教員の孤立-町田総合高校の動画

 一月中旬、生徒を殴る教師の動画がネットに投稿され、マスコミに大きく取り上げられた。「手を上げた教師ももちろん悪いが、生徒も悪い」当たりがこの動画の評価で、後は『炎上』に話題が移っていった。殴った教員、暴言を吐いた生徒、これを撮影しネットにあげた生徒。これらに対する評価はされている。しかし、この学校の教員集団についての言及があまり見られない。

 私は、こんな学校で働きたくない。生徒とトラブルを起こしたとき誰も助けに来てくれない。

 動画を見ると後方に生徒ではない人物が写っている。この人物は、生徒と教師を眺めて立ち去ってしまう。隣の教室から生徒が出てきて止めに入り終わっている。廊下にあれだけ罵り声が響いていて、他の教室の教員が出て来ない。教員が集まらない。「健全」な学校ではあり得ないことだ。同僚が孤立し生徒と揉めていたら、しかも、あのように生徒が興奮していたら、まず立ち会う。状況によっては更に同僚を集める。教員の頭の中にあるべき「危機管理マニュアル」の基本が、この学校の教員集団には欠落している。私自身、教員室から飛び出し全力で走った経験が何度もある。当たり前のことだ。
このような生徒は、他の生徒が見ている前では体面上引くわけに行かない。生徒の側には、体面を傷つけずに矛を収める口実が必要になる。『大勢の教師に囲まれた』は、その最初になり得る。そして、生徒を他の生徒の目線から外す。他の生徒がら隔離する。教員室なり別室へ連れて行くわけだが、これも教員一人では難しい。複数の教員で生徒を連れて行き、他の教員は野次馬生徒をそれぞれの教室に戻し、指示を与える。
高校では、教師の指示に従わず生徒の側から教師に向かって暴力的対応をした場合に、厳しい処罰が科せられることになる。あの動画のように教師が一人孤立してしまった場合、生徒を厳罰から守るため敢えて教師の側が先に手を出す、選択肢はあり得る。また、「殴られたので、先生の言うことに従った」となれば生徒の側で言い訳になる。体面を保って平静に戻ることができる。生徒を暴力的に従わせるのではない。生徒に矛を収める口実を提供するため、自分の処罰を覚悟して、生徒に手を出す。でも、これは最終手段。誰もこのような事はしたくない。そのために、教員の協力が要る。
学校は、大規模な生徒集団をその十分の一以下の教員で管理しなければならない。生徒が学校を潰すのは簡単なことで、何割かの生徒が示し合わせて授業のボイコットを続ければいい。また、どんなに「指導力」のある教員でも、興奮した数十人の生徒に囲まれたら何もできない。学校というのはそういうところだ。だから、教員が強い結束力を保つ事は、学校が機能するための第一条件。学校は教員の集団指導によって成り立つ。教員会議で激論を闘わせる相手であったとしても、生徒の前では同志。間違った指導をしているなと思っても、生徒の前では教員擁護。個人的には一分一緒にいるのも嫌な教員でも生徒の前では仲間。『Staff』として緊密な連係プレーを取り、統一された指導方針で生徒に接する。「校内暴力」と言われた時代、学校を正常に保つため、教員誰もが承知していたことが、忘れられてはいないか。
 教員の個別管理が元凶。自分の担任するクラスさえ良ければいい。自分の授業さえ良ければ良い。それだけではない。余計なことはしない方がいい。自分が持つ方法論は同僚に教えない方がいい。更に、他の教員は失敗した方がいい。このような傾向は教員評価の論理的帰結として少しずつ学校を覆っていくだろう。
そして、廊下で孤立する教員の姿がインターネットに投稿される。
 教員は大工もしくは落語家と同じ職人芸。一人前になるのに十五年はかかる。その間、先輩教員について技と知識を学ぶ。先輩は後輩を教える。仕事は教員相互で評価する。生徒は集団で指導する。トラブルには集団で対処する。百年を超す学校制度の歴史が示すノウハウである。それを文部科学省が、新自由主義が壊している。

体罰を巡って(1)

 また『体罰事件』(和歌山2015/03/17)が報道されている。この事件と報道について感じることを書く。
 この事件、体罰ではない。教員の生徒に対する暴行事件だ。何故こうなるまで、同じ学校の同僚教員が放置していたのかわからない。また、何故そのことをマスコミは指摘しないのだろうか。
教育行為の逸脱、暴走に具体的な歯止めをかけられるのは、周囲の状況を含めた行為の全体を把握できる同僚教員以外にない。このような問題になる前に、
 「教育行為として不適切だからやめろ」
と制動が周囲からかかって当然。2012年12月、話題になった大阪の高校での生徒自殺事件でもそうだ。暴力行為がエスカレートする前に指導が改善されて当たり前、学校の教員集団の基本的問題だろう。
 『体罰』の定義は難しい。肉体的な苦痛を伴う教育行為を体罰とするなら、長時間の説教も、ペナルティの窓拭きも皆体罰だ。生徒との肉体的接触を体罰というなら、教室で教員の指導に従わず妨害を繰り返す生徒を教室から連れ出すことも出来なくなる。確かに行政配布のマニュアルには一応分類がある。だが、教員にその区別がついているだけでは不十分で、生徒と教員の相互了解が必要な事柄だから難しい。生徒が、「こういう指導をされても仕方がない事だ」と了解しているから、指導が成り立つ。この了解を集団的に形成するために、教員集団は時として膨大な精力を費やす。こうして学校は成り立っている。行政による体罰禁止の再確認とこれを巡るマスコミ報道は、この了解を一気に崩してしまった。
 私は『体罰』の一律禁止に反対である。教育的行為として意味のある体罰も、学校教育を維持するためどうしても必要な体罰もあり得ると思っている。たとえば、忘れ物をして、頭をコツンとやられることと濡れ雑巾で顔をなでるような説教をされることと、どちらが適切か。生徒だってわざと忘れたわけではない、悪いことをしたことは十分承知している(場合が多い)。今度忘れたらまた「頭コツン」やられるぞ、気をつけよう。それでよいではないか。少なくともかつてはそうであった。
 ただ、体罰は不適切な指導となりうる危険が非常に高い。その運用に慎重な判断、教員としての熟練が必要なことは充分わかる。社会的事件となった、前記のような行為は勿論不適切なもので学校教育の場で許されることではない。
 一方、体罰を伴わないが不適切な教育行為はいくらでもあり得る。そもそも、教育行為の適切性の判断は学校と教員と生徒の織りなす状況による総合的なもので、簡単にまとめられるようなものでない。局面だけ取り出せば同じ行為が、時として極めて不適切であったり、生徒から一生感謝されたりする。不適切な教育行為をマニュアル化したら、辞書程もあって誰も読む気にならないような文書ができあがるだろう。だからこそその判断は、学校とそれを構成する教員集団に基本的には委ねられている。逆に、これができるのは、状況を共有し得る同じ学校の教員集団しかない。教員集団がその力を失い、教育行為の適切性の判断が管理職や行政に移行すれば、学校教育は硬直し 臨機応変な対応力を失い最終的に教育力を喪失してゆくだろう。
 教員と生徒の関係はある意味で絶対的なもので、生徒は教員の指示に従う。その上教員は、生徒の成績評価、進路先への推薦状、クラブ顧問なら対外試合の選手選択権など生徒の一生を大きく左右する権力を持っている。また生徒の家庭環境の細部、抱えている悩みなどの心理的細部など、他の社会的関係ではあり得ない情報を手にすることが出来る。生徒は教員の前で、医者の前で裸になったる患者のように無防備だ。教員が自制を失えば、教育行為を逸脱する危険は常にある。繰り返すが、大変危険な関係だ。教員と生徒との関係性そのものが、教員の嗜虐的傾向を誘発し助長する。暴行事件と同様に後を絶たない教員の生徒に対する性的虐待も、このような関係性そのものがはらむ危険の一つだ。教員誰もが生徒を前に手にした絶対的権力の持つ危険性を意識する必要がある。誰にでも暴走の可能性はある。そして、教員が孤立すればするほどこれらの陥穽に落ち込む危険度は増大する。その意味で、教員は常に集団性を維持しなければならないし、教育は集団的営為でなくてはならない。
 そもそも、学校教員は採用されればすぐ教壇に立つ。これは大変に無理なことで、私の体験や周囲の同僚から見てもおよそ十年は見習い期間。学生時代の教育実習や採用されてからの新人研修も知識体験のほんの一部をなすに過ぎない。教育行為とは何かを教員は現場で学ぶ。その教員がどれだけ成熟できるかは、「見習い期間」にどれだけ優秀な先輩教員の集団に囲まれているかにかかっている。同じ生徒集団を対象に教育行為を共にして初めて成立する相互批判、研鑽、学習がある。私もそうやって育ててもらった。そういう集団性があれば、先のような「暴力事件」が起き社会問題になるようなことはあり得ないと思う。そして新人教員が今の学校社会の中で成熟する機会が本当にあるのか、そのことを最も危惧する。
 このような教育行為の逸脱に、法規で、その運用強化で対応することに反対する。教員の管理強化が進めば、教員は孤立する。「教員評価」が進めば個人的実績作りが教員にとっての最大の関心事になる。同僚への「助言」よりも、上司への「報告」が優先される。逆に「助言」は他の教員によって曲解され誤った情報として「報告」されてしまう危険を伴う。もっと恐ろしい想像をするなら、同僚の「不祥事」は自分の「出世」の機会かも知れない。このようにして教員の孤立化が進めば教育は硬直化し柔軟な対応を失うだろう。教員が教員として成熟する機会も失われていくだろう。そして不祥事はむしろ増大するのではないか。
 教員による生徒への暴行事件は、教員の孤立、教員の集団性喪失が生み出している。

体罰を巡って(2)

 昔オランダのある子供が堤防を歩いていて、小さな漏水を発見した。その子供は付近を大人が通りかかるまでずっと堤防の穴に指を差しこんで漏水を押さえ続けた。・・・妙に印象的な話で覚えている。放置しておくと堤防の穴はすぐ拡大し、堤防全体の崩壊につながる。子供はそのことを知っていた。
 学校での秩序管理はそれに似ている。生徒一人の身勝手な行動を見逃せば、やがて授業が成立しなくなる、拡大すれば生徒全体の指導が困難になる。その恐怖と背中あわせで教員は仕事をしている。ある意味でサーカスの猛獣使いに似て、常に緊張を強いられている。生徒が授業を壊すのは、簡単だ。示し合わせた数名の生徒が教員の指示に従わなければいい。スマホをいじり続ける、私語をやめない、席に着かない、勝手に教室から出て行く。教員一人では対処できない。教員の体格がどんなによかろうが力が強かろうが、複数名仲間がいれば平気だ。体罰は禁止されている。教員室に連れ出されそうになったら徹底的に抵抗する。この先には様々なストーリー展開の可能性があるが、最悪のケースは公権力の導入つまり警察による決着だろう。現に米国の高校では拳銃を携帯する警察官が常駐している。
 1980年代のいわゆる校内暴力は一応沈静化したが
平成 24 年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について
あたりを見る限り、生徒の学校内での暴力事件は決して減少していない。(統計のとり方が異なり単純比較できないが)管理困難な生徒を抱えた学校の話は聞こえてくる。中学生から自分の学校でまともな授業が成立していないことに対する不満を聞いたこともある。学級崩壊、学校崩壊まで行かなくても、満足に成立していない授業を抱える、中学・高校は結構多いのではないか。
 『学校内では生徒は教員の指示にしたがう』このルールの承認によって学校は成り立つ。教員が偉いからではない。サッカーの審判と同様、システムを成立させるための役割分担だ。どんなに素晴らしい授業でも、生徒が先生の話に耳を傾けなければ始まらない。1980年代以降、この体制は、生徒にとって先験的自明なものでなくなった。だから、教員は可能な限りの努力を持ってこの体制維持のため働いてきた。教員集団の団結に綻びが見えれば、生徒に必ずそこをつかれる。生徒集団より強い結束力を維持しその結束を生徒に誇示することが第一条件だ。当然ながらそこには最終的な体罰の可能性も含まれている。学校の秩序を維持するため、敢えて嫌われ役を演じ生徒を威圧する教員がいて学校が成り立っている場合も少なくないはずだ。逆に体罰だけで学校を維持することも出来ない。教員集団による様々な教育行為と生徒管理技術の積み重ねの手段の一つとして、体罰も用いられてきた。
 日常的に体罰が行われているわけではない。最終的な体罰の可能性を生徒が承認し生徒自身の行動を抑制して、ただのおっさんを教員と認め指示に従うきっかけになっていればよい。教員の指示に従う事は、生徒の自尊心を大いに傷つける場合がある。そういう生徒がいる。そのときの言い訳として機能することが必要なのだ。門限を守るために家に帰るとき、「親に殴られる」という言い訳が出来ると、周囲の友人も認めてくれるし自分も納得できたりする。体罰はこういう機能をする。
 このような学校運営は恐怖政治と思われるかも知れない。しかし、どのような体制にもその体制を維持するための最終手段としての暴力装置はある。どんな平和な国にも警察官がいる。監獄はある。時として死刑を執行する。街の随所に交番があっても、誰も恐怖政治だとは言わない。逆に民衆が警察官の指示に従わなくなったとき、国家は崩壊する。
 大阪の高校での「体罰」「自殺」が問題になったとき、「会社では上司が部下に体罰を与えたりしない」と言った評論家がいた。会社では、社員は給料をもらうため働いていて、減給、降格、免職等強力な権力を上司が握っている。体罰のような面倒なことをするまでもない。だから、生徒に給料を払っている警察学校は厳格な規則と過酷な訓練で有名だ。
 今まで、学校の秩序維持は、各学校の裁量に委ねられ、最終手段としての体罰も暗黙のうちに承認されてきた。(そのような事実は全く知らなかったと言える人がいるだろうか。)その裁量権の運用は地域により生徒の質により様々だろう。少なくとも、教員集団による学校の秩序維持努力が地域、数学する生徒の保護者から承認され学校が成り立っていた。教員集団に対する保護者の信頼があった。同時に、教員集団はそれだけの質と結束力を維持しなければならなかった。
 体罰の一律禁止は、学校秩序を維持する機能を学校から取り上げることになりかねない。生徒管理は柔軟性、即決性を失い硬直化するだろう。いくら行政が制度を整えても、困難校は増加していくと思う。
 このような事態が進めば、義務教育から私学を選択する家庭が増え、公立学校はますます荒廃する。一部地域では、公立学校の自由選択制が始まっている。公立学校自体に格差が生まれる。恵まれた家庭に育ち、そのような家庭出身の友人に囲まれて育った子供が、大学の教員養成コースでも増加するだろう。彼らが学校教員として現場に立てば途方に暮れることだろう。
 改めての体罰の禁止は、行政と管理職による教員管理進行の一つの現れと解釈している。そして教育行為が集団性を喪失し教員が孤立することが、事態の悪化に拍車をかける。この悪循環をどうしたものだろう。

割り算の練習-ダウンロード

中学生になって数学で大きくつまずく子供の多くが、かけ算九九の練習不足を抱えている。かけ算ができても、約分・割り算ができない。この部分のトレーニングで数学全体の処理能力が大きく向上する場合がある。そのために作成したプリント。新たに二桁追加。二桁になると困難が増す。特に余りが出るとき。従って、一桁、割り切れる二桁、割り切れない二桁の順に復習させてます。ファイルでは割り切れるかどうか選択するようにしてある。模範解答を作るのが面倒だった。

割り算、約分を苦手とする理由には練習不足以上のものがあるかも知れない。数学低学力者にあまりにも共通して現れるから。これについては今後もかんがえたいと思っている。

    追記)一桁割り算 改訂しました

仕事の評価

 教員を始めて数年はもう無我夢中だった。周囲の年配教員並みに仕事ができるようになるために吸収しなければならない知識や技能はそれはたくさんある。見習い期間はないし徒弟制度もない。教員室を出て教室に入れば新任一年目でもベテランと同じ質の仕事が求められる。これは考えてみればかなり特殊な仕事だろう。逆に、教員を始めて数年は実は見習い程度の仕事しかできない。その何年かの夢中な時間が過ぎ、一通りの事を身につけられたかなと思う頃考え込んでしまうことになる。
「自分はどちらの方向に向かって進んだらよいのだ」
「今自分はどれくらいの仕事ができているのだ」
自分の仕事をどうやって評価しようか、立ち止まってしまう。この感覚は教員になるまでわからなかった。対極にあると思われる仕事の例として上げれば、新車のセールスマン。年間何台車を売ったか数字が出る。それを見て自分も満足したり落胆したりするし、周囲も上司も仕事を数字で見る。ここまで極端ではなくても世の多くの仕事には、それを評価する比較的客観的な基準がある。では学校教員は自分の仕事をどうやって評価したらいいのだろう。《周囲と同じ事ができる》という一応の目的が達成されたとき、次の一歩を踏み出すのは教員にとって結構大変な事なのだ。
 教員を志望した動機はもちろんあって自分の理想とする教育を実現したいと心の底では誰でも思っている。逆に、そういう理想をたやすく多様な可能性をもって描くことのできる恵まれた仕事でもある。しかしその理想に対して、今自分のやっていることを評価するのは大変難しい。教員の行動が、他の社会から見て理解しがたい面があるのはこの所為だ。
 スキューバーダイビングで事故が起こったとき、冬山登山で雪崩に巻き込まれたとき、パニックになると人間は上下の感覚を失うらしい。雪崩に埋まった人が懸命に下に向かって穴を掘っていた、という話を聞いたことがある。教員の仕事をしていると、そういう感覚に襲われることが少なからずある。先述の仕事のスキルを一応身につけたとき、困難な局面に遭遇したとき、逆にあまりに平穏無事なとき。自分の位置と進むべき方向を見定める「座標軸」が欲しい。教員共通の心情だろうと思う。教員は評価を求める。
 教育の国家統制を廃しファシズムの危険を取り除くため、教員の仕事に対し「客観的」評価基準を設けることは戦後教育の中で長く禁忌とされてきた。勤評闘争での日教組の主張はその後長く教育の世界で規範として存在してきたと思う。それがなし崩し的な今崩壊過程にあり、「教員評価」が全国で進行している。これにどう対抗していけばよいのだろう。
 「教員評価」がこれまで浮上してこなかったのは、労働組合のためだと思っている。日教組が政治勢力として、勤務評定を抑えてきたという面もあるだろう。さらに学校の現場では、組合がそれなりの強い理念を提供し続けてきたことが大きい。理念の是非は別に論ずるとして、行政と管理職が提示する理念とは別の方向を向いたもう一つの価値基準が学校に持ち込まれていたことが大切なのだ。その基準に全面的に身を寄せる者もいたが、それだけではない。多元的な価値基準があり、それぞれの基準からの距離を測定することで、自分の位置を見定めやすかった事が教員集団の健全さや活気に貢献していたと思う。その組合の持ち込む理念が弱体化し、並行して「教員評価」を巡る様々な問題が浮上し同時に、上からの「教員評価」強化が進み始めた。
 教育を巡る多くの問題が、この「教員評価」を自ら求める教員の心情と関連している。いわゆる「成果主義」。教員は評価が欲しい、目先の結果が欲しい、誰でも思っている。
 目先の結果で恐らく最も簡単に手に入るのが、部活動だ。(クラブのことを今《部》と呼ぶ)学校外の方には意外に感じられるかも知れないが。スポーツ系はもちろん吹奏楽など一部の文化系ん活動には大会があって、そこで成績が出される。これは教員にとって大変わかりやすい評価となる。部活動はその意志のある生徒が任意で集まってくる、去るのも自由だし教員の側から止めさせるのも比較的簡単だ。つまり、生徒の意志をまとめるのが簡単だ。部活動の指導は個人もしくは少人数の教員に任されていて、多人数の共同作業でないから思った通りに運営できる。どうすれば成果が出るか多少の情報収集をし、労力を惜しまずそれを実践すれば、必ず短期間で答が出る。学力を向上させたり学校全体の空気を変えるために必要な労力と時間に比べればずっと少なくて済む。生徒は結果を得て喜ぶ。保護者から感謝される。学校の宣伝になるから管理職から認められる。同僚から褒められる。それも集団としての成果でなく、手柄が個人に還元される。だから教員は部活動に力を注ぎ、過熱する。生徒の自主的な集団形成を通じた主体性や社会性の涵養といった本来の目的が忘れられる。
 学習指導でわかりやすいのが受験結果。進学先の学校は偏差値で数値化されているから、結果は簡単に数値化される。保護者、行政、管理職の要請という側面も勿論あるのだが、教員自ら成果を求めて受験指導に走るから、これだけ広く行きわたる。部活動より大きく生徒の人生を左右するから教員に達成感がある。生徒が感謝する。保護者が喜んでくれる。学校や行政は宣伝になるから高く評価する。教員はなるべく自分個人の手柄にしたいから、生徒を縛り付ける。授業、課題、補習、個人指導。
 こういった目先の成果から距離を置いたところから、教員は本来何をすべきなのか考えていくことになる。組合が代表していた戦後民主教育の理念が弱体化し、目先の成果主義が横行しそれ自身が上からの「教員評価」になり始めている現在、どんな道があるだろう。

自分の子の入学式

 学校の入学式を欠席して自分の子供の入学式に出席した教員、授業参観を欠席してのど自慢に出場した教員が、マスコミで取り上げられた。この事件についての意見が2014年7月15日朝日新聞に掲載されている。なぜこのような事がマスコミに取り上げられるのだろう。数十年前ならあり得なかったことだ。
 自分が新入生を迎える日に子供の入学式に出たいとする。我々のこれまでの常識からすれば、およそ次のような経過をたどるはずだ。まず親しい同僚集団に相談する。事なきを得るようなうまい方法があるか検討する。「無理だからやめておけ」と忠告されるかも知れない。うまく行きそうだったら更に学年、学校に議論の輪を拡げ検討する。教員集団全体の了解のもと、対策を実行する。ちょっと考えても、この先生の行動を新入生の保護者に納得してもらえるようなやり方は、教員集団全体が納得しているならいくらでもある。理屈と膏薬はどこにでもつく。これが不可能だったら、子供の入学式への出席を諦める。
 「事件」そのものの詳しい報道を目にしていないのだが、こういう処置がとられていれば、全国紙に取り上げられるような騒ぎにはならなかったはずだ。この先生が教員集団全体に守ってもらうような行動ができなかった、そして教員集団がこの先生を守ろうとしていない。「ああ、こんな学校では仕事をしたくない。」それが私の感想だ。

学校は、少人数の教員が15倍から20倍にあたる数の生徒を年間を通じ管理しなければならない特殊な仕事だ。生徒が毎日朝から学校に来て、ちゃんと座席に座り、教員の話を聞く。これを実現するためには、膨大な努力と細心の注意が必要だ。「自由」「自主性」も教員のコントロール=管理が有効な範囲で初めて意味をなす。少なくとも現在の学校制度はそうできている。生徒から見て気に入らない教員の授業があったら、生徒が学校から出て遊びに行ってしまうようになったら、学校は成り立たない。家畜であればどんな手荒なことも可能だ。一頭ずつ檻に入れても紐でつないでも良い。しかし相手は人間だ。また、同じ人間でも劇場の観客は1日ごとに入れ替わる。前日の失敗が翌日に持ち越されることはない。人間の集団を、年間を通して管理し続けるのは易しい事ではない。
この生徒管理で最も大切な要件は、教員集団の団結力だ。全教員が共通の行動規範を生徒に求め、共通の処置をするからこそ生徒は納得し指示に従う。逆に生徒が管理を逸脱しようとする第一歩は教員集団の団結の裂け目を探し出すこと、もしくは作り出すこと事から始まる。
「××先生は違うこと言ってる」
「こういうとき○○先生ならそんなことしない」
こういう発言は生徒の常套手段だ。これに対し
「嘘を言ってはいけない。決してそんなことはない。我々は共通の規範を要求している。」
と各教員が自信を持って言い返すこと、これが生徒管理の第一歩だ。1980年代、生徒が荒れた時代を乗り切るとき、我々教員はこのことを実感してきた。

別項で、生徒集団の質的変容について書いた。そこで、かつて存在した農村共同体を起点とする共同体の倫理規範が徐々に薄れつつある事を指摘した。教員集団とて同じ事だ。新任教員は5~6年前の高校生だ。現在の30代教員は1990年代の高校生だ。つまり、現在の学校教員の若手半数は、我々の世代が生徒が変わってきたと感じはじめた時代以降にに教育を受けた世代なのだ。すべて同年代の人間で構成される生徒集団と異なり、教員集団は20代から60代までの広がりを持ち、その質的変容は生徒より更に緩やかなものだろう。しかし、教員集団が生徒集団と同様にその質を変えつつあることは、確かだ。
 教員の上からの管理が強まり、かつてのような教員集団の形成がより難しくなりつつある。教員管理を勧める側からすれば、教員集団の機能不全を補うための必要な措置と指摘されるかも知れない。教員集団の質の変化、機能不全、管理強化。いずれにせよ、これらのことが同時に進行している。
 共同体の倫理規範が後退したことにより、教員集団の質に起きた変化を感じるままに述べてみたい。私が、自分の職場で感じて来たことだが、他の学校教員の話、様々な書物やマスコミ報道の内容から、ほぼ同様のことが全国で程度の差こそあれ同時に進行していると思っている。
教員の仕事の内容は、教科指導、生活指導、企画運営、事務処理等多岐にわたる。当然、各教員得手不得手がある。難関大学の受験指導に長けた教員、心の荒れた生徒のケアに優れる教員、・・・教員とて普通の人間、スーパーマンではない。良い教員集団は個々の教員の長所を生かし短所を補う緻密な関係の中で学校を運営する。学級運営にしても担任に任せきりにせず、担任をたてながらも、助言し足りないところを補いあう。生徒の側から見たとき、担任に指導されているより、教師集団全体に指導されているように感じ取れる。こういう関係が年を追って作りづらくなってきた。私の仕事に口を出してくれる同僚が減った。(こちらが年令を重ね口を出しづらくなったことはあるにしろ。)また、他人の意見や介入を忌避する教員が増えた。
 言い換えると個々の教員の垣根が高くなってきた。みんなで広い畑を耕していたのが、垣根をたてて自分の畑を確保し、自分だけで自分の畑だけを育てようとしている。自分の収穫高で自分を評価しようとしている。自分の収穫高が教員の力量として管理職に評価される。水やるの忘れたら、誰かがやっておいてくれる。雑草が伸びてきたら誰かが抜いてくれている。こういう事がなくなった。他の畑を世話してあげると逆に嫌な顔されたりする。かつて我々は、皆で田植えし水源を管理し稲刈りして生き延びてきたはずなのに。
 ごく最近まで我々日本人の間には、手柄を個人的栄誉として誇示するのは醜い事であると感じる、ある意味で屈折した美学が存在した。かつて流行った「任侠映画」の美学である。これも考えてみれば、稲作のような集団作業で栄誉を求める個人的な振る舞いは妨害要因になることが多かった事によるのではないかと思うのだが。常に集団全体が利益を生むように行動し、集団全体の喜びをもって個人の喜びとする。こういう行動原理は、国家のための自己犠牲のような負の側面を生むが、ある機能集団が優れた仕事をするために是非とも必要な原理でもある。個人的栄誉が他者を押し退けて自分を差別化する行為であるのに対し、他者と喜びを共有する方が我々の充足感は大きい。
 具体的に述べるなら、優れた教材や生徒指導法を持つ教員が、自分の評価を高めるためその方法論を秘匿するのか、集団全体の機能を高めるため積極的に公開し共有しようとするのか、その成果の差は明らかだろう。教員が「管理」されるとはこういう事なのだ。また、「校内暴力」と言われた時代、しっかり生徒を指導している学校には、嫌われ役を担う教員が居た。「暴力」を匂わせ生徒を威圧する教員の存在によってかろうじて秩序が保たれている場合はいくらでもあった。これとて目的遂行集団として教員集団が機能していればこそできること。

教師集団の解体は、学級崩壊、モンスターペアレントの出現などの問題と同時並行で進んでいるのだが、実はこれらの問題について少なくとも原因の一部をなしていると私は考えている。

学校教員は「孤立」に向けて追いやられようとしている。そして、先述の朝日新聞でこのことに言及しているのは「ママ」の意見の一部だけだった。

自分の子の入学式(2)

7月15日朝日新聞耕論「教師は聖職か」を読んで。ここでは違和感を少しずつ書いておきたい。

増田氏(教育ジャーナリスト、今春まで現役教員)
 いわゆるモンスターペアレントの対応について。苦情の増加によって、トラブルを避ける事なかれ主義が教育で増えているという。そして、保護者との信頼回復が第1であるとおっしゃる。確かに保護者の無節操なクレームは増えた。この論でも触れられている通り、これはどうも新自由主義の浸透とともに世界中に広まりつつある傾向のようだ。英会話を教えていた若い米国人教員が、(彼は南米、豪州での教育経験もある)どこでもそうだと言っていた。その対応を論じた本も数多く出ているくらいだから、全面的に論じるのはここでは手に余る。私の印象だけ述べる。
 保護者の対応も先述の生徒と同じで、教員の団結の隙を突いてくる。教員が互いに信頼し合い、また信頼に耐えうる仕事をしていれば、クレームの処理はそれ程手間なものでは無いはずなのだ。事なかれ主義も教員間で信頼関係があれば、それ程横行するはずがない。特に管理職と強い信頼関係があれば。保護者対応では、責任者=管理職を含めた組織全体の信頼関係が最も大切なのだ。フランスの例が引かれていたが、この例でもよく考えてみると、管理職が学校組織全体を信頼しているからこそ毅然とした対応ができるのであって、保護者を信頼しているからではない。教員は保護者に信頼してもらう前に同僚教員に信頼してもらわなくてはまともな仕事ができない。増田氏は、保護者との信頼関係を築くために夜に保護者会を開くべきとおっしゃる。また仕事を増やすのですか? その余裕があるなら、教員同士の宴会でも開いている方が、事態の改善に役立つと思うのですが。

真金氏(精神科医) 
 教員の精神疾患が増えている。その原因として、生徒の質的変容、処理すべき仕事の増加が指摘されている。これらを教員に任せきるのではなく、社会全体で考えていくべきだ。お説ごもっとも。その通りだと思う。だが、ここでも教員間の横の関係が全く指摘されていない。そして、学校教育が教員個人と生徒との関係で成立しているような書き方がされている。こういうとらえ方こそが、教員の精神疾患を生むのではないだろうか。
 一教員の仕事を最も良く理解できる立場にいるのは、教員室で机をならべ、共通の生徒を相手にしている同僚教員だ。年配の教員には過去の数多くの経験の蓄積が、若手の教員には新しい考え方とエネルギーがある。生徒の気持ちを理解することに長けた教員もいれば、生徒間の情報収集が上手な教員、問題生徒とわたりをつけることのうまい教員もいる。生徒とのトラブルを含め仕事上の問題点が教員室の同僚でうまく共有されていれば、共有できる関係が成立していれば、教員が精神疾患にまで追い詰められる事はそれ程無いはずだ。教員、長く共に仕事をする同僚教員に対する思いやりと暖かみ無くして、生徒に対する思いやりや暖かみが生まれるはずがない。全ての生徒から長所を発見し伸ばすのが教員の仕事であるなら、まず同僚教員の長所を伸ばし短所を補うことから始めなくてはいけない。教員が孤立するような学校で、まともな教育が行われているはずがない。
 
尾木氏(教育評論家、22年現役教員)
引用する。
『教員の仕事は聖職性が色濃い。それは子供の人生や価値観の形成に、深く関与せざるを得ない仕事だからです。』
『仕事を支えたのが同僚や先輩の親身な助言でした。』
『従来の「ナベブタ型」から「ピラミッド型」組織に近づき、大切な同僚意識が失われました。』
 職業は職業であって「聖」なる職業などあるわけがない。学校教員の仕事は、学校という局所的社会組織への参加のしかたとその内部での学習行為を指導し、その組を円滑に運営することである。職業人=プロフェッショナルとして、このことがきちっと遂行できればよい。結果的に人生や価値観形成に深い影響を受ける生徒もいるだろうし、全く何の影響も受けない生徒もいる。これは結果であって目的ではない。それを言うなら、従業員を雇用する経営者は従業員の人生に選り大きな影響を与える。社会に出て仕事に就いたとたんに、素晴らしい人間に成長する生徒はいくらでもいる。人は、成長の過程でそして長い人生でふれ合う他者から影響を受ける。これはあたり前なのであって、いちいち「聖」なる言葉をつける必要はない。
 職業的特殊性で言うなら、教員という職業は精神的な健康が求められることだろうか。肺結核を患ったお医者さんに治療行為が無理であるように。そのために必要なのは、教員が労働者としてまともな権利が保障され、それが行使されることだ。確かに人間との接触が仕事の職業である。精神的負担は大きい。だからこそ、労働者としてのまともな生活が必要なのだ。成長期の子供にとって教員は比較的身近に接することができる大人であり、成長モデルとして採用しやすい。そういう目で教員を見ている。教員は喜びのある明るい未来を感じさせる生活を自分自身がまず営むべきなのだ。民主主義社会での労働者としての権利はしっかり行使し、それを生徒に見せていくべきだ。あえて聖と言うならそれが教員の聖職性であろう。
 更に言うなら、教員は生徒の人生に影響を与えるなどと思うべきでない。快適な学校生活が提供できればそれで十分だ。学校生活を通じて子供が少しでも自己評価を高められるようにする。私の生徒指導の目標である。教員と生徒との出会いは偶然であり、かつ数年に限られる限定的、社会的なものだ。生徒に一生寄り添うことなど決してできない。「心の底から心配している」などたいていの場合欺瞞にすぎない。本当にその子の一生を思うなら、その子の一生に責任を負わなくてはならない。養子にして育てるか、結婚するか冗談抜きにその覚悟が必要である。それができない、これが生徒と教師の出会いの出発点なのだ。長い間教員の仕事をれば数千人の子供たちを教え、数百人の子供の担任をする。誰がその人生に責任を持てるのだ。教員が誠実に仕事をするためにはある種の冷たさ、言葉を換えれば冷静な認識が必要だと思う。子供と一生寄り添える存在、これは家族しかない。教員の仕事は、せいぜい子供と家族の出会いを修復することのお手伝いくらいだ。さらに、このことを専門とする社会組織はカウンセラーから果ては少年院まで、別にある。手に負えぬ問題はプロに委ねるべきで、それが教員としてのプロがすることだ。
 もちろん、学校を離れても未だつきあいの続く生徒はいる。生徒-教員の枠を越えて互いに一個人としてあらためて出会いつきあいを深めた。これは教員として嬉しいことだが、これもまた社会生活を通じてどこでも起きる当たり前のことだ。どんな職業でも、人間としての出会いがある。
尾木氏は教員時代、『時には、「問題児」とされる生徒の家庭を訪ね、深夜まで語り合いました。』と書いているが、教員をやれば多かれ少なかれ必ずしなくてはならないことで、特に誇るべき事でも珍しいことでもない。台風が来たので徹夜で田んぼを見ていました、というのと変わりがない。ここで違和感を感じるとすれば、彼の個人プレーの匂いである。先の引用でも、『助言をもらった』とは書いているが、共に仕事をしたと書いていない。この著名な教育評論家でも、教員の仕事を個人の仕事としか認識していないように思われる。悲壮感を伴った個人プレーはマスコミ受けする。いかにも生徒のためになっているように見える。しかし周囲の教員の立場と仕事が見えない、ヒューマニズム、ヒロイズムは実際の学校では限りなく迷惑な場合が多い。荒れた学校での生徒指導は先述の通り、教員集団全体のきめ細かい連携が欠かせない。その仕事の一つとして、また他の教員の仕事に支えられて「深夜の家庭訪問」が成立する。彼にどれだけ周囲が見えているのだろう。
その点で言うなら、組織がナベブタからピラミッドに変わったことが問題なのではない。縦糸が太くなって、横糸が切れかけていることが問題なのだ。繰り返し書いているように、現場教員の密接な相互関係が学校運営で最も必要とされるものだ。教員の横の関係がしっかりしていれば、必要なだけの縦の関係は自然にできあがる。その関係がナベブタかピラミッドかは対処しなければならない仕事の質から自然に決定され、形を整える。ところが、縦の関係を先に強めれば強めるほど横の関係は希薄になっていく。それは、双方向の縦の関係でなく、上から下の縦の関係だからだ。新自由主義とはそういう時代なのだろう。

仕事の量(1)

 素晴らしい理科の実験を連発する教員、学級通信を毎日発行する教員、百人を超す部員の部活動日誌を毎日読みコメントを残す教員、素晴らしい教員のエピソードがマスコミに載る。しかしそのためにどれだけの時間を割いているのかあまり報じられることはない。教員は、教科を教えクラスを運営し、部活動の顧問でもあるのだから、これら三つとも同時にこなす教員はいるだろうか。
教員の仕事は際限がない。たった一回の授業にしても綿密な授業設計をし、補助教材を作成して授業にのぞむためにはその数倍の時間が必要なことはいくらでもある。定期的に生徒がどれだけ理解しているか確認のテストをした方がよいだろう。できの悪かった生徒は補習をする。こまめに宿題を課し、提出された宿題はしっかり添削し迅速に返却する。放課後には生徒の質問にこたえる時間も設ける。生徒の学力に合わせて一人一人独自の課題を与え、添削指導をすればより生徒の力を伸ばせる。おくれた子の補習授業、力をもてあます子の発展補習も必要だ。定期試験は、生徒の力をはかり同時にこちらの教育目標が生徒に伝わり生徒自身も達成感を得られるよう作問を工夫し、採点もできるだけていねいにやりたい。(平均点50,標準偏差20位の理想的なテストを作るためには結構な熟練と精密な検討が必要なのです。)長期休暇中の補習、勉強合宿も進路保障のためには欠かせない。教科の指導だけかんがえてもすぐにこれくらいのことは頭に浮かぶ。その上最近の高等学校では、学年がいくつかのコースに分かれその上習熟度別編成をしていたりするから、一人の担当する科目数が増加する。上記のような事を何種類も同時並行で進めることになる。
 クラス担任として、できるだけ生徒との接触を増やし面倒を見る方がよい。学級通信の発行。生徒一人ずつ日誌を書かせ点検する。生徒とのこまめな面談、保護者への緻密な電話連絡、家庭訪問。文化祭などの学校行事のためにクラス参加の準備は緻密に行う方が生徒の達成感が大きい。計画を立て生徒を誘導し学校行事で盛り上がりたい。部活動の時間はその活動に立ち会い指導する。部員一人一人クラス担任と同じように日常の接触を怠らない。全員活動日誌を書かせ点検する。休日の活動も多い方がよい。合宿や遠征もたくさんした方がよい。よりよい成績を残すため、指導者研修を積む必要がある。都道府県、場合によっては全国レベルで部活動団体の役員をやれば、交流が広がり情報も得やすくなる。
更に、教員は学校の運営者であり学校行事の企画立案運営、時間割作成から成績処理、教員研修、カリキュラム改変、進路指導、生活指導、これらの仕事を分担する。これもまた良質の仕事を目指せば際限なく時間を食う。さらに様々な書類作成を主とするデスクワーク。コンピュータとネットワークの普及で仕事が逆に増えた。書類の整理蓄積転送が楽になった分、提出しなければならない書類の量が激増した。
 教員をしていれば常に「できればした方が良いこと」の膨大なリストが頭を巡っている。しかし、一日は二十四時間しかない上に、生きて行かなくてはいけないから適当なところで妥協し、断念しているわけだ。
教員の仕事は労働でありながら、単純に「労働時間」としてはかれない特殊な仕事である。教員に残業はない。かつて残業手当の支払いを巡りトラブルが頻発したため、教員の一月の時間外労働を8時間と見計らって4%の教職調整手当なるものを支給する事となった。かわりに教員の職場から「残業」の概念が消えた。この制度の長所もある。1コマ授業をすると随分エネルギーを使う。様々な事に気を配りながら、全力でパフォーマンスする。にこやかに教室を出てきても教員室に帰れば肉体的にも精神的にも疲れぐったりと椅子に座り込んでしまう。良い授業であればあるほど。そこで授業の合間にゆったりと休憩を取ることは多目に見られてきた。夕刻の一応定められた勤務時間を超せば労働時間ではないのだから適当におやつ食べたり、ゆっくり外で食事をして戻ってきてから残った仕事をこなすことが可能だ。ベルトコンベアーの前に座って定められた時間定められた仕事をし、定められた時間持ち場を離れて休息する様な仕事とは根本的に違う。
一方、教員ほど手を抜こうと思えば手を抜ける職種も少ない。教員が仕事の手を抜いたため解雇される事は、よほど致命的な失敗をしない限りあり得ない。「教員評価」は普及しようとしているが、評価が敏感に給与に反映するようなシステムは殆ど導入されていない。感性さえ麻痺させておけば、よい。手を抜いて給与が下がり生活に困窮することはあり得ない。「廊下教案」といわれるが、多少なれてくれば教員室から教室へ行くまでの間に教科書をざっと見て授業することもできる。試験はなるべく採点が簡単で平均点が高めに出る甘いテストを作りっておき前年度のテストに少々手を加えて試験が終わるようにする。生徒を限度一杯締め上げて静かに授業を聞きノートを取るようトレーニングしておく。クラス担任も同様厳しく締め上げて言うことを聞くようにしておき、大きなトラブルを生まない事だけ注意しておく。部活動は沈滞するよう誘導し活動量をできる限り減らす。提出書類は文句言われる限度まで形式的に書き無駄な労力を使わず、使い回せるものはできるだけコピーペーストで済ます。学校運営についても最低限の仕事をするよう心がけ自分の無能力をアピールし、なるべく仕事が割り当てられないように、要職には就かないように心がける。校長や教頭をはじめ上司となる教員には愛想の限りを尽くしご機嫌を取っておく。生徒や保護者からどんなに誹られてもかまわないだけの自分を正当化する論理を用意し、評判に左右されないようにする。これらをちゃんとやるためには高度の知的緊張が必要で手を抜くのは大変である。過剰労働に甘んじる方が精神的には楽な気がする。少なくとも私は。でも、ここにあげたうちの全てでなくても何項目かを実践してる教員はどこの学校にも必ずいる。上手く立ち回れば、労働基準法に合致した時間だけの労働で他の教員と同じ給料をもらうことはできる。
高等学校では現在公立私立全体を巻き込んだ競争が進んでいる。公立高校では「輪切り教育」への批判から生まれた小学区制が殆ど廃止され広域学区の中で少しでも高い評価を得ようと公立学校同志がしのぎを削る。底辺に組み込まれたときの苦労を回避しようとする。大学進学できる公立高校作りが教育政策の目玉となり、行政は管理職を通じ学校に圧力をかける。私学は、生徒減少の中でパイの奪い合い。少しでも多くの、「優秀」な生徒を確保することに生活がかかっていると威かされる。結果熾烈なサービス提供合戦が繰り広げられる。「クレーマー」「モンスター」とマスコミで騒がれる様な保護者は割合としては小数だが、全体として保護者の学校への要求と依存は三十年前に比べはるかに強くなっている。かつて保護者の圧力から教員を防衛していた管理職は、逆に保護者と同じ側に立って教員を駆り立てる。こうして、何の外圧がなくても過剰労働が慢性的に生まれる職場に、さらに管理職からのドライブがかかり、不安があおられる。過剰労働がさらに重ねられているのが現状だ。小中でも学力テストの点が公表され、学校選択制が始まり似たような状況が生まれている様に思える。

少人数教育-仕事量(2)

教員の過剰労働の原理は単純だ。
期待される仕事量>教員数×教員一人あたりの許容仕事量
なのだから、期待される仕事量を減らし、教員数を増やせばよい。そして単純にかんがえれば、教育の質を落とさないためには、まず教員数に手を付ける。しかしこれがうまく行かないのだ。現に生徒数は減少を続けており、教員一人あたりの生徒数も減少している(文部科学省統計)にもかかわらず、教員の過剰労働傾向はやむことがない。
前に述べたように、教員の仕事は恒常的に「積み残し」状態にあり、余裕が生まれればそこに必ず新しい仕事が発生する。新しい仕事を誰かが見つけてしまう。生徒が受ける教育の質は向上するかもしれないが、教員の増員は原理的に教員の過剰労働の解消に役立たない。
もう一つ考慮するべき事がある。教員一人あたりの生徒数が減ると同時に言及されるのが「少人数クラス」だ。一クラスあたりの人数は少なければ少ない程よいと誰もが単純に信じている。しかし話はそう単純ではない。学校教育はそもそも生徒の集団性に依存して成立しているからだ。
これについてはいくらでもたとえを挙げられる。閑散とした遊園地は乗り物乗り放題レストランの食事もすぐ食べられてさぞかし楽しいかというとこれがそうではない。何となく面白くない、うきうきしない。落語が八畳間でお客二人の前で行われて面白いか。ロックのライブコンサートに行って客が二人だったら堪能できるか。
学校教育は祝祭の場である。実際、十数人程度の教室で授業をしても面白くない。教員が面白くないのだから生徒も面白くないだろう。必要な盛り上がりを欠く。数学の授業は(私の専門)言ってみれば集団催眠で、盛り上がりの中で何となくわかった様な幻想を生徒が共有すればよいのである。わかるというのはそういうことだ。こういう幻想の共有はある程度人数がいた方が確実にやりやすい。まず単に数の問題として。更に、「そうか」とさっさとこちらの意図を理解する子、こちらを質問攻めにする子、「わからない」とごねる子、こういう子どもたちが適当に分散している事が必要なのだ。わからないけれど恥をすててどんどん発言してくる生徒がいればしめたものである。こういう生徒に「わかった」と言わせればクラスの全員がわかったような気になる。むしろ、四月の初めにはそういうキャラクターの発見と育成に意識的に取り組む。こういう生徒のセットを十人のクラスに揃えるのはまず確率的に難しい。
またホームルームも十数人のクラスの運営は実は大変難しい。同僚からも「人数少なくて楽で良いですね」と妬まれたりするがそんなことはない。クラスが不安定で据わりが悪い。思春期の子どもたちである。一人一人の精神状態は大変敏感で、時に乱調をきたす。高校三年間で精神的な危機を一回も体験しない高校生などいないだろう。多人数のクラスであればこの個人の不安定さが集団の中に埋没し解消していく。不安定なものもいれば、その時たまたま安定したものもいる。精神的なリーダーシップを取るものが必ず現れる。時間と共に交代しながらも座標軸の原点みたいな生徒が必ずいる。集団とはそういうものだ。少人数クラスにはそれがない。一人の不安定にクラス全体が共振し引きずられる。生徒たちはクラスの中で成長モデルを捜し求める。互いに見合いながら自分を理解し成長の方向を見つける。授業でもそうだ。対象への多様な接し方、理解の仕方を見ながら自分なりの理解を深める。少人数クラスではそれができない。ロールモデルの数が少なすぎる。五十人近いクラスの担任もし、十数人のクラスも担任した経験があるが、事務作業だけを見れば明らかに少人数クラスの方が楽だが、生徒指導全体は五十人近いクラスの方が楽だった。
少人数クラスは、授業にしてもホームルームにしても集団指導ではなく、個人指導の集積物になってしまう。結果、仕事量が激増する。体験的に言うと、三十人以上は安定、二十人以下は不安定。どうもこのあたりに、生徒が集団を形成するか個人に解体するかの分岐点がありそうだ。
学校、教室、授業は祝祭の場であり、教育は生徒が個人として受けているのではない。学校教育のこういう側面は、まわりになかなかわかっていただけない。

どうやって減らすか-仕事量(3)

 教師の過剰労働が減らない根本原因は、学校教育について多くの教員と保護者に共有されている「子供の教育のためには、拘束すればするほど良く、手をかければかけるほど良い」という迷信である。どんな制度改革をしても、生徒を減らす、教員増やすなどの量的な処置をしても、社会全体が学校教育についてこの認識を変えない限り教員の過剰労働は解消しない。先述のような、慢性的「積み残し」の強迫観念をあおる。手をかければかける程良い結果が得られるとかんがえるのは、我々が集約農業の伝統を二千年にわたって引きずってきたからだろうか。ヘリコプターで種籾を直播きした後ほっておくような農業は、我々に創造するのがむつかしい。
そもそも人間は、自分の意志で決定し実行するとき最高最良の結果を残す。歴史的に見ても、個人にそのような余地が生まれるとき新しい時代が生まれる。生徒が自分の意志で決定し実行するとき、生徒は最も効率よく自分を伸ばす。とすれば、大人が次世代を担う子供にまず与えるべきなのは自己管理の方法論であるはずだ。質の向上。これができないから、量の拡大で補おうとする。教員や顧問や親が子供を縛り付ける現状、「管理教育」は、生徒が身につけるべき、生徒に身につけさせるべき自己管理を、大人が代行している結果である。当然効率が悪いから際限なく量的拡大の方向に動く。
 なぜ、生徒の自己管理を指導せず、教師の管理の下に縛り付けることになるのか。まずかんがえられるのは、教員が本能的に求める達成感だ。自己管理を身につけること更に大きく言えば大人になることを生徒は文化として学ぶ。上手く学べたときは自分自身でも気付かない。学校を流れる「空気」を吸収して育つ。それは特定の教員の「おかげ」に還元できない。生徒は自分は自分で育ったと思っている。それが理想だろう。実は、教員の緻密な指導によっていたことに卒業後何十年もたって気付いたりする。これでは満足できない教員が多い。直接生徒と関わり教育の実感を掴みたい。生徒に直接「感謝」して欲しい。悪く言えば恩を売りたいのである。
 自己管理を教えるのは、放任することと外見的によく似ていてしばしば誤解され、非難の対象になるのだが、内実は全く違う。自己管理は、教えなくてはならない。しかし手取足取り教えたら自己矛盾だ。生徒の精密な観察と分析、適切な助言、集団全体の育成と誘導。これらを、あたかも生徒が自分で育った様な実感を持たせながら表面的にはさりげなく行う必要がある。授業技術と同じように、(その一部でもあるのだけれど)熟達には時間と経験が必要だ。今、生徒に自己管理を教えること、本来の意味での「自主性の涵養」が技術として意識されることは殆どない。教育技術として失われようとしている。大体今の若い教員自身「管理教育」で育った世代であり「自主性」などといわれてもピンと来ない方が多い。彼らに自己管理を教えることができるのだろうか。
 不思議なことに、方法の合理性を追求することは教育の世界でなかなかできない。学習指導については予備校の方が恐らく遥かに進んでいる。予備校教師に教職調整手当などない。コストは時間単価で厳密に計算されているから、限られた時間で最高の効率を示すのが優秀な講師なのだ。彼らの監修によって書かれた漫画『ドラゴン桜』は優れた方法論解説書なのだが、学校教員にどれだけ評価されただろうか。スポーツの世界も「精神主義」を脱却できない。桑田真澄氏のようにトレーニングの合理性、練習時間の短縮を説く方もいるのだが、未だ少数派だ。彼は、合理的に組み立てられた練習を短時間集中して取り組んだ方が野球は強くなる、と言う。人間全力で取り組める時間には限界があり、それ以上トレーニングを長くすると、体は力を抜こうとする。そして力を抜いたプレーが身に付いてしまうと。学習でも音楽でもあらゆるトレーニングに当てはまるだろう。学校の部活動は必要か、強くなる必要があるのか、これも検討する必要はあるのだが、ともかくこういう発言をする方が増えるのは素晴らしい。
 『ドラゴン桜』のどこかにこういう台詞があった。
「生徒相互に教えあう習慣があるのは、優れた学校の証拠」
素晴らしい。流石だ。自己管理、合理的トレーニングの大切な項目の一つとして有機的な集団形成は欠かせない。学習指導、生活指導、部活動あらゆる側面で生徒相互の学び合い刺激し合いは生徒を伸ばす。教える側は自分を一度対象化し言語化しないと他人に伝えられない。教わる側は自分と同じ水準の言語で語られたことは最も受け取りやすい。生徒は教員によって育つのではない。生徒集団によって育つ。教員の仕事はそのような集団形成を支援することにある。教員が過剰労働の悪循環を断ち切るためにも、こう考えたい。カルガモを田んぼに放して雑草を取らせ、秋には米と鴨肉を売ることを思いついた人を尊敬する。
 学校で熱心に取り組んでいる教員には、これらのことに既に気付いている方が多数いらっしゃるはずだ。ところが、なかか実践できない。何事にしても撤退するのは難しい。戦争でも、撤退戦は最も知略を必要とするらしい。山岳遭難でも、適切な撤退ができなかったために起こる例は限りない。補習量、模擬試験の回数減らしてもし「進学実績」が悪かったら誰が責任取るのだ。練習時間や対外試合の回数減らしてもし本大会で昨年度実績を下回ったらどうする。保護者や管理職、場合によっては同僚教員の脅迫に耐えて、詰め込み教育から撤退するのは大変難しい。かくして進学指導の取り組み、部活動の練習量は増加の側にしか進まなくなる。これはその他学校行事全般にもおよび、特にPTA関係など形骸化した無駄組織や無駄行事がゴミのように溜まっている。
 根本的には、「進学実績」「部活大会実績」は教育の目的か、根本的に考え直さないとうまく行かないのだろう。「進学実績」「部活大会実績」など結果の一部であって決して目的ではないのだが、我々はどこかで道を踏み間違えてしまった。