学校制度は教育行為の一部に過ぎない

 教育は、共同体の存続のため次世代に共同体運営能力を委ねる行為だ。生物の基本行為は種の存続であり、人間は共同体を維持することによってしか種を保存することができない。そのために重ねてきた文化的蓄積を次世代に託すのが教育である。
 教育は人類が人間として生き始めると同時に始まり、共同体維持行為の最も重要な部分の一つであ理続ける。昔も今も変わらない。教育の多くの部分は構成する人間個人の生存能力を高めるために費やされるのだろうが、それも共同体そのものの維持に必要だからだ。
人々の生活行為はそのまま教育行為であり、子供たちは共同体の中で生活を共にすることで育つ。必要な全てが伝承される。その中には、次世代を如何に教育するかというこのも当然含まれるだろう。
 この共同体の教育行為の中で「学校」は文字文化継承のために当てられた特殊機関にすぎない。文字文化が登場して以来、これを継承していたのは共同体構成員のごく一部だった。近代公教育が登場するまで、文字文化は一対一の徒弟制度のようなものによって伝承されてきたはずだ。近代的な学校教育が始まっても、「学校」の役割は基本的に変わりはしない。「学校」は文字文化伝承のために設けられた特殊機関であり、人間が行う教育行為の一部を担うに過ぎない。
 現在においても、人が成人するまでに身につける事柄のうち、学校によって身につけることの割合はどれくらいだろう。誰かちゃんと調べた人はいるはずだが。 出生直後の母親の話しかけから教育は始まっている。言語を獲得し、身体能力を獲得し、社会生活の基本を獲得するのは三才までの幼児教育だ。ここで獲得され身につけられる情報量は膨大なものだ。自分で子供を育ててみて(といっても多くを連れ合いと両親に依存していたのだけれど)良くわかる。例えば、子供が衣服を身につけボタンをかけられるようになるだけでどれだけのトレーニングが必要か。排便を学び、直立歩行を学び言語を獲得するための学習量はいかほどの物か。その言語を用いて更に学習が進む。生活習慣を身につけ、自分と他者を理解する。これが三歳までにある程度できるようになる。現代社会においてすら、教育のうちに学校教育の占める割合はそれ程多くないと考えてよいのではないか。大体、小学校で習ったことの多くを我々は忘れている。身に付いていない。小学校理科の教科書を読み返してみるとよい。再発見することがどれほど多いか。他方、年長者を含む子供集団で付近の里山を歩き回り得た様々な知識は、今でも不思議なほど身に付いている。
 こう考えないと教育を巡る問題に正しく接近できない。今教育に問題があるとすると、「学校教育」よりも、その外側で行われるべき共同体の教育行為を検証する必要があるのではないか。なぜなら、「学校」は制度化され固定されているので、今も昔もそれ程変わったことをやっていないからだ。(よい意味でも悪い意味でも。)しかし、学校外の社会、学校外での子供の育ち方は戦後70年を見ただけでも大きく変化してしまった。 人類始まって以来行われてきた共同体が次世代に対して行うべき教育行為が、急速に消失しつつある。周囲の大人や様々な年齢層の子供たちと(家族、親族、地域社会の)生活を共にし会話を交わす体験が失われつつある。
 虐待など育児に関するトラブルが絶え間なく報道されている。育児の方法を学校は教えてくれない。(家庭科でごく少量やる?)育児は、人間一人にすれば一生のうち一回しか体験できないことだ。体験から学ぶことはできない。子供が成人するとき初めて結果がわかるのだから。生命を維持し体を育てると同時に前述のように膨大な情報量を含む幼児教育を施さなくてはならない。大変な行為である。拘束時間が多くかつ膨大な「知識」を必要とする。決して学校教育で教えられるようなものでない。これがなぜできるかと言えば、小さいときから成人するまで周囲の親の子育てを様々な角度で見てきたから、そして周囲の経験者が絶えず見守り手助けしてくれるから。文化的伝承の中でしか育児はできない。子育て、幼児教育は親を中心としながらも、共同体による集団的行為であったはずだ。二重の意味で喪失が起きようとしている。子育ての行為が失われ、同時に子育ての文化的伝承行為が失われる。
現代社会では、教育とは学校教育であるような錯覚がまかり通っている。子供たちに欠けたものがあれば学校教育で補おうとする。しかし、従来社会が行ってきた半ば無自覚の教育行為を現在の学校制度で補うことはとうてい無理な話だ。繰り返すが、現在の学校は文字文化の伝承を目的とした特殊教育機関にすぎない。学校教育を覆う社会教育があってこそ、その一部として成立し生かされるものなのだ。
 全ての子供が一律に集団教育を受ける、現在の学校制度自身、長い人類史の中で教育行為の歴史の中で極めて経験の浅い制度である。かつて私が担任した生徒に、全校朝礼に臨んで「千人が同時に同じ事をやるのは異常だ」と言い放ち学校をやめて行って者がいる。これは今思えば極めて健全な感覚であったように思う。他項で述べた、村上春樹のメッセージも正しい。学校制度自身工夫と変革の余地はいくらでもあるはずだ。なくては困る。特に、社会の変化と学校制度が齟齬をきたしているとき学校制度の根本的な再考が求められている。
当面考えられるのは、急速に変化する社会の中で学校がその体面を維持するための「しのぎ」の術。ちまたに溢れる教育論の大半はこの「しのぎ」にすぎない。現行制度でしのぎながら、社会と学校について、具体的に実現可能な変革を模索する、21世紀前半はそういう時代になると思う。
 伝統的な教育行為を社会の中である程度維持している「発展途上」国の人間は強い。グローバリズムにうかれ、ネオリベラリズムに席巻された「先進」国は、自己変革ができないならば、その人間的教育力の格差により「発展途上」国の文化に圧倒される日が来るかも知れない。急進派のテロリズムばかりが目立つが、イスラム文化は世界的に支持者を拡げている。これも一つの兆しではないかと思ったりする。

学校は尊敬されていた?

「完全に市民社会化された家庭では、明治から昭和三〇年代まではあまねくあった学校や教師への尊敬や信頼は、もはや存在していない。」(諏訪哲二 学校のモンスター中公新書ラクレ2007 p104)プロ教師の会をリードし多くの著作を残してきた有名教師の言葉である。実感としてよくわかる。実にその通りなのだ。しかし、学校制度を巡る著作でこれが結論だとすれば、私たちはどこにもたどり着くことができない。逆にこれが、かんがえの出発点なのだと思う。私は、彼がこういう発言をするところに現在の問題点の核心があるのではないかと思っている。
 「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」?。この文章自体がおかしい。もう少し分析的に述べるべきなのだ。尊敬、信頼は本来無条件にあるものではない。人は自分で判断し尊敬しうるものを尊敬し、軽蔑するべきものは軽蔑する。私の過去を振り返っても、尊敬できる先生もいたが、とても信頼できない先生もいた。尊敬や信頼は個別の関係の中で個別に築かれるものである。それが「あまねくあった」つまり広く殆どの学校と殆どの教師が無条件に尊敬され信頼されていたとすれば、それはもはや現代的な意味での尊敬や信頼ではなく、そういう規範に全ての家庭がが縛られていたと言わなくてはいけない。それは「お盆には家に先祖のたましいを迎え入れ、敬うべきである。」という意味での尊敬と同じ事だ。同書で諏訪は1960年代までの教育が成り立たないことを繰り返し嘆いているが、当たり前である。学校は「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」を利用し、それに依存して成立していたのだから。過去を懐かしがり、現代の学校が抱える問題点を論じるならまず、「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」がどのようなものであるのか、それと制度としての学校がどのように利用していたのか振り返ってみなくてはいけない。その上で、「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」を失った現在、「学校」が成り立つのか、成り立つとすればどのようにして「学校」が運営されるべきなのか考えるのが筋であろう。
 バブルの頃から、生徒の質が変わり指導困難を訴えるベテラン教師が多いという報告を様々な場面で聞くようになった。諏訪とて同じ事ではないか。かつて教員は「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」を利用しそれに同期して仕事をしていた。問題は、そのことにどれだけ自覚的かどうかだ。今、そのことをしっかり自覚することからかんがえを進めるべきなのだ。
「あまねくあった学校や教師への尊敬や信頼」はどこから来たか。近代国家として学校制度を導入するにあたって日本ほど楽をした国は少ないのではないだろうか。義務教育の必要性を訴え、各家庭の子供達を労働から切り離して学校に通学させるように指導する、そういう努力を明治政府は殆どしないで済んだ、戦後政府もしていない。子供は「読み書き算盤」を最低限身につけるべきだという認識は江戸時代後期既に広く行き渡っっていた。開国で日本を訪れた西欧人は農民の知的水準の高さに驚嘆する。戯作本がはやり、庶民に向けた出版文化が形成されていた。推計では19世紀半ばの識字率は世界最高といわれる。学制が施行されると聞くや、各村内、町内では共同体のシンボルとして一等地にできる限りの設備を持った学校を建設していく。そういう経緯からして、私たちは「学校への尊敬や信頼」をとおく江戸時代から引きずってきたと考えるのが自然だろう。もちろん明治政府はそれを大いに利用し強化し、「立身出世」の競争原理を持ち込んでくるわけだが。 江戸時代後期全国に広く普及した寺子屋で標準のテキストとして使われていたのは儒教。儒教自身が学問の大切さを繰り返し述べた書物でるから、教育の重要性は再強化する形で次世代に引き継がれていた。私は、「学校への尊敬や信頼」は、日本の農村共同体の規範、それを理論的に補強する役割を果たした儒学特に朱子学あたりにその根があるのではないか。
 そして、ここにはもう一つの問題点がある。封建時代に教育があまりにも普及していたため、近代社会にとって学校とは何か、教育とはなにか、改めてかんがえ議論する機会を私たちは持たずにやってきてしまった。「教育基本法 前文」とか言う人もいるかも知れない。しかし前述のように各家庭を訪問し「・・・・だからお子さんを学校に行かせなくてはいけない」と各家庭を説得してまわるような事を、近代国家建設以来殆どしていない。「現代社会にとって学校とはなにか」改めて問われたとき国民の大半が最低限共通に語れるようなものを持たずに私たちはここまで来てしまった。極端な言い方をすれば、無条件の「学校への尊敬や信頼」が崩壊したとき、後に何が残っているのか。私たちは初めて気付いたのだ。

学校の役割

諏訪哲二 学校のモンスター からの引用

学校が子供(「私以前の私」)を社会的個人(「私」)にすると信じられていたのは一九六〇年頃まで日本の「農業社会的」近代においてである。現在は子供たちは学校へ入るとき、すでに「個」の意識を強く持っている。学校より先に、テレビなどの情報メディアやお金(市場経済)が、子供たちを消費主体としての個人に仕立て上げている。P103

これから学校で育成すべきなのは、生きることの価値にかかわる、あるいは、よりよく生きることを目指す垂直的、かつ「公共的な個」(公を内面化した「私」)であろう。P104

大きく分けて二点の問題を指摘したい。
「農業社会的」近代=あまねくあった学校への信頼の時代なのだろう、子供を社会的個人にすると信じることができたのだろう。しかし、それは教師が勝手に信じていただけで実体はそうではない。これまで仕事をしてきた経験からそう思う。この三〇年を見ても子供達の社会性は未熟化する傾向にある。かつての子供達の方が集団形成に熟達していた。かつて、子供達は学校で生徒として振る舞うに必要な能力を身につけて学校に入ってきた。もしくは生徒として育てる事が可能な下地を入学時には形成していた。そう言い換えるべきなのだ。学校が社会性を養っていたのではない。子供達の社会性を育てる過程の一翼を担うことが容易であったにすぎない。
 個とは他者の意識と対になったものである。21世紀の消費社会の個の意識について私には論じる能力はない。ただ実感として近年の子供達は自我の輪郭が不明瞭で「個」としての意識を強く持っているようにはとても思えない。消費主体として合理的に生きるにはどうすればよいかわかっている生徒達ばかりなら、それはそれで指導しやすいクラスが生まれるに違いないからだ。どのように振る舞えば、快適でかつ最小の努力で必要なものを身につけて学校を出て行くことができるか、議論を闘わせることができる生徒達だったらどんなに素晴らしいか。単に、未熟なだけ。また場を変えて述べたいが、『「農業社会的」近代』から自由であるという意味で今の生徒は大きな長所も持っている。
 もう一つ、同書には繰り返し「社会」「公」という言葉が登場するがその内容は殆ど論じられていない。たとえば家族、隣近所、親族はそれぞれ質の違った「公」であるし、子供が十人野原でかくれんぼしていればそこにはそこの「公」が成立している。21世紀エネルギーの消費は地球全体の「公」の問題である。そういう様々に異質な「公」を一括して論じているところに諏訪氏の論説の基本的問題がある。学校にできることは、学校という「公」を視野を持った子供達を育てることであってそれ以上ではない。そして学校という「公」は学校だけの局所的なものであって決して他の「公」と等しくはない。家族、地域、国家、世界はそれぞれ位相を異にする「公」なのであって、学校にできることはせいぜいそのこと、様々な位相を異にする「公」が存在することを子供達にわからせていくことだけなのだ。子供達は学校というローカル共同体に参加する事でその一つの過程を通過して行く。
 学校という「公」があくまで局所的なもの、局所的な共同体である事を、その共同体を運営する側、教師が強く自覚する必要がある時代がやってきた。かつては、共同体的な掟がそれぞれの「公」を自然に異質なものとして立ち上げていた。現在その「公」の境界が薄れ見方によっては均質な平面に見えるようになってきたところに、現在の教育が抱える困難があるように思う。

学校の役割2

 諏訪氏の考えをもう少し追ってみる。同書では同じくプロ教師の会喜人克氏の著作「高校の現実」からの引用で、ある学校の実例が引かれている。学校のモンスターP93

 A子は、ある先生の授業を全く聞かなかった。A子に言わせれば、その先生の授業のやり方が気に入らなかったらしい。また、その先生の注意の仕方も気に入らなかったらしい。そういうことをA子は親にも言い、そこで親は、「そんなにひどい先生なら、単位なんか一つぐらい落としたっていい。また別の選択科目で取ればいいんだから」と言ったと言うのである。
 このようにして、A子は親も公認で、授業を無視するようになってしまった。それでその先生が「いくらなんでも、出された課題ぐらいは取り組みなさい」と踏み込むと、「あんたの授業なんか受ける気ないんだから」と返してきて、激しい言葉のやりとりになってしまった。
 その時に、やはりこれは、学校の秩序に関わるから見逃せないということで、指導をした。それで、本人と親に校長室まで来てもらった。ところが開口一番、親も本人も「相手の先生にも問題がある」と言うのであった。
 
この事例についての諏訪氏の評価はこんな風だ。

 A子さんと学校側の認識の差の所に、まさに学校の持つ「公」性と「私」性の二重構造が隠れているのである。そして問題は教師も親子もその点に無自覚であり、結果としてお互いの「私」の「等価交換」の茶番を繰り返している事である。P96

 A子さんやその母親は「この私」の人間形成などに手を出すな、と言っているのである。そこが学校は個体(「私以前の私」)を個人(「私」)にするところだ、と思い込んでいる学校や教師の論理と衝突したわけだ。P102

 この事例は、公、個、私、といった曖昧な概念をならべて語るようなややこしい問題ではない。
教師が生徒と社会の変化について行けてないのである。つまり、学校や教師が無条件に尊敬されていた、社会的上下関係を承認し尊重すべしという共同規範が成立していた封建時代の残滓から、頭の切り替えができていないだけである。教師の言うことは全て鵜呑みにしなければならない。教師の側がそう思っている。行き詰まって当たり前である。
 「履修登録した授業をきちっと学習しなければならない」というのはこの学校、この先生の極めて局所的なルールであって、決して一般的な真理ではない。現に大学受験に関係のない科目は手を抜いて当たり前で、むしろ学校側から推奨されている場合は現にいくらでもある。履修登録しても思ったような授業でなければ単位取得をしないで済ますのは大学では当たり前のことだ。
学校は生徒が入学するときに、教師は各のクラスが始まるときに、それを成立させるためのルールを明示する必要がある。生徒がそのルールに反する行動に出たとき、ルールを守らないと学校が運営できない、授業が成立しないという点について教師は生徒を指導する。教員は、学校という場で、授業内で、「教える」という役割を演ずると同時に運用ルールの審判の役割を同時に担っている。
学校という共同社会の運営を成立させるための規則はどうしても必要だ。どんな素晴らしい授業も生徒がまず耳を傾けなくては意味がない。同時に、その規則は明示しなければならない。そして教師が語るべき真理は、
局所的な社会を成立するために定められた局所的なルールはその社会に参加する限り守らなくてはならない。その規則もしくはその運用に問題があるなら、定められた正当な手続きをもって意見を述べなければならない。そうでなければその局所的社会は正常な運営ができない。
ということのみである。それが、学校が生徒に求め育てることができる社会性である。

この件の場合、学校でしか成り立たない、もしくは「その学校」「その講座」でしか成り立たない、ローカルルールを、教師の方が「無条件に承認されて当たり前な一般的真理」と思い込んでいることが問題なのだ。そしてこのローカルルール違反を、あたかもその生徒の人間性そのもののようにあつかって指導したのだろう。「私はこのようなルールで授業と成績評価を行う」それを授業に際して生徒に明示しておけば良かっただけのことだと思う。そうすれば「君はルールAに違反した、したがってルールBに示した指導を行う」という風に対処して何の問題も起きないはずだ。
 たとえば私の場合、数学の問題演習中は相談をしても良い。むしろした方がよい。他の生徒に教わるためなら教室内歩き回っても良い。しかし、こちらが黒板の前に立って教室全体に話しかけ始めたら、指定された席に戻り話を止めなさい。というようなルールを4月授業始まるときに語る。評価の9割は考査の点数による。1割は課題提出などで補う。授業態度を評価に算入しない。等のこともまず4月に明示する。もちろんこれも教える科目、生徒の質によって適当に切り替える。
 現代の学校は、ある一面ではサッカーゲームのようなものだ。ルールが無くてはゲームが成り立たない。ゲームの進行中は審判の判断は絶対である。これもルールのうちで、いちいちクレームを受け入れていてはゲームが成り立たないから。しかし、ゲーム中にボールに手を触れたからといってその選手が極悪非道な人間なのではなく、単にサッカーのルール違反をしただけである。ボールに手を触れてはいけないのは、プレー中の特定の選手特定の場面だけの話で、コートの外から手で投げ入れたりする。キーパーは手で掴む。他の球技はたいてい手を使ってやる。一般的真理ではない。プレー中審判の判断に従うのはそれがルールで、そうでないとサッカーが成り立たないからである。審判が偉いからでも人間的に優れているからでもない。私はこう語って校則を生徒に納得させてきた。またこの論理は現在の社会で有効な論理だと思っている。
 現在の学校の規則、いわゆる「校則」とその他不文律、各教員が定める授業ルールなどの中には、このような近代社会での学校のあり方とそぐわない、生徒に説明不可能なものも多い。その代表例は「不純異性交遊」なる規則だと思うのだが。諏訪氏が引いたようなトラブルを避け学校の正常な運営を考えるなら、現代社会に相応しい、生徒に説明可能な運営規則の整理をする必要があるだろう。同時に、明治以来、基本的にサボタージュされてきた「社会における学校の役割」を対象化する作業を、今しっかり行うべきだと考える。

ダンス・ダンス・ダンス

「(略)学校なんて無理に行くことないんだ。行きたくなけりゃ行かなきゃいい。僕もよく知ってる。あれはひどいところだよ。嫌なやつがでかい顔してる。下らない教師が威張ってる。はっきり言って教師の八〇パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ。ストレスが溜まっていて、それを嫌らしいやり方で生徒にぶっつける。意味のない細かい規則が多すぎる。人の個性を押し潰すようなシステムができあがっていて、想像力のかけらもない馬鹿な奴がよい成績をとってる。昔だってそうだった。今でもきっとそうだろう。そういうことって変わらないんだ」
「本当にそう思う?」
「もちろん。学校のくだらなさについてなら一時間だってしゃべれる」
              ダンス・ダンス・ダンス 上巻P325頁 村上春樹 
 主人公「僕」と旅の途中で出会った美少女ユキとの会話。中学校に行かないユキに「僕」が語りかける。日本で最も高い人気を誇る小説家の作品中の会話である。この本だけで日本で二百万部位上売れているらしい。もちろん作品中主人公の言葉で、村上本人の言葉ではない。しかし「風の歌・・」から本作品までの「僕」の目線は作者に近い。学校教育の駄目さ加減については彼の小説に繰り返し出てくる。逆に学校に肯定的な意味を与えるような記述を少なくとも私は思い浮かべることが出来ない。彼の読者はこの言葉を共感をもって読むはずだ。がんばって教師やっていた職歴数年の私もある種の爽快感をもってこの会話を読んだと記憶しているし、その印象は今でもあまり変わりらない。
 学校って基本的にこんな所、でも日本の子供達ほぼ全員が学校に通っていて、少しはましな場所にするために何かやることはあるはずだ。そう考えながら仕事をしてきた。村上春樹の書物を、私が拘ってきた日本の伝統的共同体意識から離脱した主人公の、社会に対する違和感の表明と新しい生き方模索として読んできた。彼の新刊をいつも楽しみにしている。

否定命令文

教員をしていると生徒に対して、始終否定命令を発することになる。
  「欠席するな」
  「遅刻するな」
  「校則違反するな」
  「授業中私語するな」
  「授業中居眠りするな」
  「宿題忘れるな」
  「掃除さぼるな」
  「ここに自転車止めるな」
ある時、米国人教員から、英語ではなるべく否定命令を使わないようにするという話を聞いた。例えば
  「持ち出し禁止」→「この部屋で使用しなさい」
  「立入禁止」→「外側に居なさい」
こういう方が望ましいらしい。それでは、我々が学校で使っている否定命令も言い換えたらどうなるだろうと、思い立ったのが始まりだった。まあ当たり前の言い方だけれども
  「毎日ちゃんと学校に来なさい」
  「規則ある生活をしなさい」
  「校則を守りなさい」
  「授業作りに協力しなさい」
  「授業に参加しなさい」
  「宿題をやりなさい」
  「掃除をしなさい」
  「自転車は駐輪場に置きなさい」
 否定命令は行動の制限である。学校生活で多くの否定命令に出会い、行動を制限されて生徒はうんざりしているはずだ。私でも生徒の立場だったらうんざりすると思う。行動できる余地がどんどん減っていく。否定命令のかわりに行動の指示を心がけるようになって、生徒との関係がちょっと良くなった様な気がする。
 同じようなことを言うにしても、肯定的に語れば、何らかの行動のヒントがそこに含まれる。生徒の行動を否定する代わりに、我々が生徒にどのような行動を求めているか具体的に語る方が教育的なのは間違いない。また、否定命令を乱発することで、教員の側がするべき教育を放棄し行動の判断を生徒に丸投げしていることも多い。
  「遅刻をするな」
を言わないようにしようとすれば、時計が現代社会で果たしている役割、それに同期して生活するトレーニングの必要性を説明し、時計が近代社会の建設に果たした役割を考えさせる。時刻に同期した生活を作るための方法論、睡眠や食事の心がけについて語ることになる。「それが嫌なら、狩猟採取民になれ」と説教をする。
  「級友をいじめてはいけない」
これを肯定的に言い換えるのは結構大変だ。私たちがいかにして共同体を作りうるのか、人間が生き延びるためになぜ共同体が必要なのか、語り起こすべきだろう。どういう人間関係を作るべきか、そのためにどのような行動基準が必要になるか、どういうスキルが必要になるか、生徒にわかるように提示し、必要な訓練プログラムを実施しなくてはいけない。否定命令を使わないように心がける事で新しい世界が開ける。
数学教育で言えば、例えば
  「計算ミスをするな」
こう言うかわりに、なぜ計算ミスが生まれるのか、どうすればミスのない計算を素早く遂行できるか、生徒に提示するのは数学教員の腕の見せ所である。
 肯定的な行動指示を意識することで、生徒との壁を一枚取り除くことができる。新たな課題を見いだすことができる。比較的経験を積んでからやっと気がついた。