岩手中2自殺事件 2

先の記述アップロード後もう少し調べてみると、担任は本人と相談していたし、手を出した生徒も指導していた。単に無関心を装っていたわけではない。でも自殺を止めることが出来なかった。

担任は、この件を「いじめ」と扱わなかった。公的にいじめと認知すれば、ある種のルールに則り管理職に報告し対処することになる。大事になる。担任の失策になる。それを避け1人で処理をしようとして失敗した。そう推察する。「いじめ」でないと思い続けていた、思い続けようとしていた。同僚にも相談を持ちかけたのだろうか。事実関係は不明。

何故こうなるか、先に書いた教員の孤立、個別管理の進行、相互協力関係の喪失が根本原因だと改めて思う。その結果、教員として身につけるべき「スキル」が失われた結果だ。

いじめは、最近現れた現象ではない。子供が集団を形成すれば必ず現れる。どのような時代にも、どのような国にも、子供集団のいじめはあるだろう。未熟な社会集団に現れる病理のようなもので、その治癒によって集団が一歩成長する。いじめの克服から、子供たちは他者を認識し社会性を向上させる。例えれば誰でも風邪を引くのと同じ事だ。放置すれば深刻ないじめに発展する人間関係の縺れは、未熟な子供たちの集団には常時発生する。これは誰の責任でもない。生徒の未熟さそのものが原因なのだから。風邪を引いたからといって、健康管理の責任を問いはしないのと同じだ。

そういういじめの「芽」を見つけ、生徒の人間関係を調整するのが、集団を管理する教員の仕事だ。これは、子供に集団で教育を施すようになって以来、だから日本で言えば「寺子屋」以来続いてきたこと。未熟な社会集団を管理し成長させる方法だ。そこには膨大な経験の蓄積があって、それを元にしながら教員はいじめを指導し集団を管理し、その経験がまた一つの情報として蓄積される。こうして貯えられた力量を教員集団の教育力というのだろう。

このblogでも再三触れたが、生徒の質は変動している。古典的な共同体倫理の感覚は表面上失われ、社会性も未熟。学校外に別の社会集団を持つことが少なくなった。一方電子機器を通じた新しい人間関係手段が広がる。これらも、ある日突然やって来たわけではない。全く未経験の世界に学校教育が放り込まれたのではない。一歩引いて眺めてみればゆっくりした地滑り的変容過程で、教員は新しい事態に対応しながら経験を蓄積し共有してきた。

別項でも書いたが、いじめに発展するようなトラブルを未然に防止し子供集団を成長に導くためにすべき指導はあって、これも大切だ。風邪ひかないように基礎体力を充実されるみたいに。でもどんなに体力があって、どんなに健康管理に気を遣っても運が悪ければ風邪をひく。同じように子供集団にいじめの種は現れる。風邪ひいたと思ったら、さっさと寝る。休む。無理して平静を装うと深刻な肺炎に至る。

ごく小さな種は、見つけたらすぐ潰す。関係者と集団全体に必要な対処をし、経過を見守る。腫瘍の摘出手術のようなもので、術後の経過観察は重要。それも周りの教員と相談を重ねながら、意見を拝聴しながら。少し種が大きくなると1人では対処できなくなる。同時に処理しなければならない指導と、情報が1人では抱えられなくなる。一晩で五軒家庭訪問などできない。1人で無理がわかれば、教員集団で話をしてこれは皆でやろうとなったら、何人かの教員がさっと立ち上がり必要な対処をこれで無事が相互に確認できるまでしてしまう。日常から、教員集団で生徒集団を指導しているから、生徒の側も集団として教員を見ている。指導を受け入れる素地がある。少々理想化すれば、かつては教員がこんな風に動いていた。だから「いじめ」が大事になる前に処理されるケースが多かった。

このケースでも、担任が「いじめ」と呼ぶかどうかは別に、経験ある同僚と相談し、トラブルの完全解決まで集団として動く事は可能だった。そういう集団形成が教員社会から失われつつある。教員自身が出来なければ、生徒に健全な集団形成を促すことなど出来るわけがないのだ。

岩手中2自殺事件

岩手県でいじめによる自殺が起きた。悲痛な出来事だ。(2015.7.5)今回の事件では、生徒が担任と交わした「生活記録ノート」が存在し、生徒の気持ちとそれに対する担任のコメントがつづられていた。これを父親がマスコミに公開したことで、マスコミは学校と担任の責任追及に動いている。もう当たり前になりつつあるが、当該中学校関係者のtwitterから担任名がネット上に流出し個人攻撃が繰り返されている。

普通どうするだろう。担任はこのような記述が最初に現れた時点で、「うちのクラスの生徒がこんな事書いてきた、どうしよう」と同僚と相談するだろう。特に経験あるベテラン教員に助言を受ける。即刻生徒を呼び出して事情を聞く。周辺生徒を個別に呼び出し情報収集する。担任団で協議し、更に学校全体で対応策を協議する。学校に来てもらうか家庭訪問して保護者と面談、事情を伝えて対策を検討。いじめに関与した生徒の調査、指導・・・。教員が集団で動かなければ、これらのことを早急に行うことはできない。いじめへの対処は難しい。被害生徒に今後の健全な学校生活を保障するために取らなければならない対応策は、微妙な配慮が必要であり状況に応じて千差万別。だからこそ教員間での情報共有と意思疎通は不可欠であるし、ベテラン教員の過去の経験がこういう場面で生かされる。こんなことは、「マニュアル」など無くても当たり前のことだ。普通に教員生活をおくっていれば否応なく身に付く、「スキル」である。のはずだった。それがそうならなかった所を考えるべきで、これは単に当該教員の能力や性格の問題ではない。

クラス担任は担任クラス内のトラブルをできれば隠蔽したいと考えている。これは、小中高問わず全国に広がる傾向ではないか。労働組合に象徴される教員間のつながりは失われ、管理職による、個別教員の管理が進行する。(学校評価・教員評価)クラス担任にとっては、「クラスの出来」は、自分の勤務評定。テスト平均は“他のクラスより”高い方がいい。遅刻欠席は“他のクラスより”少ない方がよい。トラブルは無いに越したことはない。クラスの中でいじめが起きれば担任のクラス運営能力にマイナス点がつく。生徒が多少辛い思いをしても、一年間表面上トラブルがなければその方がよい。更に、教員は大学に進学し教員免許を取得できた受験エリートであり、小さい頃から自分がテストの点で偏差値で評価されることに慣れきっている。教員の仕事を始めても、わかりやすい評価を求めて教員個別管理のシステムに自ら進んで組み込まれていく。こういう世界で教員は仕事をしている。

極端な場合をあげれば、自分の指導力は自分の評価を高めるためのみに使われ、その経験とノウハウは他教員に伝達されない。その方が自分1人が目立つ。自分と関係ない生徒のトラブルには口を挟まない。下手に関与して失敗すれば自分の評価を下げる。成功すれば自分ではない教員の評価が高まる。このような損なことはしない。そしてトラブルは出来る限り隠蔽される。業績が個人のものであると同時に、トラブルもまた個人の責任に帰せられるから。個別管理され、競争を煽られている集団で普通に働く心理だろう。こうして教育の質は低下し、ネオリベラリズムの時代、日本企業は生産性を下げる。企業でも同じことが起きていると思うのだが、如何であろうか。

自分のクラスのトラブルは「無い方がよい」。これはいつの間にか、「無いに違いない」「無いはずだ」という思い込みに転化する。今回公表された「生活記録ノート」の担任コメントはその感覚をよく表している。生徒の記述には、担任へのそれなりの信頼が感じられるだけに、今回の「ノート」は読むのが辛い。

このblogで私が再三繰り返して述べていることだが、学校は、生徒集団を教員集団が指導する場だ。クラス運営一つ取り上げても、担任1人でできるものではない。それは、指導の難しい生徒集団を前にし、学校の成立そのものが揺らぐような事態に追い込まれると実感できる。生徒よりも強い団結力を教員が誇示出来なければ、乗り切ることが出来ない。このような団結力は管理職が上から押しつけては出来ない。教員自らが互いの絆を結んで作るものだ。表面上生徒が沈静化し、教員の団結が求められるような緊急事態に遭遇することが少なくなった現在、学校の存立構造が教員自身にも見えにくくなっている。その裏で、教員の結束力が失われるのと並行して生徒指導の質も低下し続けている。今回のように問題が起きれば、管理の強化で対応しようとする。そして教育の質的低下は更に深く裏面で進行するだろう。この悪循環の途上。これが今回のいじめ事件について私の感想だ。

「クラスの出来」を競い合うのではなく、生徒集団全体の成長を教員集団全体で愛でる。教員集団の自己評価とする。教員の仕事をそういう評価システムに変換しない限り、今回のような事態は繰り返し発生するだろう。教員の個別評価などというつまらないことをやめることだ。一方、教員が自分の仕事を評価する仕方を自ら変更しなければならない。現行の学校教育で育った、若手教員がこのような価値観を何所で手に入れるか。

いじめについて_1

いじめについて触れようと思う。
心理学や教育学の専門家ではない。統計データも専門の文献も読んでいない。ただ三十余年の経験から言える感想を述べることしかできない。
いじめとは
いじめを定義するのは難しい。様々な生徒の人間関係は多様でそれこそ連続的に広がっている。
ここまでは悪ふざけで、ここから先はいじめ。これはしごきで、こっちはいじめ。このような区別がつくものではない。いじめている当人も自覚していない場合が多いし、いじめられている被害者もいじめだと思っていない。これには境界の曖昧さ以外の理由があるのだが。いじめの発見や対処が難しい一つの理由がここにある。
社会的、肉体的上下関係を利用して、一方的に精神的肉体的苦痛を与えること。
取り敢えずこういう事にしておこうか。しかし、具体的な対処の場面では細部にこだわるべきでない。経験から言って、教員がいじめに対処する第一歩は、こちらが一方的にいじめだと認定し宣言してしまうことに尽きる。言葉を換えれば、「これは生徒間で許されない行為であり、許されない人間関係の作り方である」と一方的に評価を下すことからいじめに対する処置がはじまる。別に、周囲もしくは当人がいじめと言おうが言うまいが関係ない。このような人間関係は許さない、と断固宣言することが大切だ。
ただ、このように文章で論じる場合は、ある種の定義が必要だと思うだけだ。

現在と過去のいじめ
いじめは昔からあった。私の少年期にもあった、就職初期の時代にもあった。統計で見るるとむしろ減少している。(「平成17年度生徒指導上の諸問題の現状について」(文部科学省調べ)
それでも現在いじめが社会的に問題視されているのは、いじめの内容が大分変わってきたからではないかと思う。現在と過去のいじめの違いは、他の項で書いた生徒の質的変遷によると思われる。他の項で書いたことをいじめとの関連でもう一度記す。
まず、生徒が集団形成をしなくなった、できなくなったことによるもの。かつてのいじめは、集団がその集団を維持するため、集団維持に敵対する者や集団維持の障害となる異質な者を排除したり、制裁を加える行為としてあらわれた。いじめの理由が明らかだった。教員として外側から見ても善し悪しは別として理解できたし、内側にいる加害、被害双方が、なぜいじめるのかいじめられるのかわかっていた。少なくとも、いじめる側はいじめることを正当化する論理を持とうとしていた。
ということは、いじめられないためにはどう振る舞えばよいか、互いに明確だった。我慢して、集団の要求に従うか、いじめ覚悟で自分の個性を貫くか、選択の余地があった。それがまた辛いものであったにせよ。集団の要求も随分理不尽な場合もあった。ただ少なくともある日突然全く理由もなくいじめが始まるといったことはあまりなかったのではないだろうか。
もう一つ。集団として、ある種の制動が効いた。極端ないじめのエスカレートは集団内で正当化されないし、逆に集団維持を困難にする。「それくらいにしておけ」というのものがいた。まあその限度も決して正当化できるものではない場合も多かっただろうが、どこかに制裁の限界があることは了解していた。もしくは、教員が働きかけることで、比較的容易に集団に制動機能を持ち込み限度を調整することができた。
孤立した加虐-被虐関係は際限なくエスカレートする。私は心理学の専門家でないけど、親子関係でも、夫婦関係でも、孤立した虐待関係は悲劇を生む。私たちでも、自分の子供に説教をしているとき虐待の、底なしに深い穴を覗く体験をしたことはないだろうか。いじめでもそうだ。どこかで制動がかからなければどんどんひどくなる。
また、集団性の喪失と同じ事なのだが、かつて生徒が共有していた倫理規範が希薄になってきた。1980年代であれば、「自分より弱い者に手を出すのはみっともないことである」という説教に生徒は敏感に反応した。共同体意識のこのような部分を教員が少々補強することで生徒集団の質を高めることができた。ある種の「美学」を共有することができた。今こういう説教をしても、本当に何を言われているかわからない生徒がいる。また、他項でも触れたけれど、教員に他の生徒のことを言いつけることは、絶対のタブーであった。私の少年期もそうであったし、就職当時も同様だった。校則違反に関してきつい取り調べをしても、自分の非は認めるが同伴した他の生徒について殆どの生徒が口を割らなかった。(こういう生徒は教室に帰れば英雄になれる。)近年様相は一変した。自分の非を認めれば同様の行為をした生徒のことを簡単にしゃべる。こちらはちょっとがっかりしながら、楽に調査を終える。教員室に公然と他の生徒の非を報告に来る生徒などかつては考えられなかったことだ。
これらの規範(美学)はファシズムの温床でもあり、強烈な差別意識を伴う場合もある。少なくとも個人を共同体に拘束し自由を奪うものだった。これを一方的に美化するつもりはない。しかしその規範に従う限りにおいて人間関係についてある種の安全が保障されていたのは事実だ。実質的な共同体の崩壊の進行と並行して時間差をおきながらこれらの規範意識が希薄化する途上に私たちはいると思う。
次に指摘したいのは、生徒のコミュニケーションスキル、人間関係力がどんどん低下していることだ。他の生徒の言動が了解できない。自分と均質な人間しか理解し受容することができない。かつてなら、少々「変わった」生徒がいても周囲がそれなりに了解し集団の中に存在位置を与えられたものだ。「変わった」生徒自身も周囲を理解し集団の中でどう振る舞えばよいか心得ていた。転校生とかお金持ちなど社会的な理由の異質さ、勉強が極端にできるできない、内向的性格、さらに現在ならアスペルガー症候群に分類されるような異質さ、これらの「変わった」生徒も教室内でそれなりの社会的地位を得ていた。少なくとも比較的容易にそういうクラス集団を作ることができた。
今は、お互いが良くわからないから、取り敢えず排除の対象にならないように振る舞い、均質な者同士が小集団を形成する。面と向かって物を言うことが苦手だから電子媒体に頼る。理解できない生徒は排除の対象になる。極端なことを言えば、そもそも皆が互いを良くわかっていないから、ほんの偶発的な事柄が排除の原因になる。よく指摘されるように、いじめの被害者と加害者が流動する。
現在のいじめは、人間が集団を組めば必ず発生する排除の論理が、制動を失ったものなのか、かつて明確な形で存在した、共同破壊行為に対する制裁措置が残滓として社会的に生き残り他の共同体論理との関連を失って暴走しているのか、私には良くわからない。恐らく両方なのだろう。少なくともここで指摘した要因が重なり合って、現在のいじめが過去とは違った異様な事態を生み出す事になるのだと思っている

いじめについて_2 

いじめを少なくするため、学校で何ができるかについて。いじめを全くなくすことは恐らくどのような集団にもできないし、「自分のクラスでいじめはない」と教員が思い込むのは危険なことだから、なるべく少なくするために何ができるかを考える。
答は単純だ。『全ての他者を尊重する』その規範を持ち込み強化すること。これしかない。私はうまく条件さえ整えば、ある意味容易なことではないかと思っている。体験的にも。その理由を書く。
前項で、生徒は変質していると書いた。また現代の若者について論じた書物は数多くある。一方で「日本人論」も多く、こちらでは日本人は外国と比べてどう違うか、またそれが如何に変わらないかその特性を論じている。これは奇妙なことだ。会話が失われ変わってゲームや電子メディアが普及し婚姻率も下がり、と若者の変化が報告される。一方、「出る杭は打たれる」、自己主張がない、同調圧力が高い、交渉力がない、日本人論が好き・・・明治開国以来変わらない日本人の弱点が指摘される。どちらもが、正しいのだろうと思う。流動する表層からと強い惰性を持った深層までの広がりを持って文化や規範は動いていく。二千年近くも前に成立した神話が日本人の心を読み解くために用いられるのだから。
数万年にわたり日本列島に定住し、二千年もの間共同で稲作を行ない築かれた日本人の共同体論理が簡単に失われるはずがない。弥生人の流入、縄文人の排斥などあっただろうが、逆に長い歴史の中で民族の流入対立が指摘できるのがこの一点くらいというのが大変特殊なことだ。
親孝行とか先祖を敬う意識は薄れてきたように見えるが、敬語は生き残り、日本語で二人称代名詞が英語の様に一つになることは想像できない。別項で書いたが、大学体育会の特殊な社会は程度の差はあれ今でも生き残っている。旧帝国軍隊の上下関係をそのまま温存したような社会が、高等教育の中に公然と生き残っている。その異様さはインターネットで検索してみても容易に知ることができる。(こんなことやっていて日本のスポーツが強くなるはずがない。)大学体育会を通過した人間が、体育系部活動を指導し、社会体育を指導している。
神戸の震災、東日本大震災などの危機に際して、日本人の復興へ向けた共同作業は海外から絶賛されているという。混乱に際しての略奪行為は稀少で、互助的社会組織が自然発生的に立ち上がる。共同性が必要とされる社会的実体を前にすれば、深層意識は表面に出てくる。良い意味でも悪い意味でも私たちは共同体意識を深く抱え込みそれに縛られている。
生徒の中に他者を尊重する規範意識を育てるために、新たに何かを植え付けるのではなく、以前より少々深く深層に分け入って共同体意識を掘り起こせばよい。90年代の半ばから、クラス担任や教科担当としてクラス集団をまとめるためにこう考えてやって来た。実際これは可能なことだ。大切なのは、名目としてではなく、教員自身が本気でそれを語ることだ。
他人を傷つける事を最も許されないこととする。他人を助けることを最も賞賛されることとする。個人的な事柄、例えば学校を遅刻する事より、集団的事柄、例えば教室掃除を他人に押しつけてさぼることを次元が違う悪事であると宣言し生徒とことん追求する。成績の良かった生徒より、級友に勉強教えた生徒を賞賛する。これはなかなか細かい配慮のいる事柄で、学校生活の結果として残るのは、学業成績、出欠記録、各種検定、進路などどれも個人的事柄ばかりなのだ。そういう結果よりも他者や集団の尊重の方が次元を越えて大切だと折に触れ、矛盾なく、本気で語り続ける。また、担任としても弱者(=勉強苦手な者、問題を抱えた生徒)に対してエネルギーを注ぎ続ける。
さらに、そういう価値観に基づいて集団形成をする。他者をたいせつにする以上きちっとした集団を作れ、これも折に触れ言い続ける。遠足・研修旅行・合宿・体育祭・文化祭あらゆる行事を利用して、集団形成を助ける。リーダーを育て運営テクニックを教える。
先に述べたように、生徒にこれを受け入れる素地はある。さらに、別項で述べたように、現在の生徒は世間が言うほど個人主義の論理を身につけてはいない。クリアーな自意識を持ちしっかり自己主張する生徒は少なくとも増加していない。また、自己の栄誉達成のため、主体的に努力する生徒の数はむしろ減少している。確かに社会は競争を煽り、保護者は子供を競争に向けて駆り立てるが、それに従う者は一定数存在しても自覚的に競争に入っていく生徒の数は少ない。受動的なのだ。学習塾(それも個人指導主体)の繁栄はその結果と見るべきだろう。要するに倫理規範を失い集団形成力を失った今の生徒は、代わりに西欧的個人主義を身につけたわけでもなく、単に白紙なのだ。白紙だから染めやすい。(極右・極左にでも容易に染まるだろう。)入学したばかりの1年生は楽で、特にそのまま3年間持ち上がりの場合3年目にはかなり成熟したクラスを作ることができる。逆に、全く接点がなかった学年で突然卒業学年の担任をしたときは苦労した。
少なくとも、私が管理する集団としては、その「ローカルルール」に従う集団になる。それでよい。むしろその方がよい。絶対的な真理として与えるのではなく、この集団に適応される仮のルールとして、規範を設定する方が生徒も受け入れやすいし、本来倫理規範は局所的なものと扱うのが健全だろう。これも教えなくてはいけないことだが、社会集団はそれぞれその集団だけに有効なローカルルールを持つ。校則などもその典型なのだけれど、絶対的な基準としてではなく局所的なルールであると説明する方が、あらゆる学校での振る舞いは生徒が受け入れやすい。納得すれば生徒は上手に頭を切り換える。繁華街で全裸になってはいけないが、風呂屋では全裸にならなくてはいけない、社会というのはそういうものだと生徒に説明してきた。ローカルルールを守りながら生徒は考え成長する、それが余所でも適応される行動規範として身に付き発展させてくれる生徒が小数でも存在したら、十分ではないですか。更に言うなら、倫理規範を明確にすることは、生徒の思考にある種の座標軸を与えることに繋がり、生徒の人間的成長を促進するのではないかと思う。集団形成がうまく行ったクラスの卒業生はむしろ進学実績も良いし社会貢献に繋がるような職業選択する生徒が多いように感じている。
勿論、こういう生徒指導が学校全体で共有され学校としての局所ルールとなればそれに越したことはない。私はこれに関する実践について言う資格はない。若い白紙の生徒を変えることは容易いが、教員集団は生徒集団より遥かに強い慣性が働いていてなかなか動かない。特に近年の若手の教員は教員自身、既に共同体の論理に触れることなく育ち、主体的集団形成の経験もない「お利口さん」である場合が多い。また、厳しい学校観競争に晒されていて、売り物としては個人的な栄誉の達成以外ないと信じられている。(本当はそんなことないと思うのだけれど。)学校全体を変革するためには、しっかり労働組合を組織し活動すべきであったが、多忙にかまけてそちらに力を割くことができなかったことを今悔やんでいる。
もし、このサイトを子供を育てている保護者の方が見られているなら、こう助言したい。学校案内のパンフレットやホームページでの学校紹介欄で、他者や集団を尊重する人間教育にまず最初に触れる学校を選ばれるのがよい。個人の栄誉達成についてばかり書かれている学校は如何にきめ細かなサービスが謳われていても生徒間でいじめが横行している確率が高い。教育理念は意外に教員と生徒を拘束するものだ。
また、他者を理解する能力、人間関係を取り結ぶ能力については、高校になってやれることには限りがある。対等な立場で肉体的に面前するような体験の絶対量が、幼児期から不足しているのだから。肉体的に相対したとき人間は特別なモードにはいることを、アスペルガーの研究が教えてくれる。そのモードに入れないのがアスペルガー症候群の特徴の一つなのだそうだ。その上で文字化された言語以外から(仕草、表情、声色・・)情報を読み取り処理するのは一つのスキルだ。トレーニングが不足している。高校生になって教員ができることは、他者理解のスキルに気付かせること。そして何より、他者を理解しようとすることの大切さを訴え続ける他ない。折に触れ、級友を理解しようとしているか、生徒に問い続ける。互いが理解しようと努める様な集団形成を心がける。
当然ですが、ここで書いたことは私が目標としてきたことであって、実現できたことではありません。手痛い失敗もしてきたし、ひどいいじめにも出会いました。ただ、こういう方向に走ってみると結構うまく行く場合がありますと申しているに過ぎないことをご了解下さい。

いじめについて_3

次にいじめの発見と対処について。
一番問題に感じるのは、『いじめの被害者は、いじめをなかなか認めない』という臨床心理の世界では広く知られたことがらが、学校教員になかなか認識されていないことだ。私自身書物で学んだ当初は「そんなものかな」少々疑問を持っていた。が、実際のいじめ事件でこれが当てはまる場合を体験し納得した。いじめの被害者は、「これはいじめではない」と自分に言い聞かすことでかろうじて自分を支えている。自分自身でも追う思い込んでいるし、指導に入った教員にも、「これは、私自身も進んで参加している悪ふざけである」というような言い方をする。いじめであると認めたとき、最後の心の支えが折れてしまうからだ。だから、いじめが深刻であるほど、被害者が深く傷つけられていればいるほど、被害者はいじめを心理的に認めない。「私はいじめられている」と被害者が口に出して言えるいじめはまだ軽度なのだ。マスコミで報じられる、学校が気付かぬままある日いじめが原因で生徒が自殺してしまうような事件が起きる原因の一つはここにある。(私は幸いこのような深刻な事例に出会わなかった。ただ幸運だっただけだろう。)教員が一方的にいじめであると認定し被害者が安心できるような処置を始めたとたん、被害者は、今まで仲間だと主張していた加害者に関して、一転その残忍さを堰を切ったように語り始めたりする。
被害者の申告を待っていじめの認定をし、対処を始めたのでは必ず遅れる。このことを、現場の教員にもっと広く周知徹底すべきだ。先項でも書いたが、いじめの認定をするかどうかが問題なのではない。行為の事実そのものを、指導しなくてはならない。
書くのは簡単です。実際いじめが起きたときその処置は大変難しいことはわかっているつもりです。担当教員そして学校がどういう価値観で指導を行っているか、加害生徒、被害生徒、そして周囲の生徒にも納得させられるような処置をしなくてはならない。当然、教員の指導が入ったことで逆にいじめが進行するような事態を防ぎ、被害生徒を守り切らなくてはならない。
いじめが起きてしまったときの対処については、いくらでもテキストがあるので気のついたことを何点かあげるに止めます。
まず、いじめの指導を容易くするかどうかは、普段から学校がどのような指導をしているかと大きく関わる。前項で述べたような、いじめを許さないような価値観を教員、学校が体現していたかどうか。普段成績のよいものや部活動の結果のよいものを極度に優遇し生徒を差別的に扱っているような印象を与えてしまっていたら、ある日突然いじめは許さないと言っても生徒は納得しないだろう。勿論、運動会で一等とったら賞品あげるように、優秀な者を当然褒めるが、一方で全生徒に平等に指導が行き届いていないといけない。学校観競争が激しくなり、「実績」に教員の目が集中するとき、教員がよほど慎重に振る舞わないと、生徒の側は不公平感を募らせる。これではいじめ事件の処理を生徒が受け入れないだろうし、生徒の学校への不公平感はいじめの温床そのものだ。
また、いじめの指導が特にそうなのだが、生徒指導全般これは経験の蓄積以外にたよるものはない。生徒は流動し変化しているといっても生徒である。過去の様々な出来事への対処、成功もあり大きな失敗もあった経験から学ぶこと活用できる事柄は多い。困難な事例であればあるほど、多くの教員の結束が、特に経験を積んだ年配教員との連携が大切になるはずだ。これが、先にも言った「成果主義」に走り、それに向けた体制変革にばかり目がいく現在の学校では難しくなっている。古いものを切り捨て「効率」よく「改革」することが善であるような風潮が多くの学校に見られるのではなかろうか。過去を知らない若手教員が改革の旗手として重視され、年配教員が邪魔になる。結果として、貴重な生徒指導経験の蓄積までもが切り捨てられていく。悪いものは改めなくてはならない。しかし、学校の運用の形の全てに経験の蓄積があり現在の形となった理由がある。(教員が楽をするためずるずるとできあがったものもあるのだが。)生かすべき歴史、経験の蓄積を無視して発展はない。
医者、教員は、同僚をかばう。医療ミス、教育ミスはなかなか表に出ない。これは教員にとって難しい問題だ。長く共に仕事を続けてきた同僚は大切だ。チームプレーでしか学校教育は成り立たない。人数比で二十倍もの生徒を管理し学校を運営できるのは教員の結束があってこそ。その同僚の人生を大きく変えてしまうようなことはしたくない。そういう事態をできる限り回避したい。当然だ。更に、先ほどから述べているように学校観競争の中で学校の評判はできる限り落としたくない。そういったわけで、ミスを出さないようにする心理が教員に働く。一方、人間のやることだから失敗は必ずある。教員の何気ない一言が生徒を深く傷つけてしまう場合もある。緊迫した事態の中で教員が自制心を失う場合もある。生徒は時として教員の予想を超えた行動をとる。いじめも起きる。当然そうならないよう心がけていても。慎重に運転していてもだれでも必ず自動車保険をかけるように、教育ミスは起きる。私も大小様々な失敗を繰り返してきた。そういう必ず起きる教育ミスに対しどう責任をとればよいのか。残念ながら、私に経験からできるような提言はない。
教育のミスは学校の教員集団のシステムの不全として起きる場合と(いじめ等)事故そのものは特定の教員によって起きる場合がある。これらのミスを教員集団全体の問題として認め責任をとり改めていかないと集団の発展がないことは確かだろう。教員個人が起こしたミスの中には明らかにその個人の資質に関わるようなものも含まれる。(よく問題にされる教員の生徒に対するセクハラなど。)このような問題であっても、教員集団の形成の仕方によって防げるのではないだろうか。教員は聖人ではない、普通の人間の集まりだ。まして、いじめ事件は教員集団の在り方に深刻な問題を投げかける。これを集団の問題としてとして受け止められるような組織作りは是非とも必要だろう。学校の評判を落としたくない心理が働く場合、特定の個人にその責任の全てを押しつける傾向はないだろうか。形式的にそのような処置をすれば、組織としての反省は同時に回避されてしまう。