授業プロとしての教員

 授業にたつ教員は、舞台俳優もしくは落語家と似た仕事だ。誰でも教師として登場すれば師であると言うが、それは人間的な人生の師であって学校教育の授業それだけでは収まらない。20人から50人の集団を相手にして行う「授業」は細かな技術の集大成であり俳優と同じように長い修行が必要でありいつまでたっても「終わり」や完成はない。普段はあまり意識しないのだが教育実習生がやる授業、新任の教員がやる授業を参観させてもらうと、指摘したくなるポイントは本当につぎつぎ出てきてきりがない。ドアを開けて教室にはいるところからチャイムが鳴って授業が終わり教室を出るまで、さっとメモをとっても何十項目もあげることができる。その中にはちょっと配慮しなければならないことから、長い時間かけて自然に身に付いていくこと、どの教科でも同様なことと、教える教科で特有のこと、更に教科の中での特定の素材を教えるために必要なこといろいろ。これらのことを身につけながら、プロとしての教員、プロとしての授業を目指す。熱意が一番という人もあるが、人格や熱意だけで技術のない医者が話にならないように、熱意だけでは教師はやれない。
 どこかで、落語家が真打ちになるのに必要な修行時間は一万時間というのを聞いたことがある。これはプロになるために必要な練習時間の目安として、およそあらゆる分野について当てはまることのようだ。プロスポーツ選手になるための練習時間、プロ演奏家になるための練習時間もおよそこれくらい、まあ対数的な感覚で千時間ではとても足りない、十万時間では一生かかるという意味でこれくらいなのだろう。およそ、1日3時間と見て10年。こんなものだと思う。私も、教師を始めて十年たった頃から自分なりの授業が出来るような気がしてきた。教員としての修行も授業一万時間が一つの節目になりそうだ。