教員は役者

 教員となって十年経った頃、予備校講師の模擬授業参観が私の一つの転機になった。予備校の講師は授業のプロだ。授業が受験生に評価されまた教えた生徒の伸びと進路が予備校に評価されて、契約の更新がされ給与が決定するハードな世界を勝ち抜いてきた人たちだ。評価システムの是非、授業内容の是非はともかく、授業技術については学校教員より厳しくトレーニングを積んできたこと間違いない。さてその講師だが、会場に到着して控室に通したときは、神経質で無愛想な中年サラリーマン、ぶすっと黙りこくってこちらの挨拶にもちょっと答えるだけ。意外な人物でがっかりもし、心配した。ところが、生徒の待つ大教室に入るや一変。からっと明るい顔になったと思うや
「やあ君たち!こんにちは。僕を呼んでくれてありがとう!」
そこからノリノリの授業。内容も見事。最後に
「時間が来ちゃったからこれで終わるけど、続き聴きたかったら××予備校で僕の授業受けてくれ、さようなら!」
明るく元気に授業終わって控室に帰ってくると、ブスッ。元の暗い人物に戻り、当然のように謝礼受け取ってさっさと帰って行った。そこで私は授業する者の二重性、役者としての教員に改めて気付かされた。
 教壇に立つのは、私ではない。私が演じるA先生だ。私は、教壇に立つA先生の性格を設計し脚本を作りそれを演じる。一人芝居。誰だって教員はそうしている。問題はこのことににどれだけ自覚的かだ。いわば素の自分、役者として教壇に立つ自分、その二重性を対象化しようとするもう一人の自分にうまく分裂していくことが大切のように思う。更に言えば、素の自分なんて無いわけで、家族と顔合わせているときの自分、一人になったときの自分全部違うキャラクターであるように、教壇に立ったときの自分はまた違ったキャラクターであることを自覚し、利用しどう演出するかなのだ。私自身、どちらかといえば人付き合いの苦手な孤立を好む人間なのだが、教室入ったら生徒に対して思いっきり友好的な明るい教員を演じきるよう心がける。生徒の反応見ながらその場で臨機応変に台本を書き、役者としての自分に指示して役を演じさせていく。数学の授業するA先生、HRでクラス集団を相手にするB先生、個人的に相談にのるC先生と似てるけど多少違った役柄を用意し半ば無意識に使い分けているように思う。この二重性を強く意識するようになってから、プロとして授業技術を磨くことが自身自分の中で上手く整理が付き、教員の仕事が随分楽になり、また楽しくなった。
 数年前新聞で、ロックシンガー目指していたがこの道を断念し教員になったという人の記事を読んだことがある。彼は「教員になってみたら、1日に何と3ステージもライブが出来る。こんなすごいことはない。」と語る。この人はいい教員になるはず。私が長い時間かけて意識するようになったことを、ロックシンガーとしてステージに立っていたからこそ、パフォーマーとして教壇に立つことを感覚的につかめている。教員は役者であり、授業は祝祭だ。パーフォーマーとは単に役者であるだけでなく、生徒を単なる観客ではなく、祝祭の参加者として導き入れる能力を持つことだ。簡単に言えば「乗せる」。生徒と教員が一体となって作り上げるお祭りのようになったとき時間はあっという間に過ぎていく。終了の鐘が鳴って生徒が「え、もう終わり?」といってくれたときほど嬉しいものは無いのだが、一年に数えるほどしかできない。
 大学で受けた授業の中にもそういう授業があった。単に教授が教壇で話をし、数式は黒板に示すだけのごく普通の授業だ。1日1話題90分、その講義が見事なのだ。講義の進行と共に熱が入ってくると教授も上着を脱ぎ声にも力が入る。学生や聴講の大学院生立ち見の同僚教員まで教室全体が興奮し熱くなっていくのがわかる。そして燃え尽きるようにその日の話題が完結して終わる。毎回そういう講義をする教授がいた。これがいかに難しいことか、実際に教壇に立って三十年たち、そのすごさを改めて実感する。