教員を始めて数年はもう無我夢中だった。周囲の年配教員並みに仕事ができるようになるために吸収しなければならない知識や技能はそれはたくさんある。見習い期間はないし徒弟制度もない。教員室を出て教室に入れば新任一年目でもベテランと同じ質の仕事が求められる。これは考えてみればかなり特殊な仕事だろう。逆に、教員を始めて数年は実は見習い程度の仕事しかできない。その何年かの夢中な時間が過ぎ、一通りの事を身につけられたかなと思う頃考え込んでしまうことになる。
「自分はどちらの方向に向かって進んだらよいのだ」
「今自分はどれくらいの仕事ができているのだ」
自分の仕事をどうやって評価しようか、立ち止まってしまう。この感覚は教員になるまでわからなかった。対極にあると思われる仕事の例として上げれば、新車のセールスマン。年間何台車を売ったか数字が出る。それを見て自分も満足したり落胆したりするし、周囲も上司も仕事を数字で見る。ここまで極端ではなくても世の多くの仕事には、それを評価する比較的客観的な基準がある。では学校教員は自分の仕事をどうやって評価したらいいのだろう。《周囲と同じ事ができる》という一応の目的が達成されたとき、次の一歩を踏み出すのは教員にとって結構大変な事なのだ。
教員を志望した動機はもちろんあって自分の理想とする教育を実現したいと心の底では誰でも思っている。逆に、そういう理想をたやすく多様な可能性をもって描くことのできる恵まれた仕事でもある。しかしその理想に対して、今自分のやっていることを評価するのは大変難しい。教員の行動が、他の社会から見て理解しがたい面があるのはこの所為だ。
スキューバーダイビングで事故が起こったとき、冬山登山で雪崩に巻き込まれたとき、パニックになると人間は上下の感覚を失うらしい。雪崩に埋まった人が懸命に下に向かって穴を掘っていた、という話を聞いたことがある。教員の仕事をしていると、そういう感覚に襲われることが少なからずある。先述の仕事のスキルを一応身につけたとき、困難な局面に遭遇したとき、逆にあまりに平穏無事なとき。自分の位置と進むべき方向を見定める「座標軸」が欲しい。教員共通の心情だろうと思う。教員は評価を求める。
教育の国家統制を廃しファシズムの危険を取り除くため、教員の仕事に対し「客観的」評価基準を設けることは戦後教育の中で長く禁忌とされてきた。勤評闘争での日教組の主張はその後長く教育の世界で規範として存在してきたと思う。それがなし崩し的な今崩壊過程にあり、「教員評価」が全国で進行している。これにどう対抗していけばよいのだろう。
「教員評価」がこれまで浮上してこなかったのは、労働組合のためだと思っている。日教組が政治勢力として、勤務評定を抑えてきたという面もあるだろう。さらに学校の現場では、組合がそれなりの強い理念を提供し続けてきたことが大きい。理念の是非は別に論ずるとして、行政と管理職が提示する理念とは別の方向を向いたもう一つの価値基準が学校に持ち込まれていたことが大切なのだ。その基準に全面的に身を寄せる者もいたが、それだけではない。多元的な価値基準があり、それぞれの基準からの距離を測定することで、自分の位置を見定めやすかった事が教員集団の健全さや活気に貢献していたと思う。その組合の持ち込む理念が弱体化し、並行して「教員評価」を巡る様々な問題が浮上し同時に、上からの「教員評価」強化が進み始めた。
教育を巡る多くの問題が、この「教員評価」を自ら求める教員の心情と関連している。いわゆる「成果主義」。教員は評価が欲しい、目先の結果が欲しい、誰でも思っている。
目先の結果で恐らく最も簡単に手に入るのが、部活動だ。(クラブのことを今《部》と呼ぶ)学校外の方には意外に感じられるかも知れないが。スポーツ系はもちろん吹奏楽など一部の文化系ん活動には大会があって、そこで成績が出される。これは教員にとって大変わかりやすい評価となる。部活動はその意志のある生徒が任意で集まってくる、去るのも自由だし教員の側から止めさせるのも比較的簡単だ。つまり、生徒の意志をまとめるのが簡単だ。部活動の指導は個人もしくは少人数の教員に任されていて、多人数の共同作業でないから思った通りに運営できる。どうすれば成果が出るか多少の情報収集をし、労力を惜しまずそれを実践すれば、必ず短期間で答が出る。学力を向上させたり学校全体の空気を変えるために必要な労力と時間に比べればずっと少なくて済む。生徒は結果を得て喜ぶ。保護者から感謝される。学校の宣伝になるから管理職から認められる。同僚から褒められる。それも集団としての成果でなく、手柄が個人に還元される。だから教員は部活動に力を注ぎ、過熱する。生徒の自主的な集団形成を通じた主体性や社会性の涵養といった本来の目的が忘れられる。
学習指導でわかりやすいのが受験結果。進学先の学校は偏差値で数値化されているから、結果は簡単に数値化される。保護者、行政、管理職の要請という側面も勿論あるのだが、教員自ら成果を求めて受験指導に走るから、これだけ広く行きわたる。部活動より大きく生徒の人生を左右するから教員に達成感がある。生徒が感謝する。保護者が喜んでくれる。学校や行政は宣伝になるから高く評価する。教員はなるべく自分個人の手柄にしたいから、生徒を縛り付ける。授業、課題、補習、個人指導。
こういった目先の成果から距離を置いたところから、教員は本来何をすべきなのか考えていくことになる。組合が代表していた戦後民主教育の理念が弱体化し、目先の成果主義が横行しそれ自身が上からの「教員評価」になり始めている現在、どんな道があるだろう。