻ったら、生徒も自分の座席に戻り、話し合いを打ち切る。
 そして、年度の初めには生徒同士が教え合うことの意義について繰り返し述べる。
 実施にあたっては、年度の始めに少しずつ導入を試み、うまく進行するようであれば徐々に話し合いの時間を増やしていき、二ヶ月後には五十分授業の三十分から三十五分をこの時間にあてていく。もちろん内容によっては、全部、私が教壇の上という授業もあるし、殆ど全部話し合いによる問題演習の時間とすることもある。一年間をかけてこのスタイルを育てる。うまくできたときはクラスを褒めちぎる。うまく行かないときは早々に切り上げる。
 この種の授業の導入は、薪で火をおこすようなものだ。燃えやすい木を選び点火する。一端薪に火が移ればそれが自然に燃え移り徐々に広がっていく。薪一本ずつに火をつけるより、自然に燃え移らせる方が遥かに効率的だ。うまく薪を組み火が自然に広がっていくようにする。全体が程よく燃えるように、周囲に延焼したりしないように火を管理する。逆に薪が極端に湿っていたりするといくらやっても火は付かない。そういうときはたき火を諦めなくてはならない。しかし、たき火の達人はいるもので、これは無理と思われるような木を集めて上手に火をおこす人がいる。これと同様、こちらが技術的に上達していくと教え合いがだんだんうまく導入できるようになる。
 実施が可能となる 要因を挙げてみよう。
・生徒が、指導教員の管理下に置かれていること。これは、学校全体の生徒管理力、生徒の質、教員の力量など様々な要因によるが、教え合いの授業は教員の管理のもとに行う。どんなに素晴らしい話しでも、まず生徒がその教員の話を聞こうとしなかったら伝えられない。また、教え合いは、クラス全体が極度に騒がしくなり隣接クラスに迷惑をかける、生徒の一部が遊び始めるなど、常に暴走の危険をはらんでいる。これらを管理できる条件下で初めて教え合いが成立する。私自身、経験を積み生徒の把握力を上げるに従って教え合いもうまく行くケースが増えていった。また、教え合いが学校全体全ての授業で実施されているのでないとき、同じクラスの他の授業で問題を起こすことが教え合いを難しくする。特に経験の浅い生徒把握力の無い教科担当にそのしわ寄せが行く。「**先生は授業中立ち歩いても良いと言っている」と担当者を困らせる。教え合う授業のルールが私の授業のみに許されるローカルな規則であることを生徒にわからせ、実際に同じクラスの他の授業に与える影響を最小限度に止めるのはなかなか難しいし、経験が最も必要な部分だろう。
 ・学校生活に意欲的で将来に希望を持ち好奇心旺盛である、こういう生徒が集団の中に少なくとも何人か存在すること。逆に、そのクラス自身、もしくは学校生活に否定的な感覚を持つ生徒が大半を占める集団では実施が大変難しい。要するに授業そのものと一緒だが、単なる一斉授業なら、厳しく管理することで姿勢を正してノートをとらせたりはできる。つまり一応の体裁は整えられる。しかし活発な教え合いを実現するのが大変困難な場合がある。そういうとき、無理はせず管理型授業をしながら少しずつ様子をうかがうようにしてきた。この意味で学校生活に期待を持ち、幻滅や挫折を味わっていない新入生は導入が楽だ。一年生のうち何クラスかで導入して訓練を重ねておいて学年持ち上がれば最終学年までうまく継続できる。また教え合いの良いところで、新入生当時の意欲を比較的維持することができる。
 ・コミュニケーション能力の高い生徒が集団の中に一定数存在すること。子供たちは同年代の子供をモデルにして学ぶことは非常に早い。一端薪に火が付けば薪から薪へは容易に火が移っていくように。学習姿勢やコミュニケーション能力はモデルさえ存在すれば比較的容易に集団の中に広がっていく。
 ・学力が適当に分散していること。不均等だから教え合いのダイナミズムが生まれる。学力が極端に均質だとある点から先は全員がわからないということになる。教える側は、その集団の質を見計らって、教材、解説内容、要求水準を選択しおよそクラスの上位4割程度には充分それが伝わるようにする。それを全体化するために教え合いの時間を設ける。指揮者とオーケストラの間にはコンサートマスターがいる。指揮者の意図をまず理解し音にし、他の団員にそれを伝える役の存在である。授業をするときはこのクラスの「コンサートマスター」を探す。教え合いの様子から、そのクラスでの教え合い関係が見えてくる。その核になる子がまず充分納得するように全体授業をする。極端に均質な集団にはこの「コンサートマスター」がいない。これが教え合いを難しくする。もっと言えば授業自身を難しくする。誰かが「わかった」ことで、その理解のスタイルを残りの生徒が共有すればよい。これが生徒を思わぬ高さまで引き上げてくれる。均質な集団にはこのような飛躍の可能性がない。特に、学力別授業と教え合いは親和性がない。学力別授業については別項で述べたいが、学力別編成は、底辺層対策のようで実際には最上位層にしか効果がない。

 生徒が個別に分断され競争が煽られているとき、知識・知見は占有するものでなく共有するものであることを次世代に伝える必要がある。教え合うことは単に学習の効率を高める他に、知識の在り方教える意味でも大切なことだろうと思っている。

教え合う授業2

『学び合い』学習という教育運動がある。NHKで取り上げられたり(ETV特集 2012年2月5日放送)新聞で取り上げられたりしている。例えば朝日新聞2014年5月。これは一つの教育運動で明確な指針がある。その一つが、上越教育大学の西川純氏の提唱するもので、インターネット上に手引き書が公開されている。
『学び合い』の手引き書(平成 25 年7月 26 日版)
これは160頁に及ぶ結構大きな資料で、ここに『学び合い』の到達水準の殆ど全てが投入されているのだろうと思われる。私はこの運動についてその詳細を知らない。インターネット上で公開されている種々の実践、またこれに寄せられている批判について近年知った程度だ。ここでは、先の手引き書を読んだ感想、私の考えとの差を少し述べてみたい。
基本的に賛成です。私も同じようなことを考えて授業をしてきたから。それについては前項で述べた。引っかかるのはどこか。
全体を読んでまず気になるのは、その極端な理想主義だ。理想主義は理念としては理解できるが、理想主義の実践は、硬直化し権威化する。スターリン、毛沢東・・・。例えば、「学び合いの時間が授業全体で占める割合は多ければ多い程よい、学び合いの時間を増やせないのは生徒の可能性を信じていないからだ。」と手引き書では繰り返し述べられている。こういう言葉で他人を縛るのは宗教と同じである。「あなたの信仰が浅いのはイエスの復活を本当に信じていないからだ。」と言われるのと同等ではないか。これが「手引き書」であるだけに余計たちがわるい。そして、『学び合い』を実践する教員は、この手引き書で何と「同志」と呼ばれる。20世紀の共産主義運動のように。
教師の役割について。教師はガイドであって内容を教えるものでないと繰り返される。
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教師が教えると、子どもは常に教師を頼ります。それゆえ、教師はあえて教えません。仮に、数十人の子どもに対して、最適の説明で個別対応が出来ると豪語出来るような人がいるなら(単純計算から言って不可能だとは思いますが・・・)教えてもいいでしょう。しかし、そう出来ないならば、教えるべきでありません。教えないとき、心の中で「君らなら出来る、私より凄いことが絶対出来る」と信じられるか否かがポイントとなります。ただし、教師にとってはつらい。なぜなら、教えたいから教師になったので、それを我慢するのは容易ではありません。しかし、ある段階に達すれば、教えられます。その目安は、教師が教えても、子どもが「先生のつまらない」、「先生、邪魔」といわれるぐらいの段階まで、子どもたちの自主性が育ち、教師の意見を取捨選択出来るようになったら介入することができます。(手引き書P50)
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これは間違いだ。この論でいくなら、野球を強くするには、子供たちが手引き書をみて議論を重ねるのが一番効果的なことになる。集団に適切な課題を計画的に与えておけばそのうちベートーベンのピアノソナタが弾けるようになるか。そしてこれが最も効率的な方法か。スポーツや音楽のような例を引くのはずるいだろうか。私は、人間の作り出した全ての文化は肉体的なものであり、生身の肉体が向き合うことで伝えられるものが、全ての分野について必ずあると思っている。そしてそれは、前世代から後継世代に対して与えられていくものだ。確かにテキストから読み取れるものはある。が、生身の肉体の存在は、テキストから読み取る百の苦労を一瞬に解消してくれる。この肉体的に与えられるべきものを判別し意識化するのが教員の仕事だ。言葉を換えれば、テキストとのつきあい方、テキストに対する姿勢、このメタテキスト的部分こそ教員の役割であり、これは生徒の中に自然発生的に生まれるものでは決してない。
次に、生徒の能力についての記述。
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我々はこのコミュニケーション能力は教えなければならないとは考えていません。我々
の DNA に組み込まれていると考えています。(手引き書P12)
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これは、ウソだ。言語について考えてみればすぐわかる。言語を獲得する能力を人間は遺伝的に有している。しかし、しかるべき時にしかるべきトレーニングをしなければ、言語を獲得することはできない。狼に育てられた子供の話は有名だし、テレビの前に放置されて育った子どもの言語的欠損も報告されている。日本語環境の中で育てば日本語を獲得する。人種によって獲得する言語が遺伝的に異なるのではなく、獲得言語は生育環境だ。当たり前ですよね。さらに、育った家庭の言語環境で、同じ日本語を話していても運用能力に大きな差が生まれることを、我々教員は強く意識させられている。言語とは遺伝的に基礎を支えられているとはいえ、その達成は一つの文化だ。もっと幅広い意味でのコミュニケーション能力についても同様であろう。私たちは学校の現場で、生徒のコミュニケーション能力の低下に悩まされ続けている。家庭、地域共同体の緩やかの崩壊、子供集団の喪失などにより、子供たちのコミュニケーション能力は確実に低下している。これをどのように補うか育てるかが、学校教育の緊急な課題だ。生徒の能力を信ずることが問題なのではない。生徒の能力を分析的に把握し柔軟で適切な処置をとることが求められている。

《『学び合い』の手引き書》は私にとって刺激的な書物であった。逐一批判を加えれば同じくらいの長さのテキストができあがってしまうかも知れない。しかし、「刺激的」という意味で同書は優れたテキストである。教条的に読まれるのではなく、教育とは何かを考える格好の材料として、若い教員の方々にとっては一つの極端な参考意見として、広く読まれ批判されることを願う。

センター試験数学を何とかしてくれ

問 △ABCで、AB=3, BC=4, CA=5 のとき、内接円の半径rを求めなさい。

この問に記述答案で答えるなら、
内接円の半径と三角形の辺の長さ、三角形の面積との関係から
r(3+4+5)=3×4
r=1
と、解く。公式を用いて解答したときは、用いた公式の名称を言葉で指摘して、日本語の豊富な表現力のある答案を作りなさい、と指導する。ところがこれがマーク式の問題になると

問 △ABCで、AB=3, BC=4, CA=5 のとき、内接円の半径をrとすれば
r=[ア]である。

と出題されるから、解答は
半径は整数値で、この三角形で半径2の内接円はあり得ないから、ァは1をマークする。問題量が多く時間が足りないとき、正直に計算してはいけない。問題全体をよく見て要領よく解答しなさい、マークしか採点されないのだから無駄な計算を極力避けなさい、と指導する。この例のような極端な場合は少ないかも知れない。それなりの配慮がされていることもわかるが、現行センター形式のマーク試験が持つ、本質的なばかばかしさは変わらない。
高校の数学教員はこういう二重の指導を強いられている。優秀な集団なら、マーク試験特有の技術を修得するためにそれ程時間は要らないのだが、そのような生徒はごく僅かだろう。二次の記述試験は難問が多く平均点合格点共に低く大きな差がつかないから、センター試験の失敗が合否に直結する場合は多い。センター試験をこなすため特殊なトレーニングが必要になる。その一方で記述試験に対応して、数学の問題を解決するための試行錯誤、学習内容の本質的な理解、解決過程の表現力等を生徒に教えていかねばならない。
何故こんなことになるのだろうか。センター試験は高校卒業資格試験であると同時に大学入学の選抜試験でもある、この2つを兼ね備えた数学のマークシート試験がそもそも無理なのだ。
センター試験では出題範囲を教科書にあらわれた問題範囲に限定することを明言している。同時に、効率の良い選抜試験でもなくてはならない。平均点75点、合格ライン85点のテストは選抜試験としては分解能が悪すぎる。受験者の2~3割を合格とする場合、平均点40点合格点50点くらいの方が遥かに信頼性の高い、分解能の高い選抜ができるはずだ。
そもそも、国大協がセンター試験実施に踏み切った理由は、当時地方に増えた小規模大学に、入試の実施そのものが大きな負担となっていた事による。入試の作問および採点は大変な作業だ。問題の質、適切さから、印刷製本から実施までの秘密保持、採点の公平さまで。大規模な総合大学がこなしてきた業務が、小規模大学には大きな負担になる。受験生が五千人でも二百人でも作問の手間は一緒だ。作問できる数学の教授が何人いるか、大学によってずいぶん差があるだろう。国大協は、規模や学生数に比例せず、大学毎に1個の議決権であるから、小規模大学の意見は比較通りやすい。共通試験の実施をかねてから望んでいた文部省(当時)の意向を承認する形で、共通一次が始まり、センター試験につながる。センター試験は選抜試験でなくてはならない。
個別の大学で試験を実施する場合、その大学を受験する生徒の学力に合わせて問題を設計することができる。選抜試験として適切な内容、難易度を調整できる。これを、全国の受験生全体を対象として一括した選抜試験とすることにそもそも無理がある。また、数学の記述試験を公平に採点することは大変難しい。思考力や表現力を問う問題は、作問も難しいが公平な採点は更に難しい。数千人規模の採点をする大学では、予備採点をし採点基準を定めるまでにかなりの時間をかけると聞く。それを数十万人規模で実施し即座に結果を出すために、コンピュータを用いたマーク試験が採用された。
結果として内容的に易しいにもかかわらず差のつく作問が強いられることになる。どういう風に差をつけるか。とられた方針が、問題量を増やすこと、問題を煩雑にすることの2つである。簡単に言うなら、試験時間が3倍ほどあればセンター数学は平易な問題なのだ。ゆっくり落ち着いて考え、正確な計算ができればよい。(うんざりするほど煩雑で問題としての魅力は全くない場合が多いが。)ミスをしたら検算すればよい。それを60分で解答しなければならないから問題が起きる。問題を見て瞬時に解答方針をたてる。煩雑な計算もミスなしに1回で仕上げる。数学の問題を解決するために是非とも必要な試行錯誤の時間がそもそも与えられていない。そのため、計算の訓練と問題パターンの修得に受験生は時間を費やす。
生徒の中には、ゆっくり考える事が好きで、そのために理科系を選ぶものは多い。独創性ある解答を作る者や、綺麗で論理的にしっかりした骨格の答案を作る事ができる者など多様な個性がある。定型パターンの高速処理、これも数学処理の能力の一部ではあろうが、一部に過ぎない。マーク試験の根本の問題として、独自の発想や表現力を問うような作問はできない。作問者の用意した解答過程に自分の思考を沿わせることのみが要求される。そもそも、マーク試験では数学の理解や表現を確かめることは無理だ。と思う。
私は、センター試験の中で特に英語は、ある種の良い結果を与えたと思っている。修飾関係が複雑でパズルのような構文解析が必要な文章、大学のゼミ生ですら頭をひねるような難解な英文を日本語にする作業から、平易な英文の速読と大意の把握に重点が移ったことは大変喜ばしいことで、日本の語学教育は一歩前進したのではないかと考えている。しかし、実施時間に対するその量の多さは数学と同じ。問題の総単語数は4000を越す。分速50語では読むだけで80分かかってしまう計算だ。センターで得点を上げるためまず生徒に教えるのは、時間配分。国語も同じ。制限時間内に読まなくてはならない文章の量は半端でない。評論文と小説は共に四千~五千字、更に古典、漢文。難関大学に合格するにはこのようなテストで全体として9割以上の得点が求められる。速さと要領の良さが受験指導の焦点になる。そのような生徒が難関校の合格切符を手にする。情けない話だ。
高校教員が望む解決策は、だた一つ。選抜試験であることをやめ、資格試験に純化することだ。高校の数学を教科書レベルで一通り学習したら、ほぼ満点取れるテストにする。計算を容易にし、問題量を減らす。優秀な生徒であれば、時間をもてあます程度の内容にする。そのことによって、高校での数学教育は随分改善されると思う。特に、大学に進学し更に勉強しようと思うものへの数学教育をもう少しまともなものにできるはず。ばかばかしいトレーニングの時間を生徒に与えなくて済む。
もう一つの解決策。独自の作問力がある大学はセンター試験から降りる。以前の京都大学理学部のように。文系から理系までの学部を揃え一学年の募集定員が五百人を超す国公立大学では、センター試験を足切り以外には使わないことにする。残りの生徒を対象として問題内容を設計し直す。もしくは、文系学部では理系科目しかセンターを選抜に使わない、理系学部では文系科目しか選抜に使わないようにする。つまり二次試験実施科目と同じ科目のセンター試験は選抜に使わないことにする。
大学入試の選抜試験が何故このように過熱するかはまた別の問題として、少なくとも現行センター試験数学のばかばかしさから早く脱出すべきだと考える。工場の現場から企業や大学の研究室まで、創造力ある人材が豊富に配置されてきたからこそ、戦後日本の復興があった。そういう人材が枯渇することを危惧する。